作品タイトル不明
伊勢松坂屋の後継者問題。単に博之の血筋だけで決めるものではない。子供作りたいものがいたら名乗り出てよと言いしっかり怒られる博之
伊勢松坂屋の跡継ぎ問題は、思った以上に場を重くした。
古参衆を集めて、飯屋の掟だの、根なし草の精神だの、飯場と湯浴みを守るだの、
帳簿をごまかさないだの、話はそれなりに真面目な方向へ進んでいた。
博之は畳の上でごろごろしながらも、珍しく真剣な声で言った。
「まあ、要はやな。わしがおらんようになっても、飯が出るようにせなあかん」
ヨイチが頷く。
「はい。伊勢松坂屋は、もう旦那様一人の思いつきだけでは回せない規模です」
「それはそれで悲しいな」
「思いつきで一億七千万文を超える方が異常です」
「そこを言うな」
お花が静かに茶を置いた。
「でも、旦那様が言われた通り、根っこは大事です。食えない者に飯を出す。寝る場所がない者に
寝床を出す。湯浴みで体を休める。地元の顔を潰さない。これは掟として残した方がいいと思います」
「せやな」
博之は仰向けのまま天井を見た。
「銭を残すんやなくて、飯を出す理由を残さなあかん」
その言葉に、部屋の者たちは少し感心した。
旦那様が、珍しくまともなことを言っている。
そんな空気が流れた瞬間だった。
博之が、ふと思いついたように言った。
「ああ、そうや」
「はい?」
「跡継ぎ問題ができたからな」
「はい」
「わしと子供を作りたい女がおったら、ちゃんと名乗り出といた方がいいぞ」
部屋が凍った。
ほんの少し前まで、飯屋の掟だの、根なし草の精神だの、組織の継承だの、
かなり真面目な話をしていたはずである。
それを、旦那様は一瞬で台無しにした。
お花が、ゆっくりと目を細める。
「旦那様」
「何や」
「今の話、必要でしたか」
「いや、跡継ぎ問題やから」
「そういう跡継ぎ問題ではございません」
ヨイチも筆を止めた。
「旦那様。今、我々が話していたのは、伊勢松坂屋という組織をどう継続するかという話でございます」
「せやろ」
「旦那様の子を誰が産むかという話ではありません」
「でも、血筋の跡継ぎも一応あるやん」
「ありません」
「即答するな」
古参衆の何人かは、笑いをこらえて肩を震わせていた。
女衆たちは、呆れたような、笑っていいのか迷っているような顔をしている。
お花は、ぴしゃりと言った。
「まず、旦那様と子を作りたい女性がいるかどうか、そこから大きな問題です」
「ひどい」
「現実です」
「わし、飯屋としてはかなり有望やろ」
「飯屋としては有望です」
「人としては?」
「今の発言で少し下がりました」
部屋に笑いが起きた。
博之は少しむくれた。
「いやいや、でもな。もしわしが六角へ行く道中で何かあったらやな」
「何かある前提で話すのはやめてください」
「もしや。もし。そこで、ああ、実は博之様のお子を、とか後から言われても困るやろ」
「誰が言うんですか」
「分からんやん」
「分からないものを前提にしないでください」
ヨイチが咳払いした。
「仮に、仮にですよ。旦那様のお子がいたとしても、その方が伊勢松坂屋を継げるとは限りません」
「血筋だけではあかんってことやな」
「はい。先ほど旦那様ご自身が言われた通りです。飯を出す理由を継ぐ者でなければなりません」
「そらそうや」
「では、今の発言は何ですか」
「冗談や」
「冗談にしては場が凍りました」
お花がため息をついた。
「そもそも、旦那様はこういう話をするときに、すぐ妙な色気を出そうとするのをおやめください」
「色気ぐらい出してもええやろ」
「出ていません」
「ひどい」
「正確に言うと、色気ではなく、余計な欲です」
「もっとひどい」
また笑いが起きた。
だが、博之は少しだけ真面目な顔に戻った。
「まあ、冗談は冗談やけどな。ほんまに血筋だけで継がせる気はない」
ヨイチが頷く。
「それは大事です」
「わしの子やから、というだけで継がせたら、たぶん壊れる。飯を食わせる気がないやつが
