作品タイトル不明
藤井寺の親方が帰る前日。松坂郊外のお寺で市とご縁会を見てもらう。食べ物で縁までつくるか。
藤井寺へ帰る前日、親方たちは松坂郊外の和尚の寺へ案内されることになった。
「最後に、もう一つだけ見てもらいたいものがあるんです」
博之がそう言うと、親方は呆れたように笑った。
「まだあるんかい。伊賀越えして、松坂の港で海鮮焼きを見て、船に乗って伊勢神宮へ行って、
城主様にまで会うて、まだ見せるもんがあるんか」
「あります。これを見てもらうと、うちが鉄板や金型をどう使いたいか、もっと分かると思います」
そうして向かった寺の境内では、すでに人が集まり始めていた。
半分では、買い付け隊が持ち込んだ市が開かれている。伊勢の小物、奈良の香や筆、信楽焼、
北伊勢の品、草津から回ってきた品。普段この郊外では見られないものばかりで、近所の者たちは
物珍しそうに手に取り、あれこれ言いながら買っていた。
もう半分では、若い男女を中心にしたご縁会が開かれていた。
堅苦しい縁談ではない。寺の境内で飯を食い、買い物をし、鉄板焼きの実演を見ながら、
自然に話す場を作る。伊勢神宮で見たお好み焼きの実演を、松坂郊外用に少し柔らかく
したものだった。
「なるほどな。半分は市、半分は男女のご縁の場か」
親方が周囲を見回すと、和尚がにこにこと迎えた。
「ようお越しくださいました。藤井寺の職人様方ですね」
「職人様なんて大層なもんではないですが」
「いえいえ。旦那様が言うには、これから伊勢松坂屋にとって大事な金物を作ってくださる方々だとか」
「また大げさな」
親方が博之を見ると、博之は若い男女の集まる方をちらちら見て、どこか落ち着かない様子だった。
「旦那、何をそわそわしてるんや」
「いや、ちょっと仕掛けがありまして」
「仕掛け?」
境内の端には、小さな甘味が並べられていた。
それは、その場で鉄板の前で焼くものではなかった。あらかじめ店の者が用意してきたもので、
甘めの種を丸く二枚焼き、その間に少しだけあんこを挟んである。表面はふっくらとして、
手に取るとほのかに甘い香りがした。
「これは、ふくふく焼きです」
博之が得意げに言う。
「ふくふく焼き?」
「はい。砂糖と小豆が少量だけ手に入ったので、試しに作りました。甘めの種を二枚焼いて、
その間にあんこを挟んでます。今日は数が少ないので、ご縁会に来た男女のところへ
少しずつ置いてます」
親方は一つ手に取り、眺めた。
「これは、その場で焼くんやないんか」
「今日は違います。ふくふく焼きは、あらかじめ作っておく甘味です。会の途中で、
お茶と一緒に出すものです」
「なるほど。こっちは菓子やな」
「そうです」
博之はそこで、少し声を潜めて親方に近づいた。
「で、ここだけの話なんですけど」
「なんや」
「二つで九十文にしようと思ってるんです」
「九十文?」
「はい。二人で分けたら、一人四十五文」
「それがどうしたんや」
博之はにやりと笑った。
「四十五文。始終ご縁がありますように、です」
親方は一瞬黙ったあと、腹を抱えて笑った。
「またこじつけかい!」
「いや、大事でしょう。始終ご縁がある。ええ言葉やないですか」
「それ、客に言うんか?」
「言いたいんですけど」
その瞬間、和尚が横からすっと口を挟んだ。
「旦那様がそれを表で言うと、縁が逃げますので、職人様にだけ言うておきなさいと
申し上げております」
「和尚さん、余計なこと言わないでください」
「事実です」
親方は笑いながら、ふくふく焼きをもう一度見た。
「飯で縁まで作ろうとしとるんか」
「人が喜ぶの、面白いでしょう」
