作品タイトル不明
六角に向かう前に跡継ぎ問題、根無し草の心根だけでは弱い。掟がひつようかな。全部作る必要はないが共有はしたい
六角へ向かう段取りが少しずつ固まり始めた頃、博之は古参衆を集めた。
集めた、と言えば聞こえはいい。
実際には、本人はいつものように畳の上でごろごろしていた。
「おう、みんな。わしの跡継ぎ問題を考えようか」
その一言に、部屋の空気が一瞬止まった。
お花が、呆れたようにため息をつく。
「旦那様。相変わらず、言葉と態度が合っておりません」
ヨイチも帳面を抱えたまま頷いた。
「跡継ぎ問題という、かなり重い話を、畳の上でごろごろしながら始める方はなかなかおりません」
「いや、だからこそこういう姿勢で話すんや」
「どういう理屈ですか」
「重くなりすぎると、みんな固まるやろ」
「旦那様だけが柔らかすぎます」
女衆の何人かが小さく笑った。
博之はごろりと仰向けになり、天井を見上げた。
「でもな、冗談やないんや。六角へ行くやろ。道中で何があるか分からん。事故かもしれん。
病かもしれん。どこかの誰かに狙われるかもしれん」
場の笑いが、少し引いた。
「しかも今回は、ヨイチとお花さんも連れていく」
「はい」
「となると、この三人がいなくなった時、伊勢松坂屋は回るのか、という問題がある」
ヨイチは静かに帳面を閉じた。
「確かに、その問題はあります」
「帳簿も見たやろ。一億七千四百四十万文や」
その数字が出た瞬間、部屋の空気が重くなった。
「これを六角に見られたら、殺される可能性はゼロではないぞ」
「縁起でもないことを言わないでください」
お花が言ったが、声は少し硬かった。
「でも、考えとかんとあかん。北畠のお殿様方に没収されるのも惜しい。六角に飲まれるのも嫌や。
長野みたいにどこかの家に巻き取られるのも嫌や。これはうちらで使う金や」
「使う金、ですか」
「そうや。寝るところを作る。飯場を作る。湯浴みを作る。炊き出しをする。仕事を作る。
器を買う。道を作る。そういう金や」
博之は、少しだけ起き上がった。
「ただな、わしらがいなくなった時に、各拠点で好きにやってくれ、となったら、多分
まとまりが取れん」
古参の一人が頷いた。
「各拠点が勝手に動くようになりますな」
「そう。松坂は松坂、伊勢は伊勢、奈良は奈良、大津は大津、藤井寺は藤井寺で勝手に動く。
最初はそれでも回るかもしれん。けど、買い付け隊の流れが切れ、帳簿の見方が変わり、
飯場の考え方がずれたら、それはもう伊勢松坂屋ではなくなる」
「名前だけ残って、中身が変わる」
「それが一番怖い」
博之は、ぽつりと言った。
「わしはな、根なし草から始まった。飯を食えない人に飯を食わせる。働ける人には仕事を渡す。
寝るところがない人には寝る場所を作る。体を休めるために湯浴みを作る。これを順繰り順繰り
やっていけばええと思ってる」
お花が静かに聞いている。
「それから、周りと揉め事を起こさずにやる。うちが売れすぎて、よその飯屋を潰したらあかん。
炊き出しをやりすぎて、昔から施しをしていた寺や町屋の顔を潰したらあかん。
地元の人の顔を立てる。うちは黒子でもええ」
ヨイチが小さく頷いた。
「それが根っこの部分ですね」
「そうや。その心があるやつが、次をやればええと思ってる」
博之は、また少し困ったように笑った。
「けど、それだけやと弱い」
「弱い、ですか」
「うん。心があるやつがやればええ、では、誰が心があるか分からん。飯を食わせると言いながら、
銭だけ見るやつも出るかもしれん。寝床を作ると言いながら、安く人を縛るだけのやつも
出るかもしれん」
部屋の空気が、さらに静かになった。
「だから、おきてやな」
「掟」
「そう。伊勢松坂屋のおきてみたいなのを、ちょっと作っておきたい」
ヨイチが筆を取った。
「今、書きますか」
「いや、今日全部決める気はない。けど、考え方だけは共有したい」
お花が言った。
「たとえば、飯、寝床、湯浴みを粗末にしない」
「それやな」
ヨイチが続ける。
「帳簿をごまかさない」
「大事や」
古参の買い付け隊の男が言う。
