作品タイトル不明
津の長野家のお殿様は顔色が悪い。北の国人衆には舐められ、領民は伊勢松坂屋の飯に喜び家臣は帳面を見て動く。隠居しかない。もっと悔しがれ、惜しめ、わしは隠居したくないんや
長野の殿様の顔色は、ここしばらくずっと悪かった。
領内の街道沿いや港は、以前より明らかに潤っている。伊勢松坂屋が入ってから、飯場ができ、
市が立ち、荷が通り、人が集まるようになった。港には魚が集まり、街道沿いでは旅人が飯を食い、
周辺の小商いまで息を吹き返している。
それ自体はありがたい。
ありがたいのだが、殿様の胸の内は晴れなかった。
「またか」
報告を聞いた殿様は、低く呻いた。
「はい。北の国人衆が、また境目の村へ難癖をつけてきたようで」
「領地を取られたわけではないのだな」
「はい。そこまでは。ただ、領地の境だ、通行に関することだ、山のふもとの入り口でのもめ事でなど、
何かしら口実をつけて、小競り合いを仕掛けております」
家臣は淡々と答えた。
それがまた、殿様には腹立たしかった。
国人衆は、露骨に長野家を舐めている。伊勢松坂屋に懐を握られた家。飯屋に屈した家。
そういう陰口が、北の方からじわじわ流れてきているのは、殿様も知っていた。
しかも、連中は実にいやらしい。
伊勢松坂屋の飯場や荷の通り道には、まず手を出してこない。そこに手を出せば、北畠だけでなく、
伊勢松坂屋とつながる商人、港、寺社、場合によっては九鬼水軍筋まで面倒になると
分かっているのだ。
だから、狙うのはその外側だった。
伊勢松坂屋の匂いが薄い村。
古くから長野家が抱えているが、今は手が回りきっていない境目。
兵を出せば出せるが、出したところで大きな実りはない場所。
そこへ小さく火をつけてくる。
「本当に、嫌らしい」
殿様は吐き捨てた。
家臣は静かに頷いた。
「こちらも、熱くなりすぎぬよう対処しております」
「それがまた腹立たしいのだ」
「はい」
「お前らは、わしが怒鳴っていた頃より、今の方がよほど生き生きしておるな」
家臣たちは、少しだけ目を伏せた。
殿様の言うことは、間違っていなかった。
以前の長野家は、殿様の顔色を見て動いていた。怒鳴られれば走り、怒られまいとごまかし、
時には無駄に兵を動かしていた。
だが今は違う。
伊勢松坂屋が入り、港と街道が潤い、帳面と荷の流れが見えるようになった。家臣たちは、
殿様の怒鳴り声ではなく、現場の損得と領民の疲れを見て動くようになっていた。
それは良いことでもあった。
しかし、殿様からすれば、自分の言葉が軽くなったようにも見えた。
「領民もそうだ」
殿様は続けた。
「小競り合いに駆り出されても、士気が上がらぬ。なぜか分かるか」
「……はい」
「皆、飯を知ってしまったのだ。街道沿いで働けば飯が出る。港に行けば荷がある。
伊勢松坂屋の炊き出しを食えば元気になる。なのに、わしが兵を出せと言えば、
また田を離れ、荷を止め、飯場から人を引き抜くことになる」
殿様は笑った。乾いた笑いだった。
「そして、疲れて戻った者らは、また伊勢松坂屋の炊き出しを食って元気になる」
誰も笑わなかった。
「わしは何をしておるのだ」
その声は、怒りというより疲れに近かった。
「北の国人衆には舐められ、領民は兵に出るより飯場をありがたがり、家臣はわしの顔色より
帳面を見る。小競り合いに勝ったところで、誰も喜ばん。負ければさらに舐められる。
勝っても、銭と人が減るだけだ」
殿様はしばらく黙った。
そして、ついに言った。
「家臣を集めよ」
その日の夕刻、広間に主だった家臣たちが集められた。
殿様は上座に座っていたが、その顔色はやはり悪い。怒っているようでもあり、疲れているようでも
あり、どこか吹っ切れたようでもあった。
「お前らに問う」
殿様は、低い声で始めた。
「このまま、わしがこの家を率いたところで、小競り合いは止まるか」
誰も答えない。
「北の国人衆は、わしを侮るのをやめるか」
沈黙。
「領民は、わしのために喜んで兵に出るか」
さらに沈黙。
殿様は、ふっと笑った。
「ほれ、誰も答えぬ」
一人の家臣が、慎重に口を開いた。
「殿。今の領内は、以前より豊かにはなっております」
「伊勢松坂屋のおかげでな」
「はい。しかし、その豊かさを守るためには、今まで通りのやり方では難しくなっております」
「つまり、わしでは無理だと」
