作品タイトル不明
蟹江の一件をまとめた一行が松坂に帰る。もはや官位がいるなwwwただの飯屋ではない動きwww嫌がる博之
蟹江での一件をどうにかまとめた帰り道、博之たちは九鬼水軍の船に揺られていた。
蟹江の港を離れ、桑名を経て、松坂へ戻る。海の上に出ると、さすがに張り詰めていたものが
少しずつ抜けていった。港では住民たちに何度も頭を下げられ、常滑や津島の話までしてしまい、
博之はずっと調子が狂いっぱなしだった。
だが、船の上の空気は妙に明るかった。
特に、九鬼水軍のまとめ役と、松坂の殿様――正確には「今日は飯屋の友達として来た」と
言い張っていた北畠方の城主――が、えらく楽しそうにしている。
「いやあ、面白かったな」
松阪の城主が、海を見ながらけらけら笑った。
「面白いで済ませていい話じゃないですよ」
博之は船縁に座り込み、疲れた顔で言った。
「百五十万文ですよ。百五十万文。なんであんな話になったんですか」
九鬼のまとめ役が、腹を抱えて笑う。
「あれは織田方の侍が悪いわ。冗談でも百五十万文言うたらあかん」
「ほんまやな」
松阪の城主も頷く。
「けどな、あいつが百五十万文と言うた瞬間、俺はまとまると思ったぞ」
「なんでですか」
博之が嫌そうに聞くと、殿様はにやりとした。
「こっちは奈良の坊さんの件を知っとるからな」
博之は、さらに嫌な顔をした。
「あれを引き合いに出さないでください」
「五十万文くれと言われて、腹が立ったから百五十万文投げた男やぞ。そら、蟹江で
百五十万文と言われたら、出すやろ」
「出したくて出したわけじゃないです」
「でも出した」
「出しましたけど」
「ほらな」
九鬼のまとめ役が笑いながら言う。
「旦那は、銭を持つより使う方が怖いわ。普通は値切る。普通は怒る。普通は帰る。
旦那は、百五十万文で半年の時間を買う」
「買いたくなかったです」
「買えたからええやろ」
博之は海を見ながら、深いため息をついた。
「半年止める。城下に戻りたい人は戻す。郊外や港に残りたい人は残す。寺社も認める。
うちは飯場と湯浴みを続ける。さらに尾張で商売する許可も取る。冷静に考えると、
何をやってるんでしょうね」
「飯屋や」
松阪の城主が即答した。
「飯屋の範囲、広すぎません?」
「広い飯屋やな」
「嫌な言い方ですね」
九鬼のまとめ役が、少し真面目な顔になった。
「けど、実際、半年の時間は大きいぞ。その間に蟹江の者は選べる。戻る者、港に残る者、
桑名に下がる者、常滑や津島へ行く者。人を動かせる」
「そこですよね」
博之は頷いた。
「百五十万文は痛いですけど、半年あれば、飯場も整えられる。商売を教えることもできる。
常滑や津島へ送る準備もできる。逃げた人をそのまま放っておくよりは、まだいい」
「しかも、尾張で商いする許可も取った」
松阪の城主が楽しそうに言う。
「常滑焼、瀬戸焼、津島、海の道。お前、また飯の道を増やしたな」
「増やすつもりじゃなかったんです」
「増えたやん」
「増えましたけど」
「なら同じや」
博之はまた肩を落とした。
「津島と常滑の権利をもらったのは、確かに大きいです。蟹江で住めなくなった人に
仕事を作れますし、常滑焼や壺、水がめも伊勢で売れるでしょう。瀬戸焼もいずれ欲しい。
津島は市として強い。海の道で九鬼さんにも協力してもらえれば、尾張の品が松阪や伊勢に入る」
「ほら、もう考えてるやないか」
九鬼のまとめ役が笑う。
「考えますよ。百五十万文払ったんですから」
「元取らなあかんな」
「そういう言い方は嫌ですけど、時間を有効に使わないと、ただの銭ばらまきになります」
松阪の城主が満足そうに頷いた。
「そうや。その半年で、蟹江の人を逃がすだけやなく、使える人を育てる。常滑、津島の足場を作る。
織田にも、一向衆にも、国人衆にも、伊勢松坂屋と揉めるより、使った方が得やと思わせる」
「殿様方は、すぐそういう話にしますね」
「お前も十分してるぞ」
「私は飯屋です」
「飯屋が百五十万文で停戦を買うな」
博之は返す言葉に詰まった。
しばらく、船の上に笑い声と波の音だけが残った。
