作品タイトル不明
一方の六角家。松坂まで挨拶に来た一行の代表が殿様に報告をする。博之の北畠の殿様との距離、九鬼水軍との親密度が気になる
その頃、六角の観音寺城では、松坂から戻った代表の者が、六角の殿様に報告をしていた。
殿様は上座に座り、静かに話を聞いている。周囲には重臣たちも控えていた。
伊勢松坂屋という飯屋について、すでにいくらかの噂は届いている。だが、噂と実際に見た者の
話では重みが違う。
「それで、どうであった」
殿様が問うと、代表の男は深く頭を下げた。
「まず、松坂は思っていたより開けた町でございました」
「ほう」
「北畠の城下ということで、もう少し武家の匂いが強いかと思っておりましたが、
商いも人の流れもあり、何より伊勢松坂屋の横丁が思った以上に整っております。飯場、
荷置き、湯浴み、寝床、簡単な市。どれも一つ一つは飯屋の延長に見えますが、合わせると
小さな宿場のようでもございました」
「飯はどうであった」
「うまいです」
代表は、そこだけは迷わず答えた。
「まぜ飯、肉あん、汁物、魚のすり身揚げ。どれもよくできております。湯浴みの後に食う飯など、
正直に申せば、こちらの者たちもかなり気が緩みました」
重臣の一人が鼻で笑った。
「飯で緩むとは」
「笑えませぬ。あれは緩みます」
代表は真顔だった。
「しかも、ただうまいだけではございません。食う場所、休む場所、湯に入る場所、荷を置く場所、
それがまとめて整えられております。あれを一度味わえば、荷運びの者や従業員が
離れにくくなるのも分かります」
殿様は少しだけ目を細めた。
「松坂の殿にも会ったのだったな」
「はい。思ったより気さくなお方でした。伊勢松坂屋の博之とは、かなり距離が近うございます」
「近いとは」
「茶化しながらも、互いに遠慮が少ない。松阪の殿は、博之を飯屋と呼びつつ、ただの飯屋としては
扱っておりません。伊勢松坂屋の動きが北畠に利をもたらすことも、危うさを持つことも、
よく分かっておられるようでした」
「なるほど」
「それと、九鬼水軍です」
代表は少し声を低くした。
「我らは松坂の港から船に乗り、白子まで出ました。その際、九鬼水軍の者と接しましたが、伊勢松坂屋との距離が近い。気安く話しているようで、しかし肝心なところは見せぬ。互いに慣れております」
「九鬼と親しいか」
「少なくとも、ただの客と船頭という関係ではございません。魚の扱い、港の荷、船の段取り。
伊勢松坂屋は、かなり深く海の商いに関わっております」
殿様は肘掛けに指を置いた。
「肝心なところは隠されたか」
「はい」
「何を隠していた」
「それが、正確には分かりませぬ」
代表は悔しそうに言った。
「表向きは、飯の仕込みを見せられない、という言い方でした。確かに、飯屋なら仕込み場を隠すのは
分かります。ですが、あれは単に料理の手順を隠しているのではありません。もっと大きな
何かを隠している感じがいたしました」
「大きな何か」
「はい。松阪の港では、荷の動き、飯場、魚の選別までは見せました。しかし、妙に空いている
場所がある。普段ならもっと何かをしているのではないか、と思う場所です。
九鬼水軍も同じです。話せることは話すが、ある一点から先は、まるで示し合わせたように
口を閉じる」
「示し合わせた、か」
「はい。松坂の殿から何か言われているのかもしれませぬ」
重臣の一人が言った。
「脅せば吐くか」
殿様はそれを聞いて、代表を見た。
「どう思う」
代表は少し考えた。
「試してみねば分かりませぬ。ただ、安易に脅すのは得策ではないかと」
「なぜだ」
「まず、北畠の顔がございます。伊勢松坂屋は北畠領内で大きく動いており、松坂の殿とも近い。
次に九鬼水軍です。海の道で親しい。さらに北伊勢の国人衆が、伊勢松坂屋の荷を守ることに
価値を見出しております」
「飯屋一つ脅すには、関わる者が多いということか」
「はい。しかも、あの者らは飯屋の顔をしております。脅したこちらが、飯を出す者を
いじめたように見える危うさもございます」
殿様は少し笑った。
「飯屋の顔は便利だな」
「便利です。厄介でもあります」
代表は続けた。
「白子へ入って、それが少し分かりました。白子は北畠の直轄ではございません。けれど、
すでに伊勢松坂屋の荷が通り、魚が集まり、簡単な飯場ができております。松坂ほど
整ってはおりませんが、芽はあります」
「北伊勢の国人衆が、なぜ先に伊勢松坂屋へ挨拶したか、そこで分かったか」
「はい。彼らは、伊勢松坂屋の荷を通すことで、自分たちの土地を価値あるものに見せようと
しております。六角、北畠、織田。その間に挟まれる中で、ただの国人衆ではなく、
