作品タイトル不明
津の港が息を吹き返す。関所の廃止で物流が盛んに。伊勢松坂屋のお礼札のおかげで他の店にも金が落ちる。殿様は大激怒だが出れも言うことを聞かなくなった
津の港は、少し前までの重苦しさが嘘のように、息を吹き返し始めていた。
伊勢松坂屋の新しい横丁が立ち上がり、荷置き場が整えられ、人足たちが行き来する。魚、塩、干物、
木綿、紙、信楽焼、奈良からの香や薬種。さまざまな荷が積まれ、降ろされ、また別の場所へ
運ばれていく。
その様子を見ていたのは、かつて長野家に仕えていた若侍たちだった。
今は伊勢松坂屋の袴を着ている。
帳面の上では「津方面担当」と書かれている。
長野家の者でもあり、伊勢松坂屋の者でもある。いや、正確にはもう伊勢松坂屋の者なのだろうが、
心のどこかでは津を捨てきれていなかった。
「……ここまで銭が動くもんなんやな」
一人が、しみじみと言った。
隣の若侍も頷く。
「正直、やり方を変えるだけで、津がここまで動くとは思ってへんかった」
「俺ら、殿様に振り回されっぱなしやったからな」
「殿様が何を言うか、誰が怒られるか、どこに顔を立てるか。そんなことばっかり見てた」
「けど、商人が見てるのはそこやないんやな」
港では、伊勢松坂屋の買い付け隊が、荷を確認していた。
津から関へ。
関から草津へ。
あるいは桑名、四日市、白子方面へ。
津は、ただの港ではなく、通り道になり始めていた。人が通る。荷が通る。
通るから飯が売れる。飯が売れるから人足が集まる。人足が集まるから商人が安心して荷を置く。
その循環が、目に見えていた。
「伊勢松坂屋さんの旦那に頼んだら、他の商人たちも来るんやな」
「というより、伊勢松坂屋の荷が通るなら、そこに乗りたいんやろ」
「草津方面、桑名方面、関方面。そっちへ抜ける荷がここを通るなら、そら人も来る」
「しかも、松坂屋さんの中だけで銭を止めへんからな」
若侍の一人が、港町の飯屋を見た。
伊勢松坂屋の者が、札を配っている。
「今日は向こうの店で魚飯が出ますよ」
「そこの汁物、うまいですから」
「この札持っていったら、少し多めに盛ってくれます」
伊勢松坂屋の横丁だけで客を囲わない。周りの店にも人を流す。津の店も、
最初は警戒していたが、実際に客が来るようになると態度が変わった。
「松坂屋さん、また人回してくれたんか」
「ありがたいな」
「今度、こっちも干物を安く回すわ」
そういう声が、港のあちこちで聞こえる。
若侍は、ぽつりと言った。
「一番でかいのは、関所をやめたことかもしれんな」
「ああ」
関所
つまり荷をいちいち止め、怪しいものがないか調べ、通行料や手間賃を取るやり方である。
長野家の時には、それが当たり前だった。荷が来れば止める。調べる。場合によっては
難癖をつける。少しでも銭を取る。
だが伊勢松坂屋は、それをほとんどやめさせた。
「荷が止まるだけで無駄やからな」
「検品作業いうても、何を見るねんって話やしな」
「伊勢松坂屋さん、元々飯屋やぞ。鉄砲やら火薬やら、そんなもん運んでくるわけない」
「旦那さんに、武将の気質なんかないしな」
「普段、畳でごろごろしてるだけやし」
「それはそれでどうなんや」
二人は少し笑った。
もちろん、完全に無警戒というわけではない。伊勢松坂屋側も、自分たちの荷に何が入っているかは
帳面に残している。港の顔役にも筋を通している。危ないものを運ばないという信用があるから、
止めなくても通る。
止めないから、荷が早い。
早いから、商人が使う。
商人が使うから、港が栄える。
若侍たちは、それを現場で見ていた。
「殿様に、これをどう説明するんやろうな」
「説明したところで、怒るやろ」
「怒るやろな」
その予想は、すぐに当たった。
長野の屋敷では、殿様が怒鳴っていた。
「なんで関所をやめたんや!」
座敷に調整役と家臣たちが控えている。
「荷を止めて調べるのは、領内の安全のためやろうが。わしの許しもなく、勝手にやめるとは何事や」
調整役は、深く頭を下げた。
「完全にやめたわけではございません。伊勢松坂屋の荷については、事前に帳面があり、
顔役も通しており、危険物を運ばぬことも確認しております。そのため、無駄な足止めを省いた
形です」
「省いた?」
「はい。結果として、港の荷の流れが早くなり、商人が戻っております」
「わしは認めてへんぞ」
「しかし、数字が出ております」
「数字?」
調整役は、帳面を開いた。
「港の荷置き料、人足の手当、飯場の利用、周辺の商店への流れ、すべて改善しております。
長野家に保証される収入も、安定しております」
「そんなもの、伊勢松坂屋が勝手に作った数字やろ」
「いいえ。こちらでも確認しております」
