作品タイトル不明
帰りの船の中で今日の振り返りと売れすぎ対策でお礼札をまき、他店へ誘導することを考える。伊勢神宮で勝ちすぎたらあかん。商売させてもらってるんや。
伊勢の港を離れ、松坂へ戻る船の上で、博之は潮風に当たりながら、ぼそりと言った。
「いやまあ、良かったけども……まかない、なかったな」
その一言に、ヨイチとお花が同時に振り向いた。
「絶対無理でしょう」
「旦那様、あの勢い見ました?」
「見たけども」
「六百用意して、昼過ぎに尽きかけて、慌てて伊勢の港と城下からあんを回して、
最終的に九百近く出たんですよ。まかないに回るわけがありません」
「魚のすり身揚げまで、つなぎのつもりが普通に売れてましたし」
博之は、少し不満そうに海を見た。
「いや、俺も一個ぐらい食べたかったなと思って」
「旦那様は、作る側です」
「つらい」
お花は呆れながらも笑っていた。
「でも、本当に当たりましたね」
「当たったのはええけど、ちょっと考えてたんや」
「またですか」
「またって言うな」
博之は少し真面目な顔になった。
「うちが売れすぎると、よそさんの店の客を奪うやろ」
ヨイチが頷く。
「そこは大きな問題です。今日の勢いが続くなら、周囲の店への配慮が必要です」
「だから、お礼札を撒こうと思ってる」
「お礼札?」
「うちで肉あんとか魚のすり身揚げとか、マグロ汁とかを食うてくれた人に札を渡す。
それをよその飯屋さんに持っていったら、十五文引きにしてもらえるようにする」
お花が目を細めた。
「よその店に客を流す、ということですか」
「そうそう。うちで食べて終わりやなくて、“この札を持って、あちらのお店でもどうぞ”って言う。
そしたら、周りの店にも人が流れるやろ」
「割引分は、こちらが負担するのですか」
「もちろん。よその店に損させたら意味ないからな」
ヨイチは、すぐに帳面を取り出しかけた。
「十五文引きなら、数が出てもまだ管理可能です」
「本当は四十五文引きにしたかったんや」
「四十五文?」
「四十五文で、“始終ご縁がありますように”ってしたかった」
お花は一瞬黙ってから、やや呆れた顔をした。
「旦那様、またご縁ですか」
「ご縁は大事やろ」
「ですが、伊勢神宮の茶が一杯三十文のところもあります。四十五文引きでは、
そもそも届かない店が出ます」
「そうなんよ。だから十五文でええかなと」
「十五文に意味はあるんですか」
「充分なご縁がありますように、でどうや」
ヨイチが無表情で言った。
「旦那様、適当ですね」
「こういうのは適当な方がええねん。あんまり凝りすぎると気持ち悪くなる」
「それは珍しく正しいです」
「珍しくって何や」
船の上に笑いが起きた。
博之は、少し真面目な声に戻した。
「今日見て分かったけど、売れすぎるのは問題や。早く売り切れたら見栄え悪いし、
客も困る。かといって出しすぎると、周りの飯屋の腹を奪う。だから、肉あんの数は調整する。
それとは別に、お礼札で周りへ流す」
「なるほど」
ヨイチは頷いた。
「肉あん屋単体ではなく、神宮内全体の回遊を作るわけですね」
「そういう難しい言い方は分からんけど、まあそうや」
「うちの客を少し外へ出すことで、周囲との共存を図る。悪くありません」
お花も頷いた。
「札を持って来たお客さんを受けた店にも、伊勢松坂屋から後で十五文分を精算する形ですね」
「それでええと思う。あと、札を渡す時に、“今日は周りのお店にもよろしゅうお願いします”って
言えば、客も悪い気はせんやろ」
「旦那様が前に出なければ、品よくできます」
「また俺だけ弾かれるんか」
「ご縁が逃げますので」
「船の上でも言われるんか」
ヨイチは帳面にさらさらと書きつけた。
「初回は、札の発行枚数を絞りましょう。無制限に出すと精算が読めません。肉あん購入者全員では
なく、一定額以上食べた方、または売り切れで待たせた方に渡す形でもよいかと」
「ああ、それええな。待たせた人へのお礼にもなる」
「十五文札。周辺提携店で使用可。精算は伊勢松坂屋負担。目的は周辺店への送客と、売れすぎ対策」
「帳簿にすると急に怖いな」
「帳簿にしない方が怖いです」
お花は海を見ながら言った。
「でも、今日のように売れすぎるなら、周りへの配慮は早い方がいいです。伊勢神宮の中で
恨まれると、あとが怖いですから」
「せやな。うちは伊勢神宮で商売させてもろてる立場やしな」
「はい。勝ちすぎないことです」
博之は、少し疲れたように笑った。
「飯屋も難しいなあ」
「旦那様の飯屋が難しくなりすぎているだけです」
やがて船は松阪へ近づいた。
港に降り、屋敷へ戻る頃には、博之の体はすっかり重くなっていた。
「今日はもう無理や」
屋敷に着くなり、博之は畳に転がった。
「色々ありすぎた。伊勢神宮で肉あん売って、信楽焼使って、魚のすり身揚げでつないで、
九百売れて、帰りに札の話までして。もう数字見たくない」
ヨイチが静かに言った。
「今日に関しては、休まれてもよいかもしれません」
「ほんまか」
「はい。今日だけは」
「珍しく優しい」
「ですが」
「ですが?」
「次の日には、必ず数字を見ていただきます」
博之は、畳の上で動きを止めた。
「やっぱり来た」
「今日の肉あん、魚のすり身揚げ、信楽焼の器の回転、割れた器、追加で回したあん、
港と城下からの応援、周辺店への影響。見る数字が多いです」
「聞きたくない」
「そして、おそらく度肝を抜かれます」
「抜かれたくない」
お花が笑った。
「旦那様、今日の売れ方を見たら仕方ありません」
「怖いなあ」
「怖がってください。怖がりながら、ちゃんと見ましょう」
ヨイチは帳面を閉じたまま、最後に言った。
「今日の数字は、伊勢神宮の肉あん屋がただの新店ではなく、神宮内の人の流れを変える店に
なるかもしれないことを示しています」
「そういうこと言うから怖いねん」
「事実です」
博之は、畳に顔を伏せた。
「もう寝る」
「はい。お休みください」
「明日は帳簿なしで」
「無理です」
「即答やめて」
お花が布をかけながら、優しく言った。
「旦那様、今日はよく当てましたね」
「当てたくて当てたんちゃう」
「でも、当たりました」
「怖い」
屋敷の外では、松阪の夜風が静かに吹いていた。
伊勢神宮で信楽焼に乗せた肉あんは、初日から九百近く売れた。
魚のすり身揚げまで話の種になった。
そして今度は、周りの店へ客を流すお礼札の話まで出ている。
博之は、布団の中で小さく呟いた。
「ほんま、飯屋ってなんやねん」
誰も答えなかった。
ただ、翌日の帳簿だけが、静かに待っていた。