作品タイトル不明
肉あん600個が二刻で完売。城下町や港から取り寄せるが、それまでのつなぎで魚のすり身揚げを提供して場をもたせるwww
昼の二刻を少し過ぎた頃だった。
伊勢神宮の肉あん屋は、初日から明らかにおかしなことになっていた。
「旦那様」
ヨイチが、いつもより少しだけ早口で言った。
「肉あん、もう残りがほとんどありません」
博之は店の裏で固まった。
「……は?」
「六百食、もう尽きます」
「まだ昼過ぎやぞ」
「はい」
「六百やぞ」
「はい」
「余ったらまかないに回すって話やったやん」
「余りません」
お花は、すでに状況を見て動いていた。
「伊勢の城下町の肉あんを回してください。港の方にも伝令を。焼く前のあんでもいいので、
すぐこちらへ。焼き場の応援も呼んでください」
女衆たちも慌てず、しかし足早に動く。
買い付け隊の若い者が走り出し、伊勢の港と城下町へ向かった。
博之は、完全にやることがなくなった。
「俺、何したらええ?」
「邪魔にならないところにいてください」
「俺の店やのに」
「今は現場の店です」
「つらい」
仕方なく、博之は売り切れかけて空いた店先の椅子に座った。
だが、客はまだ来る。
肉あんはない。
けれど、信楽焼の器を見に来た者、赤い海老あんの話を聞いて来た者、匂いにつられて来た者が、
店の前で足を止めてしまう。
博之は、ふと思いついた。
「魚のすり身揚げ、あるやろ」
「ありますけど」
「それを信楽焼の器に乗せて出そう。あんが届くまでのつなぎや」
店員たちは一瞬、ぽかんとした。
「魚のすり身揚げを、信楽焼に?」
「そう。いつもはうちの朱印を押した包みで出してるやつやろ。今日は器に乗せる。あんが届くまで、
それで場を持たせる」
お花が少し考えて、すぐに頷いた。
「悪くないです。熱々で出せますし、匂いも立ちます。客も待ちやすい」
「やろ」
「ただし、また贅沢な器の使い方です」
「もうここまで来たら一緒や」
すぐに店先で声が上がった。
「申し訳ございません。肉あんはただいま焼き分が切れております。今、伊勢の港と城下から急ぎ取り
寄せておりますので、しばらくお待ちくださいませ。その間、魚のすり身揚げを信楽焼の器で
お出しできます」
客の一人が笑った。
「なんや、今度は魚の揚げ物まで信楽焼に乗るんか」
「贅沢な使い方やなあ」
女衆は、にこやかに返した。
「うちの旦那様が、器も飾られているだけでは泣いてしまうと申しておりますので」
「旦那、ええこと言うな」
「器も使われてなんぼやな」
「でも、信楽焼で魚のすり身揚げって、また変なこと考える店やな」
そう言いながらも、客は椅子に座った。
揚げたての魚のすり身が、信楽焼の小皿に乗せられる。
表面はきつね色で、湯気が立ち、魚の香りと油の香ばしさが広がった。
客は一口かじる。
「あつっ……うまい」
「これ、いつもの包みで食うのと違う感じするな」
「器がええと、なんか上等に見えるわ」
「ほんまや。魚のすり身揚げが、急にごちそうみたいになっとる」
博之は裏でそれを聞きながら、少しほっとした。
「何とかつないだな」
ヨイチが冷静に言う。
「これはこれで売上に乗ります」
「今それ言うな」
「大事です」
「つなぎやぞ」
「つなぎでも売れれば売上です」
やがて、魚のすり身揚げを食べながら待つ客が増えた。
「肉あん、まだか」
「もうすぐ届くそうや」
「ほな、揚げ物食いながら待つか」
「結局、両方食うことになるな」
「伊勢参りやし、ええやろ」
そうこうしているうちに、伊勢の港から最初のあんが届いた。
「来ました!」
「焼き場、再開します!」
女衆たちが一斉に動く。
鉄板に油が引かれ、小さな肉あんが並ぶ。海老あんも赤く焼け始める。