若い家臣の一人が、静かに言った。
「津の港は、明らかに勢いを取り戻しています」
殿様の目が、その若者へ向いた。
「お前まで何を言う」
「事実でございます」
「わしの許しなく関所を減らし、飯屋の荷を通し、港を好きにさせる。それでええと言うんか」
「少なくとも、今はその方が津のためになります」
座敷の空気が凍る。
殿様は、信じられないものを見るような顔をした。
「津のため?」
「はい」
「お前らは誰の味方や」
若い家臣は、少し迷った。だが、言った。
「津の民の味方です」
その言葉に、殿様は固まった。
「……何やと」
調整役が慌てて口を挟む。
「殿。言い方は未熟ですが、今は領内を鎮めることが第一です。港が動き、商人が戻り、
領民が飯を得ております」
「わしを差し置いてか」
「殿の領地を守るためでございます」
「それなら、わしの命を待つのが筋やろう」
別の若者が、静かに言った。
「殿は、勝手にしろとおっしゃいました」
その言葉が、また座敷に落ちた。
何度目かの「勝手にしろ」である。
殿様は、顔を赤くした。
「そういう意味で言うたんやない!」
「ですが、我らは動きました。そして事態は鎮静化へ向かっております」
「お前ら、わしに逆らう気か」
「逆らう気はございません。ただ、港を止める気もございません」
「クビにしてもええんやぞ」
殿様がそう言うと、若い家臣たちは一瞬、顔を見合わせた。
だが、以前のように怯えなかった。
「クビにされても、たぶん私らは勝手にやってきますよ」
ひとりが言った。
「そうです」
別の若者も続いた。
「伊勢松坂屋に行けば、飯と寝床はあります。津方面の仕事もあります。ですが、
我らは津を捨てたいわけではありません」
「だから、ここでやっております」
「殿が嫌なら、我らは外から津を支えることになります」
殿様は、呆然とした。
脅しが脅しにならない。
クビにすると言えば、家臣は怯えるものだと思っていた。だが、今の若い者たちには、
外に道がある。伊勢松坂屋という飯と仕事の場がある。
それが、殿様には信じられなかった。
「なんや……俺は殿様やぞ」
小さな声で呟く。
「殿様やのに」
調整役は、何も言わなかった。
言えばさらに怒る。
だが言わなくても、もう皆が分かっている。
殿様であることと、人が従うことは、同じではなくなっていた。
津の港では飯が出ている。
荷が動いている。
商人が戻っている。
若侍たちは働いている。
寺では炊き出しが行われている。
そこに、殿様の怒声はほとんど役に立っていない。
殿様は、しばらく座敷で怒鳴り続けた。
「勝手にしろと言ったら、本当に勝手にしよって」
「わしの許しもなく」
「飯屋ごときが」
「港まで」
しかし、家臣たちはもう、それをまともに受け止めなかった。
必要な報告だけをする。
必要な確認だけを取る。
それ以上は、聞き流す。
やがて殿様は、怒鳴り疲れたように立ち上がった。
「もうええ」
誰も止めなかった。
「俺は知らん」
そう言って、奥へ引っ込んだ。
しばらくして、側仕えの者がそっと覗くと、殿様は布団に入っていた。
「殿」
「うるさい」
「夕餉は」
「いらん」
布団の中から、くぐもった声がした。
「俺は殿様やのに……殿様やのに……」
側仕えは、困った顔で下がった。
一方、港では、夕暮れになっても人の動きは止まらなかった。
伊勢松坂屋の津担当となった若侍たちは、荷の通りを確認しながら、港の飯屋へ人を流していた。
「今日は向こうの店で汁物がうまいです」
「この札を出せば、少し漬物がつきます」
「伊勢松坂屋の横丁だけやなく、港全体を使ってください」
商人が笑って言う。
「お前ら、すっかり飯屋の者やな」
若侍は、少し苦笑した。
「そうかもしれません」
「長野家には戻らんのか」
「戻る戻らないではなく、今は津を通す仕事です」
「うまい言い方や」
「伊勢松坂屋にいると、こうなります」
港の向こうには、荷を積んだ船が見えた。
関へ向かう荷。
草津を目指す荷。
桑名へ抜ける荷。
津で飯を食い、人を乗せ、銭を落としていく荷。
若侍は、しばらくその光景を見ていた。
「やり方を変えるだけで、こんなに動くんやな」
隣の者が頷いた。
「殿様に見せたいような、見せたくないような」
「見せても怒るだけやろ」
「でも、津は動いてる」
「ああ」
二人は、静かに港を見た。
殿様が布団の中で「殿様やのに」と呟いている頃、津の港では飯の匂いが漂い、
商人たちの声が響き、人足たちが笑っていた。
誰が本当に津を動かしているのか。
誰も口にはしなかった。
けれど、港にいる者たちは、もう薄々分かっていた。
津は今、怒声ではなく、飯と荷で動いているのだと。