作品タイトル不明
いよいよ伊勢の港で海鮮焼き開始。売れ行きが気になる博之。邪魔者扱いされる。売れすぎたゆえの他店への配慮や課題があった。
伊勢の港に着いた時点で、すでに空気が少し違っていた。
前日から噂は流れていたらしい。
「今日、松坂屋さんが何か新しい焼き物を出すらしいぞ」
「港でやってた、くるくる回すやつやろ」
「海鮮焼きとか言うてたな」
「伊勢にも来るんか」
そんな声が、港のあちこちで聞こえていた。
博之たちが船から荷を下ろし、金型や種、タコ、イカ、青のり、味噌醤油だれ、笹船を
運び込んでいると、まだ準備段階だというのに人が寄ってくる。
「なんやなんや」
「もう始まるんか」
「これ、何を焼くんや」
女衆たちは慣れた様子で支度を進める。藤井寺から届いた金型を台に並べ、
火を入れ、油をなじませる。松阪城下で練習した通り、動きはかなり整っていた。
博之は横でそわそわしていた。
「大丈夫かな」
「大丈夫ですから、旦那様は邪魔にならないところにいてください」
「いや、でも初日やし」
「初日だから邪魔しないでください」
お花にぴしゃりと言われ、博之は少し離れた場所に追いやられた。
やがて、金型に種が流し込まれた。
じゅわっ、と音が立つ。
その瞬間、人垣が少し前に寄った。
「おお、何やこの音」
「ええ匂いするな」
「丸い穴に入れて焼くんか」
そこへ茹でたタコ、イカ、刻みネギ、少しの野菜が入る。焼き手が火加減を見ながら、頃合いを待つ。
そして、返し棒を差し込んだ。
くるり。
一つ目が返る。
伊勢の港でも、松阪と同じように歓声が起きた。
「おおっ」
「丸くなった!」
「面白いな、これ」
「見てるだけで楽しいわ」
博之は少し離れたところで、腕を組みながら小さく頷いた。
「やっぱり見せ物として強いな」
味噌醤油だれが塗られると、香ばしい匂いが港に広がる。そこへ青のりを振ると、
海風に磯の香りが乗った。
「これ、なんぼや」
客の一人が尋ねる。
女衆が明るく答えた。
「一つ十文、六つ入りで六十文でございます」
「六十文か。ちょっと高いな」
「高いけど、匂いがええな」
「見てもうたら食いたなるわ」
「一つくれ」
「こっちもや」
最初は様子見だった客たちが、あっという間に買い始めた。
焼き手は次々と種を流し、返し、味噌醤油を塗り、青のりを振る。笹船に六つずつ並べて渡すと、
客は熱い熱いと言いながら口に運んだ。
「うまい」
「タコ入っとる」
「イカもええな」
「これは売れるわ」
博之の顔が少し引きつった。
「このペース、やばいな」
ヨイチが横で帳面を見ながら言う。
「やばいです」
「初日だけ三部制にして正解やったな」
「それでも早いかもしれません」
「怖いこと言わんといて」
しかし、怖い予感は当たった。
朝の第一部は、一刻も経たないうちに売り切れた。
「本日、第一部の海鮮焼きはここまででございます!」
女衆が声を張ると、すぐに不満の声が上がった。
「もう終わりか!」
「早すぎるやろ!」
「もっと焼いてくれよ!」
「まだ食うてへんぞ!」
店の者たちは頭を下げながら、説明する。
「申し訳ございません。本日は初日でございますので、第二部、第三部もご用意しております」
「今日に関しては、ってどういうことや」
「本来は二部制で、売りすぎないように運用する予定でございます。焼き手にも技術がいりますし、
休ませてあげないと続きませんので」
「そらそうかもしれんけど、食いたかったなあ」
「次の部まで待つわ」
「いや、ほかの店で何か食ってから戻るか」
そこで、お礼札が配られた。
「よろしければ、こちらのお札で周りのお店も少しお安く楽しんでくださいませ」
「魚汁もございます」
「鯛味噌飯もおすすめです」
売り切れで膨らみかけた不満を、周辺の店へ流す。松阪で学んだ運用だった。
そして、朝の販売後には体験枠が始まった。
通常販売では買えなかった者たちが、羨ましそうに見ている中、
札を持っている客が店の奥へ入っていく。
「ええなあ、あれ」
「高いんやろ」
「でも確実に食えるんやろ」
「しかも自分で焼けるんやろ。ちょっとやってみたいな」
体験枠に来たのは、予想通り家族連れが多かった。
「お父ちゃん、焼くん?」
「見とけよ。うまいこと丸くしたる」
「お母ちゃんもやるん?」
「やるで。あんたらは危ないから見てなさい」