「旦那、ほんま何がしたいんや」
「飯を食わせたいんです。あと、できれば縁もつながったらええなと」
その横では、お好み焼きの実演が始まろうとしていた。
こちらは、ふくふく焼きとは違う。あらかじめ用意された甘味ではなく、会の催しとして、
その場で客に見せながら焼く飯だった。
鉄板の前に若い男女が並び、店の女衆が声をかける。
「本日は、お好み焼きの実演でございます。お二人で具を選んでくださいませ」
「タコにしますか。エビにしますか。魚のすり身もございます」
「大葉、ネギ、ごぼうもございますよ」
「お二人のお好みに合わせて、お作りします」
若い男女は、照れながら具材を選んでいた。
「エビにする?」
「タコもええな」
「大葉入れたら香りがいいって」
「ごぼうは、根のあるご縁って言ってたで」
「それ、ちょっと恥ずかしいな」
女衆たちは笑いながら、選ばれた具材を鉄板の上へ並べていく。粉の種を流し、具を散らし、
焼ける匂いが境内に広がる。
鉄板の上で種が広がり、端が固まり、焼き手が大きなコテで返す。
くるりと見事にひっくり返ると、客たちから歓声が上がった。
「おおっ」
「きれいに返った」
「うまいもんやなあ」
親方は腕を組んで見ていた。
「これはこれで見せ物やな」
「はい。お好み焼きは、大きく返すところが見せ場です」
「海鮮焼きは小さい玉をくるくる返す。こっちは大きな一枚をどんと返す。見せ方が違うんやな」
「そうです」
焼き上がったお好み焼きには、味噌醤油だれが塗られ、青のりが振られる。女衆がにこやかに
声をかけた。
「よいご縁を、伊勢の潮風に乗せて」
その仕草に、若い男女が笑う。少し照れる。けれど、場は和む。
少しして、あらかじめ用意されていたふくふく焼きが、お茶と一緒に出された。
小さな皿に、ふくふく焼きが二つ。ふっくら焼いた皮の間に、少しのあんこが挟まれている。
皆に一つずつではなく、二人で分けるように置かれていた。
「こちらは甘味でございます。お二人で分けてどうぞ」
「ふくふく焼きです。少し甘いので、お茶と一緒に召し上がってくださいませ」
若い男女が、少し戸惑いながらも手に取る。
「これ、二つあるな」
「一つずつでええんちゃう?」
「甘い」
「ほんまや。お好み焼きの後にちょうどええな」
博之はそれを見ながら、またそわそわしていた。
親方が横目で見る。
「言いたいんやろ」
「何をですか」
「四十五文、始終ご縁がありますように」
「言いたいです」
「やめとけ。和尚の言う通り、旦那が言うたら逃げる」
「親方までひどい」
和尚はにこにこと言った。
「言葉にしなくても、伝わるものはありますからな」
親方はふくふく焼きを一つ食べた。
「甘いな。派手ではないが、ほっとする」
「そういうものにしたかったんです」
「場の切り替えやな」
「はい。お好み焼きで盛り上がって、ふくふく焼きで少し落ち着く。甘いものを食べると、
話しやすくなるでしょう」
「よう考えとるな」
親方は笑いながらも、境内を見渡した。
市では、買い付け隊の品を見ながら人々が話している。お好み焼きの実演では、
具材を選ぶところから若い男女が笑っている。ふくふく焼きは、会話の合間に甘さを添えている。
鉄板は飯を焼いている。
だが、それだけではない。
人の距離を少し縮めている。
「松阪港とも伊勢神宮とも違うな」
親方が言った。
「港では勢いで売る。伊勢神宮では体験と格式で売る。ここでは、人の縁を作るために使っとる」
「そう言ってもらえると、ありがたいです」
親方は少し黙ったあと、ゆっくりと言った。
「しかし、ここまで来てよう分かった。わしは堺の近くで鉄砲鍛冶をしてきた。鉄砲は今、
