軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

蟹江騒乱。北伊勢国人衆の領地に織田家が侵入。蟹江が織田家に占領される。矢銭や炊き出しをねだられる。

蟹江の港では、伊勢松坂屋の者たちが、少しずつ港まわりを整え始めていた。

まだ松坂や伊勢ほどの形にはなっていない。だが、荷を置く場所、飯を出す場所、魚を選り分ける場所、簡単な湯浴みの支度、休むための小屋。そういうものが、少しずつ形になりつつあった。

蟹江は、尾張へ入る手前の大事な足場である。

ここを整えれば、津島や熱田、常滑、瀬戸物の道も見えてくる。伊勢松坂屋としては、

まだ大きく構えるつもりはない。あくまで飯場と荷の流れを作り、地元の寺社や漁民と顔をつなぎ、

少しずつ信用を積む段階だった。

ところが、その最中である。

蟹江の砦が、織田方に押さえられたという知らせが入った。

もともとこのあたりは、力の境目のような土地である。昨日まで誰に顔を立てていれば

よかったものが、今日には別の旗に変わる。戦国の世では珍しい話ではない。

だが、飯屋にとってはたまったものではなかった。

「今後は織田の領地である。蟹江で商いをするなら、挨拶に来い」

そういう話が来た。

伊勢松坂屋の蟹江のまとめ役は、ひとまず筋を通すことにした。揉めるつもりはない。

土地の旗が変わったなら、挨拶には行く。飯屋としては当然である。

しかし、向かった先で待っていた織田方の武将、滝川の筋の者たちは、最初からかなり高圧的だった。

「伊勢松坂屋とか言うたか」

「はい。伊勢松坂屋の者にございます。このたび蟹江の港にて、

飯場と小さな横丁を整えさせていただいております。まずはご挨拶をと思いまして」

「ふん。飯屋がえらい大層な口を利くな」

その言い方に、伊勢松坂屋の者たちは内心で少し眉をひそめた。

今まで、北畠にも、六角にも、奈良の寺にも、九鬼水軍にも、さまざまな相手と話をしてきた。

気難しい者もいた。格式を振りかざす者もいた。だが、少なくとも話の筋は通じた。

目の前の相手は、どうも最初から見下している。

「いえ、私どもはただの飯屋でございます。ただ、地元の皆様にご迷惑をかけぬよう、

寺社の方々にもご挨拶し、炊き出しなどもさせていただきながら、少しずつ進めております」

「炊き出しだの飯場だの、聞こえはよいが、要は銭を集めておるのだろう」

「銭は動いております。ただ、それは荷を買い、飯を出し、人を雇い、地元に落とすためでございます」

「なら、その銭をこちらにも出せ」

場の空気が少し変わった。

「こちらにも、でございますか」

「当然だろう。ここは織田の領地となった。領内で商いをするなら、戦の支えをするのが筋だ。

兵糧でも銭でも出せ」

伊勢松坂屋のまとめ役は、慎重に頭を下げた。

「兵糧の支え、飯の支度、荷運び、人足の飯場、そういうことであれば、できる限りの

ことはいたします」

「銭は」

「銭をそのまま差し出すことは、できかねます」

滝川の者の目が細くなった。

「できぬ?」

「はい。私どもの銭は、従業員の飯、寝床、湯浴み、買い付け、炊き出し、地元への礼、

荷の手当で動いております。戦のためにまとめて差し出すことは、飯屋としての筋から外れます」

「飯屋が筋を語るか」

「飯屋だからこそでございます」

言った瞬間、伊勢松坂屋の者たちの中で、少し緊張が走った。

これは、まずい。

相手は理屈を聞きたいのではない。従わせたいのだ。

滝川の者は、鼻で笑った。

「なら、港でやっている横丁をやめさせるぞ」

「それは……」

「困るだろう。飯屋が飯を出せねば終わりだ」

まとめ役は言葉を選んだ。

「私どもが困るだけなら、まだよろしいのですが」

「何?」

「港の漁民、荷運び、人足、寺社へ炊き出しに来る者たち、近くの飯屋、物売り。

少しずつではございますが、蟹江の港では、伊勢松坂屋の飯場を中心に、

人と銭の流れができ始めております」

「だから何だ」

「それを急に止めますと、地元の方々にもかなり影響が出ます」

「脅しか」

「いえ。事実を申し上げております」

滝川の者は、明らかに不機嫌になった。

「飯屋ごときが、地元を盾にするか」

その時である。

同席していた地元の寺の住職が、慌てて口を挟んだ。

「お待ちくだされ。それは、本当にまずいと思います」

