作品タイトル不明
蟹江騒乱のその後、一旦膠着。今後の織田との付き合いは検討中。一方で伊勢神宮での海鮮焼きの運用方針決定。
蟹江からの知らせが松阪に届いたのは、騒ぎが起きてから数日後のことだった。
文を持ってきた使いの者は、かなり疲れた顔をしていた。博之は屋敷の奥でそれを受け取り、
ざっと目を通した瞬間、眉間にしわを寄せた。
「……面倒くさいことになったな」
お花が横から顔を上げる。
「蟹江ですか」
「うん。蟹江の砦を織田方が取ったらしい」
ヨイチが帳面から目を離した。
「織田方が、ですか」
「そうや。で、蟹江で商いを続けるなら城へ挨拶に来いと言われた。そこまでは分かる。
土地の旗が変わったなら、顔を出すのは筋や」
「問題はその後ですね」
「飯と銭を出せと言われたらしい」
博之は文を畳の上に置いた。
「飯は出す。兵の飯、荷運びの飯、人足の飯、そこはやる。けど銭そのものは出せん、と返したそうや」
「それは筋が通っています」
「うん。うちらの銭は飯場、寝床、湯浴み、買い付け、炊き出し、地元への礼に使うものや。
武家にそのまま差し出すための銭ではない」
するとお花が、少し硬い顔で言った。
「それで揉めたのですね」
「横丁を潰すぞ、と言われたらしい」
部屋の空気が少し重くなった。
「ただ、普段の炊き出しのおかげで、周りのお寺さんや地元の人たちが止めてくれた。
伊勢松坂屋を雑に潰すと、港の人足、漁民、飯場に来る者、炊き出しを受ける者、みんな困ると」
「地元が守ってくれたわけですね」
「そうやな」
博之は小さく息を吐いた。
「そこは、蟹江の者たちが丁寧にやってくれてた証拠や。よう踏ん張ったと思う」
しかし、顔は晴れなかった。
「津島に行くまでに、ある程度足場を固めたかったんやけどな。蟹江で足止めか」
「尾張方面は、やはり荒いですね」
「お手並み拝見かな」
博之は、少し皮肉っぽく笑った。
「あの辺は、ずっとがちゃがちゃ揉めてる土地や。どうなるかやな。ただ、
少なくとも今のやり方では、町の人たちを治めるのは難しいんちゃうかと思う」
ヨイチが静かに言った。
「向こうには、うちの情報があまり入っていないのでしょう」
「それもあるやろな。蟹江は伊勢から遠い。松阪や伊勢、白子、草津ほど、伊勢松坂屋が何を
してるか伝わってない」
「だから、普通の飯屋か、銭を持った商人くらいに見た」
「そういうことやろう」
博之は少しだけ声を低くした。
「けどな、治める者として、民に対して穏便であることは必要やと思うんや。
戦で土地を取り合うのは、武家の勝手や。けど、その土地で飯を食ってる者、
働いてる者、寺で炊き出しを待ってる者まで、雑に扱ったらあかん」
お花が頷く。
「松阪や伊勢で、それは嫌というほど見てきましたからね」
「長野様との件もそうや。北畠様も六角様も、少なくとも話は通じた。奈良は奈良で
格式が面倒やったけど、銭を投げて説教して、結局は形になった。上野は干渉地帯やったし、
津は長野様と北畠様の関係があった。なんだかんだ、うちは恵まれてたのかもしれんな」
「今回は、戦の境目に入ったということです」
「そうやな」
博之は文をもう一度見た。
「飯の道を通すには、こういう火種も付き物なんやろう。道を作るっていうのは、楽しいだけやないな」
しばらく沈黙が落ちた。
それから博之は、ぱん、と軽く膝を叩いた。
「まあ、我らは粛々とやる。蟹江には、地元への炊き出しをさらに丁寧に続けるように伝えてくれ。
織田方には、飯と兵糧の支えはできる。ただし銭そのものは出せない。この線は崩さん」
「承知しました」
