作品タイトル不明
博之44才2月初旬。1月末の帳簿。9,770万文→1億1,115万文。1億文の大台を超える。命狙われるからどんどん撒くぞ
「旦那様。楽しい楽しい帳簿の時間でございます」
ヨイチが帳面を抱えて入ってきた瞬間、博之は畳の上で身を縮めた。
「相変わらず怖いぞ」
「怖くても見ます」
「もう最近、楽しい要素がないねん」
「店が伸びている証拠です」
「伸びすぎや」
お花が茶を置きながら言った。
「今回は、前回ほど細かく全部を見直すというより、変更点を押さえる形ですね」
「それぐらいで頼む。全部言われたら寝込む」
「寝込まれても困りますので、今回は増減中心で参ります」
ヨイチは帳面を開いた。
「まず、四日市です。新たな立ち上がりが入りました」
「四日市か。北伊勢方面は大事やからな」
「はい。まだ完全に安定したとは言えませんが、荷の流れ、人の流れが出てきています。
関、桑名、津、松阪とのつながりを考えると、ここは今後さらに効いてきます」
「まあ、そこはわかる」
「次に桑名です。前期はマイナス三十三万七千文でしたが、今回はマイナス六万九千文まで
戻してきました」
「おお、だいぶ戻したな」
「立ち上げ費用がまだ残っていますが、港筋と東海道の流れが少しずつ合ってきました。
完全黒字まではもう少しかかりますが、悪くありません」
「桑名は尾張方面の入口やからな。丁寧にやらなあかん」
ヨイチは頷き、次の項目を指差した。
「大和高田は、プラスに転じました」
「おお」
「立ち上がりの関係で、最初はかなり撒きましたが、飯場、横丁、荷置き場が回り始めています。
奈良方面への中継としての価値が出てきています」
「高田がプラスになると、ちょっと気持ちが楽やな」
「奈良も大きくプラス進展しています」
「奈良もか」
「はい。郊外の炊き出し、寺社とのつながり、信楽焼の寄進会、市の動き、それらが少しずつ
効いています。最初の印象は悪かったですが、時間をかけてかなり戻しました」
博之は少し天井を見た。
「奈良はほんま、最初はどうなるかと思ったけどな」
「銭でこじ開けた文化交流が、結果的に根を張り始めています」
「言い方よ」
「事実です」
お花が笑う。
「でも、奈良のお坊様方も、今では伊勢や松阪へ来るのを楽しみにされていますからね」
「ありがたい話や」
ヨイチはさらに続けた。
「そして、宇治と藤井寺です」
「来たな」
「そろそろ新しく攻めるため、それぞれ二十万文ずつ撒き始めています」
「攻めるって言うな。飯屋やぞ」
「では、根回しです」
「それで頼む」
「宇治は奈良から京都へ向かう口。藤井寺は堺へ向かう手前であり、
鍛冶職人とのつながりもあります。ここを雑に扱うと後が詰まりますので、最初から
二十万文ずつ使って様子を見ています」
「藤井寺は飯場と湯浴み、ちゃんと作ってやりたいな」
「はい。職人衆が使える拠点としても意味があります」
「宇治は京都の手前やしな。いきなり京都の中に入るより、郊外でじわじわや」
「その方がよいと思います」
ヨイチは帳面をめくった。
「大津も、大きなマイナスからマイナス幅を縮小しています。草津から大津へ、
さらに京都方面へ向かう流れが見えてきました」
「大津も怖いな。京都が見える」
「見えています。ただし、まだ無理に入る段階ではありません」
「そこは焦らん」
「はい」
ヨイチは一度、帳面の数字を指でなぞった。
「拠点ベースで見ると、今回の利益は九百七十五万文です」
博之は息を止めた。
「拠点だけで?」
「はい。拠点ベースです」
「もうそれだけで怖い」
「買い付け隊は前期と同じく、四百七十万文で見ています」
「買い付け隊、安定して強いな」
「はい。伊勢、松阪、信楽、奈良、草津、北伊勢方面の流れが、かなり太くなっています」