「そこまでは」
「言え」
殿様は鋭く言った。
「お前ら、最近まったくわしの言うことを聞かぬではないか。わしが怒鳴っても、
淡々と帳面を見て、飯場の人手を見て、港の荷を見て、それから動く。昔よりよほど賢そうな
顔をしておる」
家臣たちは、頭を下げた。
「殿を軽んじているわけではございません」
「軽んじておるわ」
殿様は叫んだ。
「わしの家は、飯屋に屈した家と言われておる。国人衆には舐められ倒し、領民には
兵より飯場をありがたがられ、家臣には勝手に現実を見られておる。わしは何なのだ」
広間が静まり返った。
怒鳴り声のあとに残ったのは、殿様の荒い息だけだった。
やがて、殿様は声を落とした。
「だから、わしは決めた」
家臣たちが顔を上げる。
「北畠と縁談を結ぶ」
広間の空気が変わった。
「わしは隠居する。家は残す。子に継がせる。だが、その子は北畠の縁を受ける形にする。
長野は北畠の家中に入る。実質、北畠領となる」
誰もすぐには声を出さなかった。
殿様は続けた。
「わしの首を取られるわけではない。家が潰れるわけでもない。領民も、いきなり焼かれるわけでは
ない。北の国人衆への睨みも強くなる。伊勢松坂屋との流れも切れぬ。ならば、これが一番ましだ」
ひとりの家臣が、深々と頭を下げた。
「殿」
「何だ」
「それは、英断にございます」
殿様の眉がぴくりと動いた。
「……何?」
別の家臣も頭を下げる。
「我らも、同じことを考えておりました」
「北畠に寄ることで、領内の安定は増します」
「殿が隠居され、若君が北畠との縁で立たれれば、国人衆も軽くは見ますまい」
「港と街道の商いも守れます」
「領民も、無駄な小競り合いに駆り出されることが減りましょう」
殿様の顔が、みるみる赤くなった。
「お前ら……」
家臣たちは皆、頭を下げている。
その姿は忠義にも見える。
だが、殿様には分かってしまった。
こいつら、ずっとそう思っていたのだ。
「お前ら、わしが言い出すのを待っておったな」
「いえ、そのような」
「待っておったやろ!」
殿様は立ち上がった。
「わしが悩みに悩んで、家のため、民のため、恥を忍んで言うたことを、お前ら、
英断でございます、やと?」
「殿、実際に英断でございます」
「やかましい!」
広間に怒鳴り声が響いた。
「なんだお前ら! 少しは止めろ! 殿、それはあまりにお辛い決断です、とか言え!
わしが隠居するのだぞ! 長野が北畠に入るのだぞ!」
家臣の一人が、恐る恐る言った。
「しかし、それが一番領民のためかと」
「正論を言うな!」
殿様は地団駄を踏んだ。
「わしはな、少しは惜しまれたいのだ!」
その一言に、広間の空気が一瞬止まった。
そして、誰かが小さく咳をした。
笑いをこらえたのだ。
「笑ったな」
「いえ」
「今、誰か笑ったな!」
「いえ、殿のご決断があまりに尊く」
「嘘をつけ!」
殿様は怒鳴ったが、その怒鳴り声にも、どこか以前のような鋭さはなかった。
疲れ、諦め、そして少しだけ救われたような響きが混じっていた。
家臣たちは、改めて頭を下げた。
「殿。これは敗北ではございません」
「……敗北であろう」
「家を残し、民を残し、領内の火種を減らすための決断にございます」
「飯屋に屈した家が、今度は北畠に膝をつくのだぞ」
「飯屋に屈したのではなく、飯で領民が助かったのです」
「言い方を変えるな」
「北畠に膝をつくのではなく、北畠の傘に入るのです」
「もっと悪いわ」
それでも、殿様は座り直した。
怒りはまだある。恥もある。悔しさもある。
だが、心のどこかでは分かっていた。
このまま意地を張れば、家も民も疲れ切る。
伊勢松坂屋の流れに乗って領内が息を吹き返している今こそ、家を残す形を選ぶべきなのだ。
「よい」
殿様は、低く言った。
「北畠へ話を出せ。縁談として進める。わしは隠居する」
「はっ」
「ただし」
殿様は家臣たちを睨んだ。
「伊勢松坂屋には、わしからは言うな。あの飯屋が調子に乗る」
家臣たちは、今度こそ少し笑った。
「笑うな!」
殿様の怒鳴り声が、再び広間に響いた。
こうして、長野家は最後の意地を残しながら、北畠へ寄る道を選び始めた。
それは敗北であり、延命であり、領民のための妥協でもあった。
そして、誰も口には出さなかったが、皆が分かっていた。
この決断の影には、刀でも槍でもなく、飯屋の作った流れがあったのだ。