作品タイトル不明
六角への対策会議。ゴロゴロしながら博之が最悪店をたたんでも志だけは継いでくれという話をしてみんな黙る。飯屋はしぶとく生きないといかんな
一通り、六角へ向かう前の段取りを話し終えたあと、博之は地図を前にして、ふうと息を吐いた。
「まあ、ここからは雑談やな」
ヨイチが筆を止める。
「雑談と言いながら、だいたい大事な話になりますからね」
「そういうこと言うな」
博之は畳の上に横になりかけたが、お花に見られて、半分だけ起き上がった。
「まず、大津と草津や。ここは欲しい」
「すでに足場はあります」
「うん。草津、大津、あとは信楽あたりか。この辺は、近江の南側で飯場と荷の流れをちゃんと
作りたい。草津は街道、大津は京都口。ここを押さえられたら、京都の端っこにも手が伸びる」
草津のまとめ役が頷いた。
「京都の端の様子ですが、郊外に拠点が二つでき始めております。ただ、まだ立ち上がり途中です」
「えっちらおっちらやな」
「旦那様、言葉を選んでください」
お花が言う。
「はい。できるだけ丁寧に、郊外を中心に進めております」
「それでええ。京都の真ん中に突っ込むな。宇治から先々、京都方面へ伸びることも見越して、
郊外拠点を見る。それでええねん」
博之は地図の京都寄りを指差した。
「京都は怖い。寺も商人も武家も濃い。だから、大津と宇治から外側をぐるぐるやる。
炊き出し一回、市一回、地元の寺に前に立ってもらう。うちは飯と品を持っていく。それで十分や」
「比叡山は?」
大津の担当が聞くと、博之は即座に顔をしかめた。
「後回しや」
「即答ですね」
「嫌いやからな。坂本、比叡山、延暦寺の近くは、行けるなら行くけど、無理はしない。
まずは湖南や。大津、草津、京都の端。この辺を固める」
ヨイチが地図に印をつける。
「その後、観音寺城側ですか」
「そうや。観音寺城そのものに店を出すとかではない。城下というか、観音寺城の周辺郊外やな。
六角様の城下筋に、いきなり大きな横丁を作る気はない。小市と炊き出し、信楽焼と伊勢小物。
それで顔をつなぐ」
「六角様に許しを得る必要がありますね」
「そのために行くんや」
博之は、今度は琵琶湖の方を指差した。
「で、琵琶湖や。堅田は気になる」
「湖上物流ですね」
「うん。けど、堅田を見るにしても、比叡山の近くをあまり通らずに行けるなら行く。
無理はせん。まずは草津と大津の水場の拠点やな」
「港、と言いますか」
「港でええのか分からんけど、水場の拠点や。海と違うけど、荷を上げ下ろしする場所はいる。
そこがまだ手探りやから、まず整備せなあかん」
草津のまとめ役が言った。
「船の扱い、湖の者たちとの話、荷の置き場、水に濡れて困る品の扱い、そのあたりですね」
「そうや。信楽焼も器も、雑に扱ったら割れる。荷車でがちゃがちゃ言うだけでも嫌やのに、
湖で揺れたらもっと怖いやろ」
お花がすかさず言う。
「だから旦那様が荷の上に座って文句を言っていたのですね」
「そこを掘り返すな」
部屋に少し笑いが起きた。
「佐和山ぐらいまでは取れたらええかなと思ってる」
博之は地図の北寄りを見た。
「ただ、今浜は後回しや。あそこは北近江、浅井の方や。今、無理に触らんでええ」
「佐和山も慎重に、ですね」
「うん。佐和山は南北の境目や。見る価値はあるけど、いきなり入り込む場所ではない。
あくまで、荷の流れを見る」
「堅田は?」
「堅田も同じや。湖の者たちが強いやろうし、雑に行ったら怒られる。まずは草津、
大津の水場を整えて、そこから話を聞く」
博之は、地図のさらに北側を見て少し唸った。
「あと、朽木城とか、北側の港も気にはなる」
「若狭方面ですか」
「そうやな。港を見たい。うちは結局、港が得意なんや。食いもんがあるからな」
買い付け隊の古株が頷く。
「魚ですね」
「そう。魚のすり身を作って揚げる。これはでかい。マグロは日本海で取れるか知らん。けど、
魚のすり身に関しては、似たような需要があるやろ。雑魚扱いされてる魚でも、すり身にしたら
価値が出る」
「琵琶湖なら川魚もあります」
「そこや。湖の魚や川魚をどう使うかは、こっちで考えたらええ。臭みがあるなら味噌や
生姜でどうにかする。揚げるか、汁にするか、練り物にするか。運用はおいおいや」
お花が言った。
「旦那様、魚の話になると急に元気ですね」
「飯屋やからな」
「ようやく飯屋らしい話になりました」
「ずっと飯屋や」
