作品タイトル不明
伊勢神宮で肉あんを出す日。伊勢の買い付け隊と一緒に伊勢に向かう。九鬼水軍の船で向かう中で肉あんを信楽焼で出すと話して驚かれる。
伊勢神宮で肉あん屋を出す初日。
その販売状況を見に行くため、博之は買い付け隊の一行とともに、まず九鬼水軍のもとへ向かった。
船を使わせてもらう以上、筋は通さねばならない。運賃と、いつもの寄進も兼ねて二万文ほどを包み、さらに手土産として肉あんと魚のすり身揚げ、柚子蜂蜜湯の材料を少し持たせる。
「いやあ、また来ました」
博之が頭を下げると、九鬼水軍の者は笑って迎えた。
「おお、来たか。最近全然顔出さんから、旦那もえらい忙しそうやなと思ってたわ」
「すいません。あっちこっち呼ばれてまして」
「聞いとるぞ。長野の殿様の話」
博之は顔をしかめた。
「もうそこまで回ってますか」
「回るに決まっとるやろ。飯屋が長野の港と郊外を押さえて、若侍を抱えて、炊き出しまで
やってるんやろ。面白すぎるわ」
「面白がらないでください。こっちは冷や汗かいてるんです」
「いやいや、あれは面白い。しかも長野の殿様が“勝手にしろ”って言うたら、本当に勝手にされて、
事態が鎮まり始めたんやろ。そら噂になるわ」
九鬼水軍の者たちは、腹を抱えて笑っている。
博之は肩を落とした。
「ほんま、最近どこ行ってもその話です」
「そらそうや。あと奈良のお坊さんの話も聞いとるぞ。定期便で来るようになったんやってな」
「はい。あれはありがたいです。写本や薬草や香も持ってきてくれますし、伊勢や松阪のお寺さんも
喜んでます」
「こっちも面白いわ。坊さんが来て、伊勢神宮見て、鳥羽見て、港見て、ああでもないこうでもない
言うて帰っていく。旦那が来んでも、流れが面白いから楽しめとる」
「それはよかったです」
「でも、時々は顔出せよ」
「出したいんですけどね。松阪の城主に呼ばれ、伊勢の城主に呼ばれ、奈良の坊さんが来て、
津が揉めて、草津も動いて、もう何が何やら」
「飯屋の忙しさやないな」
「それもよく言われます」
博之が苦笑すると、九鬼水軍の者は、持ってきた肉あんを一つつまんだ。
「で、今日は伊勢神宮か」
「はい。肉あん屋の初日です」
「伊勢神宮で三軒目やろ。すごいな」
「怖いです」
「怖がるところが旦那らしいわ」
博之は、少し身を乗り出した。
「今回、ちょっと変なことをしようとしてまして」
「またか」
「信楽焼で全部出そうと思ってます」
その場が一瞬止まった。
「……信楽焼で?」
「はい。肉あん四つ、海老あん一つ。五個入り百五十文。それを信楽焼の小皿に乗せて出すんです」
九鬼水軍の者は、しばらく博之を見ていた。
そして、ゆっくり言った。
「旦那、それはとんでもないぞ」
「そうですかね」
「そうですかね、やない。伊勢神宮で、信楽焼の器に飯を乗せて出すんやろ。しかも肉あんやろ。
絶対人集まるぞ」
「いや、でも他にも食うところいっぱいあるでしょう。たかが一軒の肉あん屋ですし」
「旦那、本当に分かってへんな」
九鬼水軍の者は、あきれたように笑った。
「普通、信楽焼はありがたがって見せるもんや。買うにしても高い。簡単には手に入らん。
それを伊勢神宮の中で、飯を乗せて出す。しかも食った人がその器を見て、“これが信楽焼か”
って言える。物語が強すぎる」
「器は売りませんよ」
「売らんでもええ。見るだけで人が来る」
「そんなもんですかね」
「そんなもんや。伊勢神宮で食う、信楽焼で出る、肉あんの中に海老あんが一つある。
これだけで話になる。参拝帰りの客が絶対に誰かに言う。“あそこで変なもん食うた。
信楽焼の器で出てきた”って」
別の水軍の者も口を挟んだ。
「旦那、魚のすり身揚げが三百本売れるんやろ」
「はい。日によってはそれぐらい」
「それは熱くてうまいからや。でも今回は、それに“珍しい器で食う”が乗る。六百食、余らんと思うぞ」
「六百用意して、余ったらまかないに回そうと思ってるんですけど」
「まかないに回す分、残らんかもしれん」
「そんなアホな」
「いや、ほんまに」
博之は困ったように頭をかいた。
「一応、五個入りにして腹に溜まりすぎないようにしてます。他の店の腹を奪ったらあかんので」
「そこは旦那らしいな」
「百五十文も、安すぎず高すぎずかなと」
「値段は悪くない。むしろ、信楽焼で出すなら安く見えるかもしれん」
「安く見えますか」
「見える。器の力が強すぎる」
博之は、ますます不安になった。
「やばいな。初日だけ人が来すぎたらどうしよう」
「来すぎるやろな」
「断言しないでください」
「断言する。しかも伊勢神宮や。人が流れたら止まらん」
九鬼水軍の者は、楽しそうに笑った。
「まあ、ええやないか。売れたら売れたで、また旦那の飯が広がる。売れ残ったら、船の者で食うたる」
「残ったらお願いします」
「たぶん残らん」
「まだ言う」
博之は、諦めたようにため息をついた。
「でも、器は器として使ってやらんと、器が泣くと思うんです」
その言葉に、九鬼水軍の者は少しだけ目を細めた。
「それはええ考えやな」
「そうですか」
「ああ。飾ってありがたがるだけやなく、飯を乗せて、人が使って、初めて器や。そこは旦那らしい」
「珍しく褒められた」
「珍しくな」
「余計な一言です」
笑いながら、船の支度が整う。
博之は運賃と寄進の包みを渡し、改めて頭を下げた。
「今日もお願いします」
「任せとけ。伊勢までしっかり送ったる」
船に乗り込むと、潮の匂いが強くなる。
買い付け隊の者たちも、荷を確認しながらどこか浮き足立っていた。肉あんの初日を見に
行くというだけではない。伊勢神宮で信楽焼を使う。その意味を、現場に慣れた者ほど分かっている。
博之だけが、まだ少し首をかしげていた。
「そんなに大ごとかなあ」
九鬼水軍の者が、船縁から笑う。
「旦那、その分かってなさが一番怖いわ」
「また怖いって言われた」
「怖い飯屋やからな」
「私はただの飯屋です」
「ただの飯屋は、伊勢神宮で信楽焼に肉あん乗せへん」
船はゆっくりと港を離れた。
海の向こうに、伊勢の港が見えてくる。
今日、肉あんがどれだけ売れるのか。
信楽焼の器に、人はどんな顔をするのか。
六百食は多すぎるのか、少なすぎるのか。
博之は、期待と不安を半分ずつ抱えながら、潮風を受けていた。
「余ったらまかない……」
ぽつりと呟くと、九鬼水軍の者が即座に言った。
「だから、余らんて」
その言葉に、船の上で笑いが起きた。