やがて、松阪の城主がぽつりと言った。
「しかし、これで北伊勢や尾張の国人衆が、また転がり込んできたら、いよいよ官位を
あげた方がええな」
博之は、嫌な予感を覚えて顔を上げた。
「官位?」
「そうや。飯にまつわる官位がええな」
「嫌です」
「まだ何も言うてへん」
「もう嫌な予感しかしません」
九鬼のまとめ役がにやにやする。
「飯の守、とかどうや」
「そんな官位あるんですか」
「知らん」
「やめてください」
松阪の城主が笑いながら言う。
「大膳亮とかどうや。飯を司るにはぴったりやろ」
博之は露骨に嫌な顔をした。
「嫌ですよ。そんな名前もらったら、ますます飯屋じゃなくなるじゃないですか」
「飯屋やから大膳なんやろ」
「飯屋は飯屋でええんです」
「従五位下、大膳亮、伊勢松坂屋博之。ええやないか」
「全然よくないです」
「民に飯を食わせ、兵に飯を食わせ、寺社に米を回し、九鬼水軍ともつながり、
蟹江では半年の停戦まで買った男やぞ。大膳亮くらい名乗らんと、格好がつかん」
「格好つかなくていいです」
博之は本気で嫌そうだった。
九鬼のまとめ役が、さらに悪ノリする。
「飯の神、みたいになってきたな」
「やめてください」
「飯の守、飯の神、大膳亮。どれがええ?」
「どれも嫌です」
松阪の殿様は、腹を抱えて笑った。
「嫌がる顔が一番面白い」
「人の人生で遊ばないでください」
「遊んでへん。北畠としても、お前みたいな妙な飯屋をどう扱うか、そろそろ名前がいるんや」
「名前なんかいりません。伊勢松坂屋の旦那で十分です」
「蟹江の民は、もうそれを大名みたいに呼んどったぞ」
「それが嫌なんです」
博之は船縁に額をつけそうなほど項垂れた。
「私は松阪の屋敷でごろごろして、飯のこと考えて、たまにスケベなこと
考えてるだけのじじいなんです」
「そんなじじいが、百五十万文で蟹江を半年止めるか」
「成り行きです」
「成り行きで国人衆が転がり込んでくる男には、官位がいる」
「いりません」
お花が横で静かに言った。
「旦那様。嫌がるお気持ちは分かりますが、名前があることで守られる場面もあります」
博之は、信じられないものを見る顔でお花を見た。
「お花さんまで?」
「名がなければ、ただの銭を持った飯屋として狙われます。北畠の推挙で大膳亮のような名がつけば、
少なくとも雑には扱いにくくなります」
ヨイチも頷いた。
「帳簿上も、交渉上も、肩書きは役に立ちます」
「帳簿に官位を持ち込まないでくれ」
「持ち込みます」
博之は天を仰いだ。
「味方がいない」
松阪の城主が楽しそうに言った。
「まあ、今すぐとは言わん。けど覚悟しとけ。北伊勢の国人衆、蟹江、尾張、常滑、津島。
これ以上転がり込んできたら、ただの飯屋ですでは通らん」
「通してくださいよ」
「無理やな」
「九鬼さんも何とか言ってください」
九鬼のまとめ役は笑った。
「俺はええと思うぞ。大膳亮。船に飯をくれる官位や」
「雑すぎる」
「船の者は飯に弱いからな」
船は、ゆっくりと松坂へ向かっていた。
蟹江の重い空気から離れ、海の風が少しだけ博之の顔を冷ました。だが、頭の中では百五十万文、
半年の停戦、常滑、津島、大膳亮という言葉がぐるぐる回っていた。
「ほんま、飯屋って何なんやろな」
博之がつぶやくと、松阪の城主が即座に返した。
「少なくとも、お前の飯屋はもう普通やない」
「普通がよかったです」
「嘘つけ。道を作るの楽しい言うてたやろ」
「それはそうですけど」
「なら腹をくくれ。飯の道を作る男は、たまに戦の道も曲げるんや」
博之は、また嫌な顔をした。
「本当に、そういう格好いいこと言わないでください。後で私が困ります」
城主と九鬼のまとめ役は、また笑った。
松坂の港が近づいてくる。
帰れば、帳簿が待っている。
蟹江への文も書かなければならない。
常滑と津島の準備もしなければならない。
そして、どうやら官位の話まで出てきた。
博之は、波を見ながら小さく呟いた。
「松坂に帰ったら、しばらくごろごろしたい」
お花が即答した。
「帳簿の後です」
「官位より帳簿の方が怖いわ」
船の上に、また笑いが広がった。