確かに銭になる。大名にも殿様にも喜ばれる。けど、今回こっちへ来て、伊賀を越えて、
松阪港で海鮮焼きを見て、船に乗って伊勢神宮へ行って、松阪の城主とも話して……鉄砲一本で
やるのは怖いなとさえ思った」
博之も和尚も、黙って聞いた。
「鉄砲は喜ばれる。だが、あれは人を殺す道具や。今は重宝されても、先々、鉄砲が脅威と思われたら、
わしらの鍛冶場そのものが危ないものとして見られるかもしれん。工房ごと焼け、村ごと抱えろ、
そういうことを考える奴も出るやろう」
親方は、自分の手を見た。
「けど、ここで見た鉄は違う。海鮮焼きの金型は人を集めた。お好み焼きの鉄板は若い男女に
話をさせた。ふくふく焼きは甘い顔を作った。鉄が人を喜ばせるところを、はっきり見た」
和尚は静かに頷いた。
「世知辛い世ですからな。人を怖がらせる道具も必要なのかもしれません。ですが、人を集め、
笑わせる道具もまた、必要なのでしょう」
親方は博之を見た。
「旦那の器のでかさが、少し見えた気がするわ」
博之は困ったように笑った。
「器のでかさというか、もともとは根なし草みたいなもんで、飯が食えたらええな、から始まってます。
松坂で人を抱えきれなくなったから、他の町に拠点を作った。そこでまた人を拾って、
飯を作って、町に銭を落として、また広がった。その繰り返しです」
博之は少し遠くを見た。
「今は、もし伊勢の国が全部燃えても、大和があり、伊賀があり、南近江があります。けど、
それは国を取りたいからじゃなくて、食い口を残したかったからです」
「大名の動きなんて分からんしな」
「はい。だから、とりあえず飯を作れる人を増やしたい。僕らがいなくなっても、志を継いでくれる人が
いればいい。そう思うようになりました」
和尚が笑った。
「旦那様にしては、珍しく立派なお話です」
「和尚さん、そういう言い方やめてください」
親方は、そのやり取りを聞いて笑った。
「成り行きでここまで来たと言うけどな、成り行きでここまで来たら、それはもう器や」
「そんな大層なものでは」
「大層や。少なくとも、わしは見た。飯で人が集まり、鉄で人が笑い、寺で縁が生まれるところをな」
境内では、ふくふく焼きを分け合った若い男女が、楽しそうに笑っていた。
「甘かったな」
「また食べたい」
「今度は別の具でお好み焼き選ぼうか」
「また来るんか」
「来てもええやん」
その声を聞いて、親方は小さく頷いた。
「少なくとも、海鮮焼きも、お好み焼きも、ふくふく焼きも、もっと広めんともったいないな。
こんだけ皆がきゃあきゃあ言うてくれるものは、作らんと職人冥利に尽きる」
博之は深く頭を下げた。
「ぜひ、力を貸してください」
親方は頷いた。
「鉄板も、金型も、コテも、返し棒も考え直す。ふくふく焼き用の小さい型も試してみる。
これは、鉄砲とは違うが、確かに鍛冶の仕事や」
和尚が手を合わせた。
「ありがたいご縁ですな」
博之はまた若い男女の方をちらりと見た。
「ご縁は大事ですからね」
「旦那様が言うと逃げます」
「和尚さん!」
境内に笑いが起きた。
藤井寺へ帰る前の最後の寄り道は、親方たちにとって、旅の締めくくりにふさわしいものになった。
お好み焼きは、会の催しとしてその場で焼く。
ふくふく焼きは、あらかじめ用意して、甘味として場を和ませる。
海鮮焼きは、港や市で人を集める。
それぞれ違う。だからこそ、それぞれに合う鉄の道具がいる。
鉄は、人を殺す道具にもなる。
だが、人を集め、笑わせ、縁をつなぐ道具にもなる。
松坂郊外の寺の境内で、藤井寺の親方はそのことをはっきり理解した。