上に立ったら終わりや」
お花も静かに言った。
「逆に、血がつながっていなくても、根っこの部分を持っている者なら継げる、ということですね」
「そうや」
博之はごろりと横向きになった。
「飯を食えへん人を見て、何かしたいと思えるか。寝るところがない人に、場所を作ろうと思えるか。
湯浴みやまかないを、無駄な経費やなくて、人を支えるものやと思えるか。そこや」
「旦那様」
「何や」
「そこだけ聞くと、本当に立派なんですけどね」
「そこだけって何や」
「その前の発言が余計でした」
「跡継ぎ問題やからしゃあないやろ」
「しゃあなくありません」
古参の一人が笑いながら言った。
「ですが、旦那様。もし本当に名乗り出る女衆がおったらどうするんですか」
お花が睨んだ。
「余計なことを言わない」
「いや、気になりまして」
博之は少し考えた。
「そら、まず本人の意思を聞くやろ」
「妙に真面目に答えないでください」
「いや、大事やん。無理にどうこうする話ちゃうし、子ができたとしても、その子にいきなり
飯屋を背負わせるのも違う。そもそも、わしの子やからって幸せになるとは限らん」
部屋が少し静かになった。
「子に継がせるために子を作る、というのは違うと思うねん」
博之は、珍しく言葉を選んでいた。
「子は子や。飯屋の道具やない。もしできたら大事にする。でも、伊勢松坂屋を継ぐかどうかは別や」
お花は、少し表情を和らげた。
「そこまで考えているなら、最初からそう言ってください」
「最初から言うと重いやろ」
「だからといって、あの言い方はありません」
「すまん」
ヨイチは帳面に軽く書きつけた。
「では、整理します。伊勢松坂屋の継承は、血筋だけでは決めない。古参衆による合議と、
掟を守れる者を中心に考える。旦那様に子ができた場合も、その子をただちに後継者とはしない」
「なんか書かれると恥ずかしいな」
「旦那様が言い出した話です」
「あと、わしと子を作りたい女は名乗り出ること、って書いといて」
「書きません」
「即答やな」
「絶対に書きません」
お花も重ねた。
「そのような掟は残しません」
「じゃあ裏の掟で」
「ありません」
女衆たちがとうとう吹き出した。
「旦那様、残念でしたね」
「名乗り出る方がいたら、まずお花様の審査ですね」
「その時点で無理そうですね」
「やめろ。わしの縁が逃げる」
お花が冷たく言った。
「逃げる縁があるなら、まず追いかけずに反省してください」
「ほんま厳しいな」
だが、その笑いのおかげで、重かった空気は少し軽くなった。
跡継ぎ問題は、やはり重い。
銭、人、拠点、買い付け隊、北畠、六角、尾張、京都。
どこを見ても、今の伊勢松坂屋は博之一人の冗談で済む規模ではない。
けれど、あまりに重くしすぎれば、皆が固まる。
博之は、たぶんそれを分かっていて、わざと馬鹿なことを言ったのかもしれない。
少なくとも、本人はそういう顔をしていた。
お花は少しだけ笑って言った。
「旦那様」
「何や」
「跡継ぎ問題を考えるのは大事です。でも、その前にまず、六角から無事に帰ってきてください」
「せやな」
ヨイチも頷いた。
「戻ってきたら、掟をきちんと形にしましょう」
「分かった」
「それと、子を作りたい女性を募る話は、二度と会議でしないでください」
「えー」
「しないでください」
「はい」
博之はしぶしぶ頷いた。
それでも最後に、小さく呟いた。
「でも、ほんまにおったら先に言うといてな」
お花が即座に扇子で畳を叩いた。
「旦那様」
「はい、黙ります」
部屋は笑いに包まれた。
飯屋の掟を作る話は、まだ始まったばかりだった。
だが、その根っこは少しずつ見え始めていた。
血ではなく、飯。
家柄ではなく、志。
銭ではなく、食えない者に飯を出す理由。
そして、余計な冗談を言う旦那を、きちんと叱れる者がいること。
それもまた、伊勢松坂屋が伊勢松坂屋であり続けるために、案外大事なことなのかもしれなかった。