作品タイトル不明
伊勢の港の横丁で海鮮焼きをやる。その先は伊勢神宮。念には念を入れて準備。運んでもらう九鬼水軍に海鮮焼きをふるまう
伊勢の港で海鮮焼きをやることは、もう決まっていた。
松坂城下での運用を変え、朝と夕刻の二部制にし、さらに体験型まで入れてみたところ、
思った以上に回った。売れすぎる危うさはある。けれど、時間を区切り、お礼札で周りに客を流し、
体験料でその費用を相殺する形なら、なんとか横丁全体を壊さずに済む。
ならば次は、伊勢の港である。
藤井寺からは、金型が続々と届いていた。
親方が本気を出した金型は、最初のものより明らかに返しやすくなっていた。穴の縁が
少し滑らかで、熱の回りもよい。返し棒も改良され、先は細いがしなりすぎず、持ち手は
熱くなりにくいよう工夫されている。
「親方、本気やな」
博之が感心して言うと、ヨイチが帳面を見ながら頷いた。
「本気です。そのぶん、発注も増えています」
「怖いこと言うな」
「怖いのは売れ行きの方です」
屋敷の中では、女衆たちが連日練習していた。
種を流す。タコを入れる。イカを入れる。少し待つ。返し棒を差し込む。くるりと回す。
崩れたら、どこで早かったかを確認する。焦げたら、火加減を見る。
「伊勢港は松坂より人の流れが読めませんからね」
お花が言う。
「初日は多めに見た方がいいです」
「九百ぐらいか」
「九百は多いですが、旦那様の悪い予感は当たりますので」
「悪い予感って言うな」
普段は二部制で回す予定だった。
朝一番に売る。
昼は売らず、他の飯屋へ客を流す。
夕刻前にもう一度売る。
そして販売後に体験型を入れる。
だが、伊勢港の初日だけは別だった。
「初日だけは三部制にしよう」
博之はそう言った。
「朝、昼過ぎ、夕刻前。そこに体験型を付ける。いきなり売り切れすぎて、客が暴れるのも困る」
「暴れはしないでしょうが、不満は出ますね」
「松阪であれやったからな。伊勢港はもっと人が流れる。九百個ぐらい種を用意して、
足りなかったら諦める」
「足りなさそうなのが怖いです」
「怖いな」
前日の夕方、博之は九鬼水軍のところへ向かった。
翌朝早く松阪の港を出て、伊勢の港まで船を出してもらう。その船代と、
いつもの寄進を包んで持っていく。そして、約束していた海鮮焼きも振る舞うことにした。
女衆たちは翌日の仕込みで忙しい。九百個分の種を作り、タコとイカを切り、ネギを刻み、
青のりと味噌醤油だれを確認する。残った者たちは、黙々と作業を続けていた。
一方で、博之は水軍衆に向けて金型を並べた。
「今日は晩飯がわりに、海鮮焼きです」
「おお、待ってたぞ」
「港で並んでも買われへんやつや」
「俺らのために焼いてくれるんか」
「船を出してもらいますからね。お礼です」
油を引き、種を流し、タコとイカを入れる。じゅわっと音が立ち、返し棒でくるりと回すと、
水軍の若い衆が声を上げた。
「おおっ、やっぱり見てておもろいな」
「これ、船の上では無理やな」
「火が怖すぎます」
「そらそうや」
味噌醤油を塗り、青のりを振って笹船に乗せると、水軍衆は熱い熱いと言いながら、
次々に口へ運んだ。
「うまっ」
「これは売れるわ」
「普段並んでも食われへんものが、ここで食えるのはええな」
「伊勢松坂屋様様や」
「旦那様様やな」
博之は苦笑した。
「やめてください。そんな大層なもんじゃないです」
水軍の一人が、海鮮焼きを頬張りながら笑った。
「旦那、ほんまに飯で戦国の世を渡れるんちゃうか」
「やめてください。本当に」
「なんでや。もう半分渡っとるやろ」
「それがね、最近ちょっと洒落にならないんですよ」
博之はため息をついた。
「伊勢、上野、大和、南近江。次は多分、尾張も見えてくる。あと堺にも行くことになる。
飯屋のはずなのに、地図だけ見たらおかしなことになってるんです」
水軍衆は腹を抱えて笑った。
「飯屋の地図やないな」
「国取りやんけ」
「国取りじゃないです。飯取りです」
「飯取りの方が怖いわ」
さらに笑いが広がった。
けれど、その笑いの奥には、少しだけ本気も混じっていた。九鬼水軍も分かっている。
伊勢松坂屋は、刀で取っているわけではない。だが、飯と銭と仕事で、人の流れを作っている。
その流れは、時に小さな領地より強い。
水軍の年かさの者が、少し真面目に言った。
「明日は伊勢港やな」
「はい」
「どうなるかやな」
「正直、怖いです」
「でも、その先は見えとるんやろ」
「……見えてます」
「伊勢の城下町と、伊勢神宮やろ」
「見えてます」
博之は観念したように頷いた。
「ただ、伊勢神宮へ行く前に、伊勢の城下町で一度やらないといけないと思ってます。それに、
伊勢のお殿様にも一応、仁義を切らないと」
「そらそうやな」
「伊勢神宮でいきなり海鮮焼きなんか出したら、また何言われるか分かりませんし」
「今さらやろ」
「今さらでも、筋は通します」
水軍の男はにやりと笑った。
「でも、だいぶ近いな」
「近いです」
博之は、伊勢の方角を見た。
松坂港で生まれた海鮮焼きは、城下で運用の型を作り、体験型で新しい売り方を得た。
藤井寺の親方の金型が入り、焼き手も育ち、九鬼水軍の船で伊勢へ運ばれる。
あとは、伊勢港で受け入れられるかどうか。
「明日は、まず伊勢港です」
「初日から九百個やるんやろ」
「やります。三部制と体験型です」
「悪い予感は?」
「あります」
「なら当たるな」
「やめてください」
水軍衆はまた笑った。
その夜、松阪の屋敷では、女衆たちが遅くまで仕込みを続けた。
九百個分の種。
山のようなタコとイカ。
刻まれたネギ。
味噌醤油だれ。
青のり。
笹船。
お礼札。
売る準備だけではない。売れすぎた時に周りへ流す準備もする。体験型の札も分ける。
火傷の注意書きも用意する。
博之はその様子を見ながら、ぽつりと言った。
「飯一つ出すのに、えらい大事になったな」
お花が横から返す。
「旦那様がそうしました」
「はい」
「でも、ここまで来たなら丁寧にやりましょう」
「そうやな」
翌朝、まだ空が薄暗い時間に、船は松阪の港を出る。
向かう先は伊勢の港。
海鮮焼きが、いよいよ松阪を越えて本格的に伊勢へ入る日だった。