「あと、蟹江の者たちには褒めといてくれ。地元が止めてくれたというのは、
今までの積み重ねや。これは大きい」
ヨイチが筆を取る。
「蟹江には、炊き出し継続、地元寺社との連携強化、織田方への礼は欠かさない、
ただし現金供出は断る、という文ですね」
「うん。それでええ」
そこで、お花がふと聞いた。
「旦那様。もう一つ決めることがあったのでは?」
「何や」
「海鮮焼きです」
「ああ、それや」
博之の顔が少しだけ明るくなった。
「海鮮焼きの運用は、そろそろ固めたい」
「伊勢神宮向けですね」
「うん。持ち帰りは六個百五十文。店の中で信楽焼に乗せて食うなら二百文。ここまではええ」
「体験は?」
「完全予約にする」
ヨイチが顔を上げた。
「完全予約ですか」
「そうや。飛び込みで入ってこられると面倒くさい。焼き場の人数も限られるし、
女衆の負担も大きい。体験は全部予約制。ゆっくり焼いて、ゆっくり食べてもらう」
「前の試しでも、予約枠は埋まりましたからね」
「そこや。完全予約の方がむしろ価値が出る」
「値段はどうしますか」
「四百五十文」
部屋が少し静かになった。
「なかなか強気ですね」
「その代わり、お礼札を五枚渡す」
「五枚」
「一枚十五文。五枚で七十五文分やな」
お花がすぐに目を細めた。
「旦那様。また何か言おうとしていますね」
「四十五縁がありますように、や」
「また駄洒落じゃないですか」
「いやいや、四百五十文やろ。四十五縁がありますように。さらに五縁の札が五枚。縁起ええやろ」
「札は十五文です」
「そこは気持ちや」
ヨイチが呆れたように笑った。
「旦那様、商売としては成立します。四百五十文で、七十五文分の札を配る。実質は三百七十五文。
周辺の店にも客が流れる。体験価値も高い」
「そうやろ」
「ただ、決め台詞は少し考えた方がいいかと」
「ええやん。四十五縁がありますように」
「お伊勢さんの前で、それを言いすぎると怒られませんかね」
「怒られたら変える」
お花はため息をついた。
「でも、完全予約は良いと思います。飛び込みの混乱を避けられますし、焼き手の負担も減ります。
体験に来る人も、最初から値段を分かった上で来ます」
「そうや。買えなかった人が騒ぐのを減らせる。しかも札を渡すから、周りの店にも流せる」
「持ち帰り百五十文、店内二百文、完全予約四百五十文で札五枚」
ヨイチが帳面に書きつける。
「一旦、この形で決定ですね」
「うん。こっちはこっちで決めよう」
博之は頷いた。
「蟹江は蟹江で火種や。尾張は荒い。けど、伊勢神宮の海鮮焼きは、こっちの主戦場や。
こっちは丁寧に、揉めないように、でもしっかり稼ぐ」
「飯屋らしいですね」
「飯屋やからな」
お花が少し笑った。
「今日の旦那様は、蟹江で苦い顔をした後、海鮮焼きで少し元気になりましたね」
「飯の話は元気出るんや」
「それは良いことです」
博之はもう一度、蟹江からの文を見た。
尾張の道は、思ったよりざらついている。
織田方の扱いも、まだ読めない。
だが、蟹江の地元が守ってくれたことは大きかった。
飯場を作る。炊き出しをする。地元の顔を立てる。
それは、いざという時に自分たちを守る盾にもなる。
「やっぱり、炊き出しは丁寧にやらなあかんな」
博之がぽつりと言うと、ヨイチもお花も頷いた。
「はい」
「商いだけでは、道は守れません」
「そうやな」
蟹江では、新しい火種が生まれた。
一方で、伊勢では海鮮焼きの形が固まりつつあった。
尾張の荒い風と、伊勢の飯の熱。
その両方を抱えながら、伊勢松坂屋はまた一つ、次の段階へ進もうとしていた。