荷が通る土地、守る価値のある土地だと示したいのでしょう」
「それで、飯屋に先に頭を下げた」
「はい。順番としてはおかしゅうございます。普通なら六角か北畠へ先に来るべきところです。
ですが、彼らにとっては、伊勢松坂屋の荷が通ること自体が、自分たちの価値を高める
手段になっております」
殿様は静かに頷いた。
「物流拠点ができあがりつつある、ということか」
「そう見えます」
「松阪、白子、関、草津。そこに飯場があり、荷があり、護衛があり、湯浴みがある。
飯屋が道を作っている」
「その通りです」
重臣たちは、少しざわついた。
飯屋が道を作る。
言葉だけ聞けば馬鹿げている。だが、報告を聞けば笑い飛ばせない。
殿様は代表を見た。
「博之という男は、どのような人物であった」
「威厳はございません」
代表は即答した。
その場に小さな笑いが起きた。
「荷車の端にちょこんと座り、道中もだらだらしておりました。石を踏んで荷が揺れると、
がちゃがちゃ鳴るのを何とかならんかと文句を言い、お花という側近の女に、
文句があるなら歩きなさいと叱られておりました」
殿様も少し笑った。
「それが、噂の飯屋か」
「はい。抜けているように見えます。自分をただの飯屋だと言い張ります。政治の話になると
困った顔をします。ですが、飯の話、荷の話、人の休ませ方になると妙に筋が通る」
「飯の才がある、ということか」
「それは確かです。ですが、飯の才だけでここまでの規模の物流を動かせるとは思えませぬ」
代表の声は、慎重だった。
「裏に誰かいるのか」
「それも考えました。ですが、見たところ、博之一人がすべてを動かしているわけではありません。
ヨイチという帳簿を見る者、お花という現場を締める者、買い付け隊、各拠点のまとめ役。
仕組みとして動いております」
「仕組み、か」
「はい。むしろ、そこが怖い。博之一人を捕まえれば止まる、というものではないかもしれません」
殿様はしばらく黙った。
やがて、低い声で言った。
「肝心なところを隠す。隠すだけの何かがある。だが、見せてもよいところは見せる。
松坂と白子を見せ、伊勢は見せない。水軍との関係は見せるが、中身は見せない。
これは意図して分けておるな」
「そのように思います」
「誰の意図だ」
「松阪の殿か、博之か、あるいは両方かと」
「ふむ」
殿様は腕を組んだ。
「で、うちで何がしたいのだ。飯を出すだけならよい。草津や大津で市をやる程度なら、
こちらも利がある。信楽焼の流れを太くするのも悪くない。だが、規模が大きくなり、
北畠の殿や九鬼水軍と親しく、北伊勢の国人衆まで寄ってくるとなると、警戒せねばならん」
「はい」
「かといって、敵と見るには、飯屋の顔をしている」
「はい。そこが難しいところです」
代表は頷いた。
「脅せば逃げるかもしれませぬ。抱え込もうとすれば、北畠に寄るかもしれませぬ。放っておけば、
勝手に道を作るかもしれませぬ」
「厄介だな」
「厄介です。ただ、利用価値は大きいと思われます」
「草津、大津、信楽焼、琵琶湖の道か」
「はい。特に、彼らは湖の道を見始めております」
殿様の目が少し鋭くなった。
「琵琶湖か」
「まだ具体的には分かりませぬが、草津と大津の水場、堅田、佐和山、今浜。
そのあたりを気にしているように見えました」
「そこまで見るか」
「飯屋としては、港や水場に強い。魚をすり身にし、値をつける術も持っている。
琵琶湖や北の港にも目を向けるのは自然かもしれません」
「自然、か。飯屋にしては、自然の範囲が広すぎるな」
殿様は薄く笑った。
「よい。まずは会う」
「はっ」
「明日、文を出せ。草津の拠点に届けよ。飯を持って来い、とは言うな。向こうは言われずとも
持ってくるだろう」
重臣たちが少し笑った。
「ただし、迎える側も油断するな。飯に気を取られて、本筋を見失うな」
「承知しました」
「こちらが聞くべきは三つだ。草津、大津で何をしたいのか。信楽焼と湖の道をどう見ているのか。
そして、北畠との距離をどう考えているのか」
「はい」
「それと、脅す必要はまだない」
殿様は少し笑った。
「まずは飯を食ってから考える」
代表は深く頭を下げた。
「では、そのように整えます」
殿様は、遠くを見るように目を細めた。
伊勢松坂屋の博之。
威厳のない飯屋。
だが、松坂の殿と近く、九鬼水軍と親しく、北伊勢の国人衆が先に挨拶へ行く相手。
肝心な何かを隠し、見せるところだけを見せる男。
その飯屋が、今度は近江の道を見ようとしている。
「面白い」
殿様は小さく呟いた。
「だが、面白いものほど、扱いを誤ると厄介だ」
観音寺城では、翌朝、伊勢松坂屋へ向けた文がしたためられることになった。