作品タイトル不明
藤井寺の親方が帰る。諸々話をまとめる。店の袴を10着渡す。将来藤井寺に拠点ができた時や近隣の拠点を使う際に着てください。
藤井寺の鉄砲鍛冶の親方たちは、いよいよ帰ることになった。
伊賀を越え、松坂の港で海鮮焼きを見て、船で伊勢へ行き、伊勢神宮で肉あんや魚のすり身揚げを
食べ、松坂の城主にまで会った。最後には松坂の郊外の寺で、ご縁会まで見せられた。
飯の金型を作っただけのはずが、気づけば伊勢松坂屋の商いの奥底まで覗き込む旅になっていた。
出立の朝、親方は博之に向かって言った。
「まあ、帰ったら若いもんにも話しますわ。あんたのところの鉄板や金型、返し道具、コテ、
そういうのはうちで作る。よろしいな」
博之は、ぱっと顔を明るくした。
「それはもう、ぜひお願いします」
「ただし、今までみたいに、飯の道具やから適当でええとは思わん。あれは人を集める道具や。
松坂の港で見た。伊勢神宮で見た。寺でも見た。あれはちゃんと作らなあかん」
「ありがたいです」
「海鮮焼きの型は、もう少し返しやすくする。穴の縁も少し変える。熱の回り方も考える。
お好み焼きの鉄板も、もっと焼き手が使いやすいように考えたる。ふくふく焼きの型も、
試す価値はあるな」
横にいたヨイチが、すぐに帳面を開いた。
「旦那様、正式に発注内容をまとめます」
「頼む」
「海鮮焼き用金型、追加。返し棒、試作。お好み焼き用鉄板、改良。ふくふく焼き用小型、検討」
「増えたなあ」
親方は笑った。
「増やしたのはそっちやろ」
「それはそうです」
博之は少し照れたように言い、それから奥の者に合図した。
持ってこられたのは、きれいに畳まれた袴だった。伊勢松坂屋の印が入ったものが、十枚ほどある。
「親方。これ、工房の皆さん用に置いておいてください」
「袴?」
「はい。伊勢松坂屋の袴です。十枚ほどあります」
親方は眉を上げた。
「こんな立派なもん、ええのか」
「もちろんです。藤井寺からこちらへ来る時、大和高田や八木、伊賀を通る時にも使えますし、
今後うちの拠点を使う時にも必要になると思います」
「袴があるだけで、飯屋の拠点が使えるんか」
「袴だけではなく、手紙も書いておきます。藤井寺の鍛冶場の方々は、
伊勢松坂屋の大事な職人衆である、と」
親方は、少し言葉を失った。
博之は続ける。
「今、大和高田の方に拠点を作っています。そこが落ち着いたら、次は藤井寺にも作るつもりです」
「藤井寺に?」
「はい。堺へ向かう手前ですし、金物の職人さんもいる。飯場、荷置き場、宿、
できれば湯浴みも整えたいと思ってます」
「また、とんでもないことをさらっと言うな」
「必要でしょう」
博之は真面目な顔で言った。
「親方たちがうちの道具を作ってくれるなら、藤井寺にも拠点がいる。職人さんが飯を食える場所、
休める場所、荷を置ける場所、打ち合わせできる場所。そういうものがないと、続かないです」
親方は、ゆっくり袴を一枚手に取った。
「工房の若いもんがこれを着て、伊勢松坂屋の飯場に行ったら、飯が食えると」
「はい。ささっと食えるようにします。もちろん、ただ飯ではなく、うちの関係者としての扱いです。
働いてくれる職人さんを粗末にはできません」
「湯浴みも?」
「藤井寺の拠点ができたら、湯浴みも用意する予定です。大きいものはすぐには無理かもしれませんが、
疲れを落とせる場所は作りたい」
「若いもん、喜ぶやろな」
「仕事の後に飯と湯があると、やる気が違いますから」
「それは分かる」
親方は苦笑した。
「鍛冶場の若いもんなんて、煤だらけで、汗だくで、飯も雑に食うて寝るだけや。
そこにうまい飯と湯がある言うたら、そら目の色変わるわ」
「いい道具を作ってもらうためにも、そこは整えたいんです」
お花が横から言った。
「旦那様は、こういう時だけは妙に気前がいいですから」
「こういう時だけって何ですか」
「飯と人に関わる時です」
「それは大事でしょう」
親方は笑いながら、袴を丁寧に畳み直した。
「ありがたく受け取りますわ。これを工房に置いておけば、若いもんの励みにもなる」
「ぜひ使ってください。大和高田、八木、松阪、伊勢、今後は藤井寺。どこでも困らないようにします」
「ほんま、飯屋というより道を作っとるな」
「飯屋です」
「もうその言い張りは聞き飽きた」
親方の言葉に、周囲が笑った。
出立の支度が整うと、若い職人たちも深く頭を下げた。
「世話になりました」
「伊賀越えはきつかったですけど、来てよかったです」
「海鮮焼き、また食べに来たいです」
博之は嬉しそうに頷いた。
「いつでも来てください。次に来られる頃には、もっと焼きやすい道具ができてるかもしれませんね」
「それは、うちら次第ですわ」
親方が言う。
「帰ったら、すぐに若いもん集めて話します。鉄砲の仕事はもちろん続ける。けど、飯屋の鉄も
本気でやる。人を集める鉄、人を笑わせる鉄や」
「お願いします」
博之は深く頭を下げた。
「こちらこそ、これからよろしくお願いします」
親方は少し照れたように顔を背けた。
「まあ、あれや。変な旦那やけど、面白い。こっちも退屈せんですみそうや」
「変な旦那は余計です」
「事実やろ」
和尚やヨイチ、お花も見送りに出ていた。
親方たちは、伊勢松坂屋の袴を荷に入れ、藤井寺へ向かう道へ歩き出した。
振り返ると、博之が手を振っている。
その姿は、やはりどこか頼りない。
だが、その頼りなさの周りに、人が集まり、飯が生まれ、道が伸びている。
親方は、若い職人に言った。
「帰ったら忙しくなるぞ」
「鉄砲ですか」
「鉄砲もや。けど、それだけやない」
親方は、荷の中の袴を軽く叩いた。
「これからは、飯屋の鉄も作る」
若い職人は少し笑った。
「飯屋の鉄って、変な言葉ですね」
「変や。けど、あの松坂屋には似合う」
藤井寺へ戻る道は、来た時よりも少し軽かった。
彼らはもう、ただの鉄砲鍛冶として帰るのではなかった。
伊勢松坂屋の飯を支える職人として、新しい仕事を背負って帰っていくのだった。