作品タイトル不明
博之44才1月3週目。2週末の帳簿。8,570万文→9,750万文。いよいよ1億文が見えてきた。一つ一つの売り上げを大事に。根無し草のころの気持ちを忘れずに
「旦那様、楽しい楽しい帳簿の時間でございます」
ヨイチが帳面を抱えて入ってきた瞬間、博之は畳の上で顔をしかめた。
「楽しくない」
「楽しくなくてもやらないといけません」
「新年早々、ずっと帳簿見てる気がするんやけど」
「それだけ店が動いておりますので」
お花が横で茶を置きながら笑った。
「今回は藤井寺の鍛冶師さんの話もありますからね」
「それは楽しい話やろ」
「楽しい話も帳簿に乗ると、だいたい怖い話になります」
「嫌なこと言うなあ」
ヨイチは容赦なく帳面を開いた。
「まず、海鮮焼きです」
「来たか」
「松阪港で馬鹿みたいに売れました」
「馬鹿みたいって言い方」
「事実です。売れすぎました。なので、売上だけではなく、お礼札の費用、周辺の店へ客を流すための
負担、焼き手の手当、材料の追加、人足、具材の調達、青のり、味噌醤油、笹船、諸々を
計上しています」
「聞いてるだけでしんどいな」
「松阪と伊勢で、その辺を全部入れました」
「伊勢も?」
「はい。伊勢神宮での実演や、今後の準備分も含めて見ています。海鮮焼きは、
ただ売るだけなら簡単ですが、売れすぎるので、お礼札ありきで考えないといけません」
博之は腕を組んだ。
「それはほんまにそうやな。あれだけ人が集まると、うちだけで客を抱えたら周りが怒る」
「ですので、海鮮焼きをやる拠点では、最初からお礼札の予算を組みます」
「飯を売るのに、売れた後の逃がし道まで帳簿に入れなあかんのか」
「伊勢松坂屋ですから」
「便利な言葉になってきたな、それ」
ヨイチは続けた。
「大きく変わらなかったところは、それほど動いておりません。ただし、桑名、八木、
大和高田、奈良、草津、大津、この辺はしっかり計算しました」
「その辺、全部動いてるやん」
「動いています。ただ、大きな爆発ではなく、立ち上げと人件費、買い付け、飯場、荷置き場、
寺社への挨拶、炊き出し準備が中心です」
「それでも積み上がるんやろ」
「積み上がります」
博之は天井を見た。
「怖いなあ」
「怖がるのは、数字を聞いてからにしてください」
「聞きたくない」
「聞いてください」
ヨイチは帳面の一番下を指で押さえた。
「今回のトータルは、九百十四万八千文です」
博之は少し黙った。
「……九百十四万?」
「はい」
「一回の帳簿で?」
「はい」
「もうあかんやん」
「まだあかんくはありません」
「感覚がおかしくなってる」
お花が苦笑した。
「旦那様、もう毎回それを言っています」
「毎回おかしいからや」
ヨイチは淡々と説明を続けた。
「買い付けについてですが、今は一拠点あたりだいたい十五万文。伊勢と松阪は二十万文です」
「増えてるなあ」
「増やしています。市が好調ですし、海鮮焼き、肉あん、魚のすり身揚げ、マグロの汁物、
信楽焼、伊勢小物、奈良の品、草津方面の品、どれも動きが強いです」
「そら買い付け増やさな足らんか」
「はい。買い付け隊の利益だけで、四百七十万文ほど見ています」
「買い付け隊だけで?」
「はい」
「もう飯屋ちゃうやん」
「飯屋です。買い付けで飯と市を支えています」
「それはそうやけど」
「利益全体では千三百八十五万三千文ほど動いております」
博之が固まった。
「利益で千三百八十五万?」
「はい。ただし、そこから鉄板代、金型、返し道具の試作、藤井寺の職人衆への手当、
道中の袴、飯、湯浴み、案内、その他もろもろを引いております」
「もろもろが多すぎる」
「多いです」
「で、結局?」
「数字をなめました」
「なめた?」
「保守的に丸めました」
「怖い言い方すな」
「強すぎる数字をそのまま出すと、旦那様が倒れるので」
「倒れるわ」
「ですので、今回はざっくり千二百万文の増加として見ています」