ヨイチは地図を見ながら、話を整理した。
「まとめます。第一に、草津、大津、京都の端を丁寧に固める。第二に、観音寺城周辺は
小市と炊き出しで顔をつなぐ。第三に、琵琶湖水運は草津、大津の水場拠点から整える。
第四に、堅田、佐和山は見るが、無理はしない。第五に、今浜は後回し。
第六に、北側や若狭方面の港は将来の魚と水運の目で見る」
「それでええ」
博之は頷いた。
「一通り話したけど、なんか抜けてるところないかね」
すると、お花が即座に言った。
「旦那様が余計なことを言うか言わないか問題があります」
部屋の者たちが一斉に頷いた。
「そこか」
「そこです」
「六角様の前で、飯屋です、飯屋です、と言い張るのはよいですが、変な冗談を言ったり、
跡継ぎのために子を作りたい女は名乗り出ろなどと言わないでください」
「それはもう言わん」
「本当ですね」
「たぶん」
「たぶんでは困ります」
ヨイチも言った。
「六角様の前では、こちらから欲を見せすぎない。けれど、何も欲しがらないのも怪しい。
大津、草津、信楽焼、水場、炊き出し。そのあたりに絞って話してください」
「分かった。そこはみんなに任せる」
「任せると言いながら、旦那様が一番喋る可能性があります」
「そこも止めてくれ」
お花がため息をついた。
「止めます。止めますが、最初から言わない努力をしてください」
「努力する」
少し笑いが起きた後、博之は真面目な声に戻った。
「でもな。こっちが思ったよりきちんと立ち上がってきてるのは、俺としてはありがたいと思ってる」
草津のまとめ役たちは、少し背筋を伸ばした。
「ありがとうございます」
「ほんまに丁寧にやってくれ。特に近江は、北畠の領地から出て、六角に根を下ろさせてもらう話や。
大将の考え一つで、ころっと変わるかもしれへん」
「はい」
「今は飯を食いながら話ができる。でも明日には、六角と北畠が揉めるかもしれん。
織田が出てくるかもしれん。浅井が動くかもしれん。比叡山が何か言うかもしれん。そんな中で、
伊勢松坂屋の看板を守ることだけ考えてたら、逆に潰れることもある」
部屋が静かになった。
「最悪な」
博之は、ゆっくり言った。
「うちの考えを捨ててでも、土地に溶け込むというのも一つやぞ」
ヨイチが顔を上げた。
「旦那様」
「いや、根っこまで捨てろって意味やない。けど、伊勢松坂屋の名前にこだわりすぎて、
皆が死ぬなら、それは違う。看板を下ろしてもええ。横丁を畳んでもええ。飯場を地元の寺に
渡してもええ。名前が消えても、飯を出す志が残れば、それでええ」
お花は黙って聞いていた。
「なんとしても生き残ってくれ。伊勢松坂屋の志、まあ紋でもええ。言葉でも、掟でも、
やり方でもええ。食えない者に飯を出す。寝るところがない者に寝床を出す。湯浴みを粗末にしない。
地元の顔を潰さない。その根っこだけは、どこかに残してくれ」
誰もすぐには口を開かなかった。
やがて、草津のまとめ役が深く頭を下げた。
「承知しました」
大津の連絡役も頭を下げた。
「看板より、飯を出す理由を残します」
買い付け隊の古株も頷いた。
「荷も銭も、そのために使います」
お花が静かに言った。
「旦那様。今の話は、掟に入れましょう」
「そうやな」
ヨイチが筆を取る。
「伊勢松坂屋の名より、飯を出す志を重んじる。必要なら土地に溶け込み、形を変えてもよい。
ただし、食えない者を忘れない」
「ええな」
博之は、少し照れくさそうに笑った。
「わし、たまにはええこと言うやろ」
「その一言がなければ、もっと良かったです」
「ひどい」
部屋に笑いが戻った。
地図の上には、草津、大津、観音寺、堅田、佐和山、今浜、琵琶湖の水場が広がっている。
伊勢松坂屋は、近江に根を下ろそうとしていた。
ただし、根を下ろすとは、土地を取ることではない。
飯を出し、荷を通し、人を休ませ、その土地に嫌われないこと。
そして、もし風向きが変わったなら、形を変えてでも生き残ること。
博之は地図を見ながら、ぽつりと言った。
「飯屋って、しぶとくないとあかんな」
お花が頷いた。
「はい。しぶとく、やさしく、図太くです」
「最後が一番大事そうやな」
ヨイチが静かに言った。
「旦那様には十分あります」
「図太さだけ褒められてもな」
また笑いが起きた。
六角との会談は、まだ始まってもいない。
だが、伊勢松坂屋の近江での方針は、この夜、かなりはっきりと見え始めていた。