作品タイトル不明
六角方面に赴く博之。肝心な話を伏せながら九鬼水軍の船で白子まで出る。白子の浜辺で六角の者達もなぜ北伊勢の国人衆が伊勢松坂屋に先に挨拶に行ったかの意味が分かりだす。
六角方面へ向かう段取りが固まり始めると、博之はまず、松坂の港筋と九鬼水軍へ向けて
文をしたためることにした。
何よりもまず、松坂の城主から釘を刺されていたのである。
「六角の者に、海鮮焼きの肝心なところは見せるな」
それは、ただの料理の話ではなかった。
海鮮焼きは、伊勢松坂屋にとって、今やただの新商品ではない。
人を集める。
見物人を作る。
単価を上げられる。
体験として売れる。
お礼札で周りの店へ客を流せる。
そして、伊勢神宮でも通用する可能性がある。
つまり、飯でありながら、商いの仕組みそのものだった。
松坂の城主が言うには、六角方に松阪の横丁や港を多少見せるのはよい。白子や
北伊勢の道を見せるのもよい。だが、伊勢や神宮前での本当の売れ方、海鮮焼きの運用、
価格、体験枠、札の回し方、そのあたりまで見せるのは早すぎる。
「飯の火縄銃を、いきなり他家の者の前で撃つな」
そう言われた時、博之もさすがに頷くしかなかった。
だからこそ、文は慎重に書いた。
ひとつは、松坂の港の横丁筋へ。
六角方の使者が数日内に港へ来ること。
その際、普段通りの飯場、荷の積み下ろし、魚の買い付け、湯気の立つ汁物などは見せても
構わないこと。
ただし、海鮮焼きの大きな実演や、金型の数、焼き手の練習、売上、札の使い方については、
決して表に出さないこと。
聞かれても、「まだ試しの品でございます」「港では時々出しております」程度に留めること。
もうひとつは、九鬼水軍へ。
六角方の使者を白子まで船で運んでほしいこと。
白子からは北伊勢の国人衆の領地を通り、亀山、関方面へ抜けて近江へ戻る段取りであること。
道中、松阪や白子の荷の流れは見せてもよいが、伊勢の港や伊勢神宮前の運用については
話を伏せてほしいこと。
特に、海鮮焼きの売れ方、九鬼水軍との魚の回し方、神宮前の店での客の流し方については、
肝心な情報を六角方に渡さぬよう、切にお願いしたいこと。
博之は文を書きながら、何度もため息をついた。
「飯屋が情報を隠すって、何なんやろな」
横で見ていたヨイチが、淡々と言った。
「飯屋の情報ではなく、物流と商売の仕組みですから」
「言い方が重い」
「実際、重いです」
お花も頷く。
「松坂のお殿様が言われる通り、海鮮焼きはまだ見せすぎない方がいいです。六角方には、
松坂の賑わいと白子の流れだけで十分です」
「伊勢を見せたら引くやろうしな」
「引くどころか、扱い方を変えられると思います」
博之は文箱に二万文を詰めた。
「一万文でもええ気はするけど、今回は面倒ごとを頼むから二万文やな」
「九鬼水軍に六角方の使者を乗せてもらうのですから、それくらいは必要です」
「港筋にも、ちゃんと気を遣ってもらわなあかんしな」
文と銭は、早馬で先に送られた。
松坂の港の横丁筋へ一通。
九鬼水軍へ一通。
そして必要な分の手当を添えて、急ぎ届けさせる。
それが済むと、博之は六角方の使者たちの前へ戻った。
「では、そろそろ参りましょうか」
「いよいよ港へ?」
「はい。松坂の港を少し見ていただき、その後、九鬼水軍の船で白子へ出ます」
六角方の使者たちは、興味深げに頷いた。
「港の様子を見られるのはありがたい」
「ただ、見せられるところと見せられないところがあります」
博之がそう言うと、使者の代表は笑った。
「飯屋にも秘事がある、ということですな」
「飯屋にもあります」
「だんだん、その言葉が冗談に聞こえなくなってきました」
一行は松坂の港へ向かった。
港へ近づくにつれ、六角方の者たちは自然と足を緩めた。人の流れが太い。荷車が行き交い、
魚が選り分けられ、飯場からは湯気が上がっている。伊勢松坂屋の袴を着た者が、荷の確認をし、
別の者が漁民と値を決め、女衆が汁物とまぜ飯を出している。
それは、城下の飯屋というより、小さな物流の生き物のようだった。
「これは、港の一角ですか」
「はい。港の一角です」
「一角でこれですか」
「まだまだです」
博之がそう言うと、六角方の者たちは顔を見合わせた。