子どもは焼き場には立てない。けれど、少し離れたところで見られる。親が返し棒を持ち、
女衆に教わりながら、慎重に海鮮焼きを返す。
「まだです。もう少し待ってください」
「今です。端を持ち上げて、くるっと」
「あっ、崩れた」
「大丈夫です。それもおいしく食べられます」
失敗すると笑いが起きる。うまく返ると歓声が上がる。
「お母ちゃん、上手!」
「お父ちゃんのより丸いやん」
「言うな!」
通常販売の勢いとは違う、ほわっとした時間が流れた。
自分で焼いた海鮮焼きを、家族でゆっくり食べる。若い男女が向かい合って、
少し焦げたものを笑いながら分ける。これはこれで、松阪と同じように手応えがあった。
博之は少し離れてその様子を見ながら、ほっと息を吐いた。
「運用は松阪と同じでいけそうやな」
お花が頷く。
「はい。伊勢港でも、体験型は使えます。むしろ、通常販売で買えなかった人には、
かなり羨ましく見えるはずです」
「その分、次から体験札も売れるか」
「売れます。ただし増やしすぎると焼き手が倒れます」
「そこは抑え抑えやな」
昼を挟み、夕刻前には第二部が始まった。
また人が集まる。
「次は食うぞ」
「朝は買えへんかったからな」
「今度こそ並ぶわ」
火が入り、種が流れ、タコとイカが入る。くるりと返るたびに声が上がる。味噌醤油の匂いが
広がり、青のりが舞う。
第二部も勢いよく売れた。
そして第三部。
初日だけの特別運用として用意した分だったが、それすらも早かった。焼き手たちは交代
しながら回していたが、さすがに顔には疲れが見え始めていた。
「次、代わります」
「火加減、少し落として」
「タコ足りてる?」
「まだあります」
「青のり補充して」
女衆たちは、ほとんど戦のように動いていた。
博之はまたそわそわして近づこうとしたが、すぐに止められた。
「旦那様、今は本当に邪魔です」
「はい」
結局、用意した分はすべて売り切った。
売り切ったが、課題は多かった。
「売れすぎたな」
博之がぽつりと言う。
ヨイチは帳面を見ながら答えた。
「売れすぎました。お礼札もかなり配っています」
「撒きすぎたかな」
「初日なので仕方ありません。ただ、次回からは数を絞るか、札の配り方を調整する必要があります」
お花も真剣な顔で言った。
「認識はしてもらえました」
「認識されすぎやな」
「はい。これはまずいくらい認識されました」
周りの店からも、複雑な反応があった。
「人が流れてきたからありがたい」
「でも、あれの匂いは強すぎる」
「ずっとやられたら困る」
「札があるからまだええけどな」
博之はそれを聞いて、深く頷いた。
「やっぱり、抑え抑えやな」
「はい。伊勢港では、二部制を基本に戻すべきです。初日だから三部制にしましたが、
通常運用でこれを続けると、他店を取りすぎます」
「体験型は?」
「残してよいと思います。体験型は時間がゆっくり流れますし、通常販売とは別の価値があります」
「お礼札の費用も多少相殺できるしな」
「はい。ただし、焼き手の休憩を必ず入れます」
博之は、疲れた女衆たちを見た。
彼女たちはへとへとだったが、どこか誇らしげでもあった。
「お疲れさん。今日はほんまに助かった」
「大変でした」
「でも、伊勢でも受けましたね」
「受けすぎです」
「次はもうちょっと抑えてください」
「はい」
博之は素直に頷いた。
伊勢港での初日は、成功だった。
間違いなく成功だった。
だが、同時に危うさもはっきり見えた。
海鮮焼きは、売れる。
見せれば人が寄る。
焼けば匂いで足が止まる。
食べれば噂になる。
だからこそ、売りすぎてはいけない。
一日の終わり、港に夕暮れの風が吹く中、博之はぼそりと言った。
「伊勢神宮までは、まだ時間かかるな」
お花が頷く。
「はい。伊勢港でこれですから、神宮ではもっと慎重にしないといけません」
ヨイチも帳面を閉じた。
「まずは伊勢港で、二部制と体験型を安定させましょう。お礼札の量、焼き手の人数、仕込み数、
周辺店への流し方。全部調整が必要です」
「課題は残るな」
「残ります」
「でも、一旦認識はしてもらえた」
「認識されすぎるほどに」
博之は苦笑した。
「それはそれで怖いな」
伊勢の港に、海鮮焼きの名は刻まれた。
けれど、伊勢松坂屋はそこで浮かれなかった。
売れすぎる飯を、どう抑え、どう回し、どう周りと共存させるか。
その難しさを抱えたまま、伊勢港の初日は終わった。