「何だ、坊主」

「伊勢松坂屋さんは、このあたりで炊き出しをしてくださっております。困った者に飯を出し、

荷運びの者に仕事をつくり、港の漁民からも魚を買ってくださる。急にやめさせると、

地元にかなり不満が出ます」

別の町屋の年寄りも続いた。

「それに、伊勢松坂屋さんは、もう大きな商いをしておられます。松阪、伊勢、白子、草津、大津、

奈良まで道があると聞きます。雑にぶつからん方がよろしいかと」

「大きな商いだと?」

「はい。飯屋とは言うても、ただの飯屋ではございません。荷も人も動かしております。

ここで揉めて、蟹江の港に荷が来なくなれば、困るのはこちらでもあります」

「わしを脅しておるのか」

「違います。止めております」

住職は、はっきりと言った。

「織田様の領地になったからこそ、地元が潤う仕組みは使うべきです。最初から銭を出せ、

横丁を潰すぞ、とやれば、飯屋だけでなく民も離れます」

滝川の者は、苛立った顔で周囲を見た。

漁民の顔役も、黙ってはいるが、賛同している様子だった。飯場で働き始めた若者たちも、

遠巻きに不安そうに見ている。

伊勢松坂屋の者たちは、必要以上に言い返さなかった。

ただ、黙って頭を下げている。

その態度が、かえって滝川の者には面白くなかった。

「ふん。飯屋がずいぶん守られておるな」

住職が言った。

「守っているのではありません。ここに必要だから、皆が止めているのです」

町屋の年寄りも頷く。

「銭をそのまま取るより、飯場を続けさせた方が、長い目で見れば得でございます。

荷が通れば銭が落ちます。人が集まれば市も立ちます。兵糧が必要な時も、飯場があれば助かります」

滝川の者は、しばらく黙った。

織田方として、蟹江を押さえた以上、港の流れは欲しい。だが、その流れを作り始めている

伊勢松坂屋を、初手で潰すのは確かに得策ではない。

しかも、地元の者たちがここまで庇うとは思っていなかった。

「……よい。今回は、顔を立てておく」

ようやく滝川の者は言った。

「ただし、今後は織田方の領内であることを忘れるな」

伊勢松坂屋のまとめ役は深く頭を下げた。

「もちろんでございます。飯場、炊き出し、荷の手当、兵の飯の支度など、できることはいたします。

地元の方々の顔を立てながら、丁寧に進めさせていただきます」

「銭は出さんのだな」

「必要なものを買い、必要な飯を出し、必要な荷を動かすためには使います。ただ、

銭だけを差し出すことはできません」

「頑固な飯屋だ」

「飯屋ですので」

その一言に、周囲の者たちは少しだけ苦笑した。

会合が終わり、伊勢松坂屋の者たちは外へ出た。

若い衆の一人が、小さく漏らした。

「……あの人は、ないですね」

「言うな」

まとめ役は低く制した。

「でも、正直、態度悪すぎますわ」

「分かっている。だが、ここは織田の旗が立った。顔は立てなあかん」

「でも、飯を食わせる相手としては、ちょっと嫌です」

「そう思われた時点で、あちらも損をしてるんや」

まとめ役は振り返り、蟹江の港を見た。

飯場からは湯気が上がっている。漁民が魚を持ち込み、女衆がまぜ飯をよそい、

寺の者が炊き出しの段取りを見ている。

「ここを潰されたら困るのは、うちだけやない」

「だから、住職さんたちが止めてくれたんですね」

「そうや。地元に丁寧にやってきたから、今止めてもらえた。これを忘れたらあかん」

若い衆は、少しだけ背筋を伸ばした。

「じゃあ、松坂にはどう伝えますか」

「ありのままや。蟹江の砦が織田方に押さえられた。滝川筋の者が挨拶に来いと言い、

銭を求めた。こちらは飯と荷なら協力するが、銭そのものは出せぬと返した。

横丁を止めるぞと言われたが、地元の寺社や町屋が止めてくれた」

「旦那様、嫌がりそうですね」

「嫌がるやろうな」

まとめ役は苦笑した。

「けど、こういう土地に入っている以上、避けては通れん。尾張は伊勢や近江とはまた違う。

織田のやり方も見る必要がある」

港では、いつものように飯が出ていた。

だが、その日から蟹江の空気は少し変わった。

伊勢松坂屋は、尾張の入り口で、初めて織田方の荒い手触りに触れた。

飯屋としては、揉めたくない。

しかし、道を作れば、必ず武家とぶつかる。

蟹江の港に立つ湯気の向こうで、尾張への道は、思ったよりもざらついて見え始めていた