もちろん、海鮮焼きの実演は出していない。
金型も奥へ下げてある。
焼き手たちも、いつものように練習している姿は見せない。
表にあるのは、まぜ飯、汁物、魚のすり身揚げ、普通の飯場、荷の流れだけだった。
それでも十分に強かった。
「これで、まだ見せていないものがあるのですな」
六角方の代表がぽつりと言った。
「飯屋ですから、仕込み場までは見せられません」
「仕込み場、ですか」
「はい」
博之は笑ってごまかした。
やがて、一行は九鬼水軍の船着き場へ向かった。
文はすでに届いていたらしく、九鬼の者たちは準備を整えて待っていた。
「おう、旦那。文は読んだぞ」
「ありがとうございます。面倒をおかけします」
「六角の方々を白子までやな」
「はい。それと、文にも書きましたけど……」
「分かっとる。肝心なことは言わん」
九鬼の男は、にやりと笑った。
「海鮮焼きのことやろ。あれはまだ見せすぎたらあかんやつや」
「助かります」
「松坂の殿様にも言われたんやろ」
「はい」
「まあ、あれを伊勢で見たら、六角の者も考え込むわな。今は白子までで十分や」
六角方の者たちは、その会話を聞いていたが、細かいところまでは踏み込まなかった。
ただ、九鬼水軍と伊勢松坂屋の距離の近さには気づいたようだった。
代表が丁寧に頭を下げる。
「このたびは、船の便をいただき、感謝いたします」
「まあ、旦那の頼みやからな」
九鬼の男は気安く言った。
「この飯屋には、魚でも銭でも世話になっとる。六角の方々にも、白子までの海を見てもらうのは
悪くないやろ」
「我らとしても、ありがたい経験です」
「ただし、港のことは見た通りや。見た以上のことは、それぞれ考えなはれ」
含みのある言い方だった。
博之は、少しだけ冷や汗をかいた。
「余計なこと言わないでください」
「言うてへん。肝心なことは伏せとる」
「その言い方が怖いんです」
九鬼の者たちは笑った。
一行は船に乗り込んだ。
松坂の港を離れる時、六角方の者たちは、しばらく港を振り返っていた。荷が積まれ、人が動き、
飯場から湯気が上がる。そこに見えない仕組みがあることを、彼らも感じ始めていた。
船が白子へ向かう間、九鬼の者たちは、あえて大きな話はしなかった。
「あの荷は松坂へ戻る」
「あれは魚の選り分けや」
「白子では、まだこれからやな」
その程度である。
だが、六角方にとっては十分だった。
海から見ると、港と港が線でつながっていることが分かる。
飯屋が陸だけでなく、海の道にも手を伸ばしていることが分かる。
そして九鬼水軍が、その動きに自然と関わっていることも分かる。
白子へ着くと、六角方の者たちはまた驚いた。
松坂ほど整ってはいない。
伊勢ほどの熱もない。
だが、白子にもすでに伊勢松坂屋の気配があった。
荷を下ろす場所があり、簡単な飯場があり、地元の者が魚を持ち込んでいる。北伊勢の
国人衆の者たちが、六角方を迎えるために並んでいた。
「ここは、北畠の直轄ではないのですよね」
六角方の代表が尋ねた。
「はい。白子の国人衆の土地です」
「それで、これだけ動いている」
「まだまだ始まったばかりです」
「始まったばかり……」
代表は白子の港を見回した。
ここには、松阪ほどの完成度はない。
しかし、芽がある。
飯が出る。
魚に値がつく。
荷が集まる。
護衛がつく。
そして外から来た六角の者が、その価値を見ている。
「なるほど」
代表は低く言った。
「北伊勢の国人衆が、六角や北畠より先に伊勢松坂屋殿へ挨拶に行った理由が、少し分かりました」
「そうですか」
「彼らは、伊勢松坂屋の荷を通すことで、自分たちの土地を価値あるものに見せたいのですね」
博之は少しだけ頷いた。
「おそらく、そうです」
「そして、あなた方はそれを分かっていて、あえて見せすぎない」
「私は飯屋ですから」
「もう、その言葉ではごまかされません」
博之は苦笑するしかなかった。
松阪の港では、肝心な海鮮焼きの情報を伏せた。
九鬼水軍にも、口を固くしてもらった。
伊勢の奥はまだ見せていない。
それでも六角方は、白子の賑わいだけで十分に何かを感じ取っていた。
伊勢松坂屋の毒は、まだ全部を見せなくても、道に、港に、飯場に、じわりと染み出していた。