作品タイトル不明
最近人がやめるって話聞かないよね。本店付近は採用絞ってたり中止してる。新規拠点も最初から大金をまきながら挨拶するから昔ほど辞めない
ある日の屋敷で、ヨイチが帳面をめくりながら、ふと首をかしげた。
「そういえば、最近あまり聞きませんね」
「何を?」
博之は畳の上でごろごろしながら聞き返した。
「辞める者の話です」
「ああ」
お花も少し考えるように頷いた。
「確かに。前は、新しい拠点ができるたびに、何人か合わずに抜けるとか、体を壊すとか、
そういう話がありましたね」
「そういえば最近聞かんな」
博之がそう言うと、ヨイチは少し申し訳なさそうに言った。
「ああ、そうです。言うのを忘れておりました」
「何をや」
「採用そのものを、かなり絞っています」
「え?」
「伊勢や松阪周辺の既存拠点では、新規採用はほとんど止めています。新しく立ち上げている
拠点以外は、人を増やしておりません」
博之は、少しだけ体を起こした。
「なんで?」
「辞めないからです」
「辞めない?」
「はい。みんな、あまり辞めません」
ヨイチは淡々と言った。
「まず、給金を段階的に上げています。最初の頃を乗り越え、仕事を覚え、ある程度任せられるように
なった者には、ちゃんと上げています」
「それは大事やな」
「加えて、寝るところとまかないがある。これが大きいです」
お花が続けた。
「飯と寝床が担保されていると、銭が減りにくいんです。もちろん、市で買い物をしたり、
買い付け隊が持ってくる小物を買ったりはしますけど、それでも日々の食い扶持と寝る場所に
不安がないのは強いです」
「なるほどな」
「しかも、うちは採用基準が結構厳しいですから」
ヨイチが言う。
「最初に入る段階で、ある程度ふるいにかかっています。そこを越えた者たちには、
“自分たちは伊勢松坂屋の者だ”という意識があります」
「仲間意識みたいなもんか」
「はい。ただ、閉じた仲間意識ではありません」
お花が笑う。
「市がありますし、ご縁会もあります。買い付け隊も出入りしますし、奈良や伊賀、草津から人も
来ます。女衆はご縁会を結構楽しみにしていますし、男衆も“伊勢松坂屋の者”というだけで、
町でそれなりに顔が利くようになってきています」
「それは、ちょっと怖いな」
「怖いですが、現実です」
「本店に近いところは特にそうやな」
博之は畳の上で腕を組んだ。
「松阪や伊勢あたりやと、うちの袴着てるだけで、それなりに扱われるやろうし」
「はい。だから、辞める理由が少ないんです」
ヨイチはさらに帳面をめくる。
「新しい拠点でも、辞める者は圧倒的に少なくなっています」
「新しいところは大変やろ」
「大変です。ただ、昔と違って、今は立ち上げ方が変わっています」
「どういうことや」
「初期の頃は、少しずつ銭を撒いて、少しずつ飯を出して、少しずつ様子を見る形でした。
ですが今は、最初からまとまった銭を入れます。寺社への挨拶、炊き出し、顔役への手土産、
飯場、荷置き場、人足の手当。それを一気にやります」
「ああ、最近は最初から二十万文とか撒くもんな」
「はい。だから、土地の側も警戒しつつも、“伊勢松坂屋はちゃんと筋を通してくる”という噂が
先に回ります」
お花が言った。
「しかも隣の拠点、さらに隣の拠点へと順に広げていますからね。突然知らない飯屋が来た、
ではなく、“あの町で炊き出しをしていた伊勢松坂屋が、こっちにも来た”という受け取られ方に
なります」
「悪い話が少ないんやな」
「はい。少なくとも今のところは」
ヨイチは頷いた。
「入ってみれば飯が出る。寝るところもある。給金も悪くない。仕事は大変ですが、
覚えれば役割もある。だから、思ったほど辞めません」
博之は、しばらく黙った。
それから、ぼそりと言った。
「ありがたい話やけど、なんか予定と狂うな」
「どう狂うんですか」
「いや、もっと人が抜けて、その分補充して、自然に人が回るもんやと思ってた」
「旦那様、職場としては辞めない方が良いです」
「それはそうやけど」
お花が少し優しく言った。
「飯が食える。寝るところがある。働ける。辞めずに済む。これは結構、幸せなことですよ」
「そうやな」
「世の中、働き口があっても飯がまずかったり、寝るところが荒れていたり、給金が不安だったり、
人間関係が悪かったりします。辞めずに済む職場は、そう多くありません」
博之は、また畳にごろりと転がった。
「辞めないからこそ、広がれてるんやな」
「はい」
ヨイチが即答した。
「毎回人が抜けていたら、ここまで拠点を増やせません。松阪、伊勢、伊賀、奈良、草津、大津、
桑名、藤井寺。どこも、人が残ってくれるから次が作れます」
「なるほどなあ」
博之は天井を見ながら、しみじみと言った。
「ボロ小屋の豚汁から始めて、飯を食わせて、寝るところ作って、給金上げて、まかない出して。
そら、残ってくれるならありがたいわ」
「そういうことです」
「でも、気は引き締めなあかんな」
お花が少し笑った。
「急にどうしました」
「いや、何が起こるか分からんやろ。うちより強い飯屋が出てくるかもしれへん。うちよりうまい飯を
出すところが出てきて、一気に客を取られるかもしれへん。大名の気まぐれで道が潰れるかも
しれへん。戦で拠点が焼けるかもしれへん」
「それはあります」
「だから、辞めへんから安心、儲かってるから安心、ではあかん。飯はうまくせなあかんし、
人は大事にせなあかんし、町への筋も通さなあかん」
「正しいです」
「気を引き締めていかなあかんな」
博之は畳の上でごろごろしながら、真面目な声で言った。
お花がじっと見下ろす。
「旦那様」
「何や」
「気を引き締める人の態度ではありません」
「心は引き締めてる」
「体がゆるみきっています」
近くで聞いていた女衆たちが、くすくす笑った。
「旦那様らしいです」
「でも、言うてることはまともです」
「ごろごろしながらじゃなければ、もっと良かったですね」
博之は少しむくれた。
「ええやんけ。ごろごろしながらでも大事なことは言えるやろ」
お花が笑う。
「それが伊勢松坂屋らしいのかもしれませんね」
ヨイチは帳面を閉じた。
「では、既存拠点の採用は引き続き絞ります。新規拠点では、飯、寝床、まかない、給金の段階上げを
徹底。人が残る仕組みを崩さない」
「それで頼む」
「あと、旦那様は少し起きてください」
「それは嫌や」
女衆たちの笑い声が、屋敷に広がった。
辞めない職場。
それは、伊勢松坂屋が意図して作ったようで、半分は成り行きでもあった。
けれど、飯があり、寝床があり、仲間がいて、町とつながる場がある。
その積み重ねが、人を残し、店を広げ、また次の拠点を作っていく。
博之はごろごろしながら、その重さだけは、確かに分かっていた。