待っていた客から声が上がった。
「お、来た来た」
「魚のすり身揚げ食うたついでに、肉あんももらおうか」
「せっかく待ったしな」
「赤い福、食べて帰らなあかんやろ」
博之は、裏で頭を抱えた。
「つないだだけのつもりが、余計に売れてへんか」
「売れています」
ヨイチが即答した。
「魚のすり身揚げを食べた客が、そのまま肉あんを買っています。導線として非常に強いです」
「強くなくてええねん」
「強いです」
お花も、店先を見ながら言った。
「ただ、これはよい流れです。肉あんで小腹を満たし、魚のすり身揚げで待ち時間を楽しむ。
客は退屈しません」
「いや、ええんやけどな。ええんやけど、怖いねん」
「怖がってください」
夕方に近づく頃、ようやく店の勢いは少し落ち着いた。
だが、最終的な数を聞いて、博之はまた固まった。
「九百?」
ヨイチが帳面を見ながら答える。
「はい。肉あん五個入り、約九百食です」
「六百の予定やぞ」
「三百増えました」
「増えました、やないねん」
「さらに、魚のすり身揚げもかなり出ています」
「もうええ、聞きたくない」
お花は、少し疲れた顔で笑った。
「旦那様、これは大当たりです」
「大当たりって言われても怖いわ」
「でも、これは旦那様の責任です」
「なんで怒られるんや」
「信楽焼をこんなふうに使ったからです」
女衆たちも頷いた。
「最初は肉あん目当てだった人も、途中から“信楽焼で食べられる”と聞いて並んでました」
「赤い海老あんを誰が食べるかで、客同士も盛り上がってました」
「肉あんが切れた時に魚のすり身揚げを出したのも、結果的に良かったです」
「待たされてる感じがなくなりました」
「むしろ、両方食べて帰る人が増えました」
博之は、疲れたように椅子へ座った。
「今日はたまたま九百いっただけやろ。次からは六百くらい置いとけばええんちゃうか」
ヨイチは首を振った。
「危険です」
「何が」
「六百では早い時間に切れる可能性があります。ですが、九百を毎回置くと、
他店への影響が大きくなります。適正量を測る必要があります」
「面倒くさいなあ」
「大事です。あまり早く売り切れると、見栄えが悪い。客の不満も出ます。かといって
大量に出しすぎると、周囲の店の腹を奪います」
お花も続けた。
「神宮内では、うちだけが勝ってはいけません。魚のすり身揚げ、マグロ汁、周りの茶屋、
土産物屋にも人が流れる形を作る必要があります」
「せやな……」
「次回は肉あん七百五十から八百。魚のすり身揚げは、つなぎとして最初から準備。
信楽焼の器は回転管理。椅子は外にも出す。これで様子を見るのがよいと思います」
博之は天を仰いだ。
「なんか、無事に大ごとになってしまったな」
「旦那様のアイデアのせいです」
「信楽焼を使おう言うただけやん」
「それが一番大きいんです」
女衆が笑いながら言った。
「旦那様、器は器として使ってやらんと泣くぞ、って言ってましたけど、
今日は器が笑いすぎて店が大変でした」
「うまいこと言うな」
「ありがとうございます」
夕方の伊勢神宮には、まだ肉あんと魚のすり身揚げの香りが残っていた。
信楽焼の器に乗った小さな肉あん。
一つだけ赤い海老あん。
売り切れの間につないだ魚のすり身揚げ。
どれも客の話の種になり、笑いになり、次の客を呼んだ。
博之は、疲れた顔でぽつりと言った。
「次、ヨイチに帳簿見せられるの怖いな」
ヨイチは、すでに帳面を閉じながら答えた。
「今日だけで、かなり面白い数字になります」
「面白くない」
「楽しい楽しい帳簿の時間が近いですね」
「やめてくれ」
お花と女衆たちが笑った。
伊勢神宮の肉あん屋は、初日から見事に当たった。
だが同時に、伊勢松坂屋にまた一つ、新しい悩みが増えた日でもあった。