作品タイトル不明
六角の使者を待たせている間に帳簿を付ける。1億5,540万文→1億7,740万文。死んだときの世継ぎ、仕組み、掟を作らないと
六角方の使者たちをしばらく松阪に滞在させることになり、ようやく一息ついたかと思った頃である。
ヨイチが帳面を抱えて、にこにこしながら入ってきた。
「旦那様。楽しい楽しい帳簿の時間でございます」
博之は、その言葉を聞いた瞬間、畳の上に沈んだ。
「楽しくない」
「ですが、今回は旦那様ご自身が、六角の使者の方々に“帳簿を締めねばなりませんので
数日お待ちください”と仰いました」
「方便や」
「方便でも、言った以上はやります」
お花も横で茶を置きながら、にやにやしている。
「旦那様、帳簿がお好きになられたのかと思いました」
「好きになるわけないやろ。怖いから嫌いやねん」
「では、動いているところだけにいたしましょう」
「それで頼む。全部聞いたら気絶する」
ヨイチは帳面を開いた。
「まず、桑名です。完全に立ち上がりました。数字がかなり良くなっております」
「桑名はようやくか」
「はい。港と商人衆との付き合いも安定してきました。横丁も無理に増やさず、
飯場と荷の流れを中心にしていますので、周辺からの反発も少ないです」
「ええことや」
「次に蟹江です。もう一拠点、港側の立ち上げがありました。まだ赤ではありますが、
マイナス幅は減りました」
「尾張の入り口やな」
「はい。まだ津島や勝幡へ行く前の足場ですが、蟹江で港と荷の流れが見え始めています」
「焦らずやな」
「一方で、宇治と藤井寺は、立ち上がってはおりますが、まだ利益は乗ってきておりません」
「宇治は京都郊外、藤井寺は堺手前やから、そこは撒く段階やな」
「その通りです。飯場、湯浴み、炊き出し、寺社への挨拶、職人衆との関係作り。
今はまだ投資でございます」
博之は少しだけ安心したように頷いた。
「まあ、そこはしゃあない」
「そして、買い付け隊です」
「出たな」
「はい。津が北畠に変わったことで、今後は流通量を増やす必要があります。ただし、
その本格的な増加分は、まだ今回の数字には入れておりません」
「まだ入ってへんのか」
「はい。今回は現時点の買い付け隊の動きだけです」
「それでも怖いんやろ」
「怖いです」
ヨイチは淡々と言った。
「全十八拠点のうち、各十五万文を買い付けに使っております」
「十八拠点……」
「そのうち、伊勢、松阪、鳥羽、津、白子に関しては、十万文を追加で上乗せし、
各二十五万文を動かしております」
「伊勢、松阪、鳥羽、津、白子……海と港と北畠の中枢やな」
「はい。合計すると、買い付け額は三百二十万文です」
「三百二十万文を買い付けに使ってる時点で、もう普通じゃない」
「さらに、今の買い付け隊は、ざっくり買値の二倍ほど利益が乗っております」
博之は天井を見た。
「聞きたくない」
「聞いてください。買い付け隊の利益は六百四十万文です」
「買い付け隊やばいな」
「やばいです」
ヨイチは即答した。
「これに、通常の拠点利益が千三百三十二万八千文ほど乗ってきます」
「もう数字が重い」
「細かく合わせると端数が出ますので、ざっくり丸めまして、今回の上乗せは一千九百万文で
ございます」
博之はしばらく黙った。
「一千九百万文が、ざっくりで出てくるのがおかしい」
「おかしいですが、出ています」
「前期はいくらやった」
「一億五千五百四十万文です」
「足すと?」
「一億七千四百四十万文でございます」
部屋が静かになった。
お花が小さく繰り返した。
「一億七千四百四十万文……」
博之は両手で顔を覆った。
「もう何がなんやら分からん」
「分からなくても、現実でございます」
「分からんけど、これを六角に出したらあかんことだけは分かる」
ヨイチは即座に頷いた。
「絶対に出してはいけません」
「六角の使者に、うちがどれぐらいの銭を持ってるか見せたら、もう飯屋として見てもらわれへん」
「すでに見られていない可能性は高いですが、それでも具体的な数字は隠すべきです」
お花も真剣な顔になった。
「帳簿は厳重に扱いましょう。六角の方々には、飯場、湯浴み、横丁、市、買い付けの一部だけを
見せる。全体の銭は見せない」
「せやな」
博之はゆっくり体を起こした。
「みんな、気を引き締めよう。飯を出すのはええ。湯浴みを使ってもらうのもええ。
松阪を歩いてもらうのもええ。けど、この数字だけは絶対に出したらあかん」
「承知しております」
「特に買い付け隊の利益は言うな。六百四十万文とか、普通の飯屋の数字ちゃう」
「普通の飯屋ではございませんので」
「飯屋や」
「はい。飯屋です」
ヨイチの返事には、少しだけ諦めが混じっていた。
博之は帳面の上に置かれた筆を見つめた。
「それと、もう一つ考えなあかんな」
「何でしょう」
「わしらが本当にいなくなった時、この金どうすんねん問題や」
部屋の空気が変わった。
お花もヨイチも、少し表情を引き締めた。
「旦那様」
「冗談やないぞ。これだけ拠点があって、人がいて、買い付け隊があって、湯浴みがあって、
飯場がある。銭もある。わしが明日死んだらどうなるんや」
「縁起でもないことを」
「でも考えなあかんやろ」
博之は静かに言った。
「わしは根なし草から始めた。飯食えたらええ。食えへん人には飯を出したい。
寝るところがない人には寝床を作りたい。仕事がない人には仕事を渡したい。その精神を
受け継いでくれるなら、正直、誰でもええ」
「誰でも、というわけには」
「分かってる。誰でもええと言いながら、誰でもよくない。けど、血筋とか家柄とかだけで決めたら、
たぶん壊れる」
ヨイチは帳面を閉じた。
「伊勢松坂屋は、もう旦那様一人のものではありません」
「せやな」
「飯場を守る者、買い付けを回す者、帳簿を見る者、現場をまとめる者、炊き出しをする者。
そういう者たちが仕組みとして続けられる形にする必要があります」
お花も続けた。
「根なし草の精神を、言葉にして残す必要があるかもしれませんね」
「言葉に?」
「はい。何のために飯を出すのか。何のために銭を使うのか。何をしてはいけないのか。
誰の顔を潰してはいけないのか、掟のようなものです」
博之は苦笑した。
「飯屋の掟か」
「必要です」
「そうやな。銭が大きくなりすぎた。飯屋と言い張るには、こっちが飯屋であり続ける理由を
持ってないとあかん」
少し沈黙が落ちた。
一億七千四百四十万文。
それは、もはやただの成功ではない。
人を狂わせるだけの銭であり、周囲の大名に警戒されるだけの力だった。
「六角に行く前に、ええタイミングやったかもしれんな」
博之はぽつりと言った。
「数字を見て、怖がってから行く方がええ」
「はい。怖がるくらいがちょうどよいです」
ヨイチが言った。
お花は静かに茶を差し出した。
「では、旦那様。六角へ行く前に、帳簿と、後継ぎというか、仕組みの話。少しずつ進めましょう」
「やること多すぎるな」
「飯屋ですから」
「飯屋って何やろな」
「旦那様が一番よく分かっていないと思います」
「ひどい」
少し笑いが起きた。
表では、六角方の使者たちが松阪の横丁を見て回っている。
奥では、一億七千四百四十万文の帳簿が閉じられた。
そして博之たちは、初めて真剣に考え始めていた。
この飯屋を、誰が、どう続けるのかを。