「ありがたいけど、怖い」
「そこから、金型、鉄板、返し棒、藤井寺関連、体験型の整備、お礼札、その他もろもろで
百万文を引いております」
「百万?」
「はい。今回はかなり保守的に引いています」
「それでも?」
「それでも、今回の増加分は千三百四十五万文です」
博之は、畳の上で完全に固まった。
「……千三百四十五万文」
「はい」
「前期が九千七百七十万文やったな」
「はい」
「足したら?」
ヨイチは、静かに告げた。
「一億一千百十五万文でございます」
部屋がしんとした。
お花が、少しだけ笑みを浮かべて言った。
「一億文、突破しましたね」
ヨイチも頭を下げる。
「おめでとうございます」
博之は両手で顔を覆った。
「めでたいんか、これ」
「めでたいです」
「もう値を聞くのも怖いわ」
「ですが、聞かない方が危ないです」
「そんなものが松坂にあると分かったら、北畠様に殺されるわ」
お花が苦笑する。
「だから、現金で抱えないようにしているのです」
ヨイチも頷いた。
「はい。そうならないよう、銭をそのまま置くのではなく、拠点、物、買い付け、職人、
寺社、炊き出し、湯浴み、倉、飯場へ変えていきます」
「一億文あります、って顔したら終わるな」
「終わります」
「飯屋の顔をし続けなあかん」
「はい。飯屋として、町に銭を落とす。人を雇う。道を整える。炊き出しをする。
職人に仕事を出す。寺社に筋を通す。そうやって、銭を流していく必要があります」
博之は、少しだけ体を起こした。
「一億文を持つんやなくて、一億文分の流れを持つってことやな」
「そうです」
「それなら、まだ殺されにくいか」
「絶対とは言えませんが、ただ銭を抱えるよりはましです」
「怖いこと言うな」
「現実です」
お花が静かに言った。
「旦那様、ここまで来たら、もう“稼いだ”だけでは済みません。どう撒くか、どう残すか、
どう隠すか、どう役に立てるかです」
「隠すって言うな」
「必要です」
「まあ、そうやな」
博之は深く息を吐いた。
「藤井寺には飯場と湯浴み。宇治は慎重に。大津は京都を見ながら。桑名は尾張の入口。
奈良は寺社と炊き出し。海鮮焼きは売れすぎるから抑え抑え。買い付け隊は強いけど、
調子に乗りすぎない」
「その認識でよろしいかと」
「で、帳簿は文のままやな」
「もちろんです」
「一億一千百十五万文でも、文で見る」
「根なし草の精神です」
博之は少し笑った。
「根なし草が一億文超えたら、もう意味わからんな」
「意味は分からなくても、始まりを忘れないためです」
お花が言った。
「松阪の不審で食べた小銭から、ボロ小屋の豚汁へ。そこから始まったことは、変わりません」
「そうやな」
博之は、また畳にごろりと転がった。
「一億超えたからって、別に殿様になったわけやない。飯屋や。飯を作って、人を食わせて、
町に金を落として、やばそうなところには先に撒く」
「はい」
「ほな、辛めに見て、余ったらまた撒いてくれ」
「承知しました」
ヨイチは帳面を閉じた。
「次回からは、宇治と藤井寺の立ち上げ、伊勢港の海鮮焼き調整、大津と桑名の改善、
藤井寺の金物類の追加発注が乗ってきます」
「もう聞きたくない」
「次回も聞いていただきます」
「楽しくない楽しい帳簿やな」
「続けます」
一億一千百十五万文。
伊勢松坂屋は、ついに一億文を超えた。
けれど、それは宝の山ではない。
飯場であり、湯浴みであり、金型であり、信楽焼であり、炊き出しであり、
子どもたちの読み書きそろばんであり、道を守る地侍への手当であり、港に落ちる銭だった。
銭は抱えれば狙われる。
流せば道になる。
博之は、その怖さを噛みしめながら、今日もごろごろと畳の上で考えていた。