「ざっくりで千二百万文」
「はい」
「ざっくりの規模がおかしい」
ヨイチは、まったく動じずに言った。
「前回の八千五百七十万文から、九千七百七十万文になりました」
部屋が静かになった。
お花がぽつりと言う。
「一億文、見えてきましたね」
博之は両手で顔を覆った。
「見えてきたなあ」
「おめでとうございます」
「めでたいんか、これ」
「めでたいです」
「怖い方が勝つわ」
ヨイチは帳面を閉じずに続けた。
「ただし、ここからが大事です」
「まだあるんか」
「海鮮焼きをやるところは、お礼札ありきで運用しないといけません。松阪港で見た通り、
売れすぎます。売れすぎると周辺店に客が回らなくなる。そうすると恨まれます」
「だから、札で流す」
「はい。魚汁、鯛味噌飯、茶屋、甘味、酒、土産物。周辺へ客を流す仕組みを最初から作ります」
「帳簿、めちゃくちゃ面倒くさくなるやん」
「なります」
「どうするんや」
「そこは、ある程度ざっくりでよいかと」
博之が顔を上げた。
「そこはざっくりなんや」
「はい。細かくやりすぎると回りません。海鮮焼きが強すぎる分、保守的に見て、お礼札分、
周辺調整費、炊き出し分、寺社への筋通し、追加人件費をまとめて“もろもろ経費”として
引いてもよいと思います」
「謎経費みたいなやつやな」
「謎経費です。ただし、意味のある謎経費です」
「意味のある謎経費って何やねん」
「うちが揉めずに伸びるための費用です」
お花が頷いた。
「実際、そこをケチると危ないです。伊勢神宮でも、松阪港でも、売れすぎた時に周りへ返す
仕組みがあったから受け入れられました」
「せやな。うちだけ儲けたらあかん。腹立たれる」
「はい。だから数字は辛めに見ておくべきです」
ヨイチは帳面に線を引いた。
「余った分は、どうせ何かに使います。炊き出し、袴、藤井寺拠点、湯浴み、金型改良、
職人衆の手当、寺社への寄進、子どもの読み書きそろばん。使い道はいくらでもあります」
「たしかに、余る気がせんな」
「ですので、見た目の利益を強くしすぎない。使うべきところは使う。帳簿上は保守的に。
これでいきます」
博之は大きく息を吐いた。
「なるほどな。辛めに見といてくれ」
「承知しました」
「一億文が見えてるけど、浮かれたらあかんな」
「はい。むしろ一億文が見えているからこそ、丁寧に撒かないといけません」
「撒く、か」
博之は少し黙ったあと、ぽつりと言った。
「最初は、ボロ小屋で豚汁出して、一文二文がありがたかったんやけどな」
「だから文で数えております」
「そうやな。九千七百七十万文でも、文で見るんやな」
「はい」
お花が静かに言った。
「一億文になっても、一椀の飯、一つの海鮮焼き、一枚のお礼札からですね」
「ほんまそれやな」
博之は畳にごろりと転がった。
「でも、一億文は怖い」
「怖がりながら進むぐらいで、ちょうどいいかと」
ヨイチが言う。
「旦那様が怖がらなくなった時が、一番怖いです」
「それはある」
お花も頷いた。
「怖いと思えるうちは、まだ根なし草の感覚が残っています」
「根なし草の感覚で一億文持つの、だいぶ矛盾してるけどな」
「伊勢松坂屋らしいです」
ヨイチは最後に帳面を閉じた。
「次回は、藤井寺への追加発注、金型改良費、返し道具、海鮮焼きの定期化、松阪港と伊勢港の展開、
大津と桑名の伸びが乗ってきます」
「もう聞きたくない」
「聞いてください」
「楽しくない楽しい帳簿やな」
「続けます」
博之は目を閉じたまま言った。
「とりあえず、辛めに見て、余ったら撒く。揉めんようにする。飯はうまくする。
職人にはちゃんと払う。子どもには飯食わせる」
「それでよろしいかと」
「ほな、それで」
九千七百七十万文。
一億文まで、あとわずか。
だが、伊勢松坂屋の帳簿は、相変わらず文で刻まれていた。
一文を忘れないために。
売れすぎる飯屋が、周りを壊さないために。
そして、根なし草から始まった店が、ただの金持ちにならないために。