「買い付け先を泣かせない。安く買い叩きすぎない」
「それも入れたいな」
奈良の連絡役が言った。
「炊き出しや市では、地元の顔を潰さない」
「かなり大事や」
伊賀筋の者が続ける。
「護衛や道案内を軽く見ない。道を守る者にはきちんと払う」
「うん」
お花が静かに言った。
「それから、根なし草だった者を忘れない」
博之は、少しだけ黙った。
「それは、絶対やな」
部屋の者たちも、自然と黙った。
伊勢松坂屋は大きくなりすぎた。
だが、始まりはボロ小屋の豚汁だった。
食えない者、行き場のない者、働く場所のない者が集まった場所だった。
それを忘れた瞬間、伊勢松坂屋はただの大きな商いになる。
博之は、そこだけは怖かった。
「跡継ぎを誰にするか、という話は、今日すぐには決められん」
「はい」
「古参衆である程度、固まって考える仕組みがいる。誰か一人が全部決めるのか、
それとも何人かで支えるのか。ヨイチやお花さんがいなくなった時も、帳簿と現場が動くのか。
買い付け隊が暴走せんのか。そういうのも考えなあかん」
「旦那様」
「何や」
「ようやく、組織らしい話になってきましたね」
「やめてくれ。怖いから」
ヨイチは少し笑った。
「ですが、必要です」
「分かってる」
博之はまたごろりと横になった。
「今日のところは、それぐらいやな。多分、六角に行っても殺されることはないと思う。
思うけど、絶対ではない」
「縁起でもないです」
「いや、だから考えとくんや。あと、今回は単純に、わし、ヨイチ、お花さんが
しばらくおらんようになる。これは試験でもある」
「試験?」
「うん。俺ら三人がいない間に、伊勢松坂屋がちゃんと回るかどうかを見る試験や」
お花が少し真面目な顔になる。
「それは、良い機会かもしれませんね」
「せやろ。いつもは何かあったら、ヨイチが帳簿を見て、お花さんが現場を締めて、
わしがごろごろしながら変なこと言う。それで回ってる」
「旦那様の部分だけ説明がひどいですね」
「事実やろ」
「否定しきれません」
少し笑いが起きた。
「でも、それではあかん。わしらがいなくても、飯が出るか。湯浴みが回るか。
買い付け隊が動くか。炊き出しで地元の顔を潰さないか。帳簿がごまかされないか。そこを見たい」
ヨイチは頷いた。
「では、六角へ向かう前に、各拠点へ通達を出しましょう」
「何を書く」
「旦那様、ヨイチ、お花が一時不在となる。その間、各拠点は通常通り運営すること。
大きな新規投資は古参衆の合議を通すこと。炊き出し、市、買い付け、護衛、湯浴み、飯場の運営は、
これまでの方針を守ること」
「ええな」
お花が言った。
「それに加えて、困った時に誰に聞くかを決めましょう。松阪、伊勢、奈良、大津、藤井寺、
それぞれで相談役を置く」
「うん。そうしよう」
博之は、少しだけ安心した顔をした。
「こういう話をしてると、ほんまに飯屋なんか分からんくなるな」
「飯屋です」
ヨイチが言った。
「飯屋だからこそ、飯を出す仕組みを残さなければなりません」
お花も頷く。
「旦那様がいなくなっても、誰かがお腹を空かせて来た時に、飯が出るように」
博之は、その言葉を聞いて、少し目を閉じた。
「それやな」
飯屋の跡継ぎとは、銭を継ぐ者ではない。
店を継ぐ者でもない。
飯を出す理由を継ぐ者だ。
博之は、ようやくそのことを言葉にし始めていた。
「ほな、まずはおきて作りやな」
「はい」
「でも、その前に帳簿は?」
ヨイチが静かに聞いた。
博之は即座に寝返りを打った。
「それは明日で」
「逃げましたね」
「逃げてない。跡継ぎ問題で疲れた」
「ごろごろしていただけです」
「心が疲れたんや」
部屋に笑いが戻った。
重い話ではあった。
だが、伊勢松坂屋らしい話でもあった。
畳の上でごろごろする旦那が、自分の死後の話をしながら、最後に行き着くのはやはり飯だった。
誰が継ぐか。
どう守るか。
銭をどうするか。
それらすべての中心にあるのは、ただ一つ。
食えない者に、飯を出す。
その根っこを失わないために、伊勢松坂屋は初めて、自分たちの掟を作ろうとしていた。