作品タイトル不明
奈良の郊外で飯の炊き出しを行う。奈良のお坊さんと伊勢松坂屋の者で。150万文の話はまだ残るが少しずつ交流しながらかみ合っていく
奈良の郊外にある小さな寺で、炊き出しが始まった。
とはいえ、最初から大盛況というわけではなかった。
奈良の町中、城下に近い場所で大きくやるには、まだ早い。寺の中でも意見は割れている。
伊勢松坂屋との一件は、百五十万文の話も含めて、まだ妙な噂として残っていた。
「銭の力に屈したんやろ」
「伊勢の飯屋に頭を下げたらしい」
「今度は何を売りつけられるんや」
そんな声がないわけではない。
だから最初は、奈良の郊外で、ひっそり始めることになった。
寺の庭先に大釜を置き、薪をくべる。伊勢松坂屋から届いた米、味噌、干物、少しの野菜、
漬物。そこに奈良の僧たちが用意した豆や薬草を少し加え、具の多い汁を作る。
伊勢松坂屋から来た者たちは、手慣れたものだった。
「薪はこっちに積んでください」
「子どもと年寄りから先にしましょう」
「汁は熱いんで、椀をしっかり持ってください」
「おかわりは一巡してからでお願いします」
奈良の僧たちは、その動きを見ながら、必死に覚えていた。
「なるほど、並ばせ方から違うのですね」
「はい。先にぐちゃぐちゃになると、せっかくの炊き出しが揉め事になります」
「飯を出すにも作法があるのですな」
「あります。うちも最初は、ずいぶん失敗しました」
最初に来たのは、数人の子どもと、近くの年寄りだった。
その後、遠巻きに見ていた町人たちが、一人、また一人と寄ってくる。
「本当にただで食わせてくれるんか」
「今日は炊き出しです。無理に寄進を求めることはありません」
「伊勢松坂屋の飯なんか」
「はい。伊勢松坂屋さんが物資を出してくださり、作り方も手伝ってくださっています」
その言葉に、少し警戒した顔をする者もいた。
「仲直りしたんですね」
年配の町人が、ぽつりと言った。
奈良の僧は、少し苦笑した。
「仲直り、という言い方が合っているかは分かりません。ただ、これを機会に、
私どもは定期的に伊勢の国へ伺うようになりました」
「伊勢へ?」
「はい。松阪や伊勢、鳥羽の寺社、伊勢神宮、港、飯場などを見ております。
こちらからは写経や古い書物の写し、薬草や香、奈良の特産も持っていきます。
向こうからは、飯の出し方や町との関わり方を学ばせていただいております」
町人は、椀を受け取りながら言った。
「銭の力でこじ開けられたんやろ」
僧は、否定しなかった。
「最初は、そうでございました」
伊勢松坂屋の者が、少し驚いて僧を見た。
僧は、静かに続けた。
「ですが、今は文化交流が本当に盛んに行われています。伊勢の国の寺社のお和尚様や観主様は、
奈良の古い話や書物を大変喜んでくださっています。私どもも、伊勢で多くを学びました。
ですから、結果的には良かったのだと思っております」
その正直な言葉に、町人たちは少し顔を和らげた。
「まあ、こうやって飯を出してくれるんなら、ありがたいわな」
「今までの坊さんは、寄進してくればっかりやったからな」
「説法もええけど、腹が減ってたら入ってこーへん」
その言葉は、奈良の僧たちに刺さった。
これまで、寺は人を集めて説法をし、寄進を求める場所だった。もちろん、
それには意味がある。寺を守り、仏法を伝え、行事を続けるには銭が必要だ。
だが、目の前で椀を受け取り、ほっとした顔をする人々を見ると、それだけでは
足りなかったのだと分かる。
伊勢へ行った僧の一人が、小さく言った。
「やはり、気づかされることが多いですね」
伊勢松坂屋の者が頷いた。
「松阪郊外のお和尚様も、よう言うてはります。ありがたい話も大事やけど、腹が鳴ってる人には、
まず飯やと」
「伊勢に行った学びは、確かにありました」
僧は、椀を配る子どもたちを見ながら言った。
「寺が町とどう関わるか。寄進をただ受け取るのではなく、場を作り、飯を出し、
人が集まるようにする。そこで初めて、話を聞いてもらえる」
「はい」
「それに、信楽焼の件もあります」
僧は、少し声を明るくした。
「また信楽焼がこちらへ届いたら、良いものを少し檀家衆にお見せしようと思っています。
寄進をいただければ、そのお礼として器をお渡しする。その寄進を、こうした炊き出しの糧にする」
伊勢松坂屋の者が言った。
「その形、かなり良いと思います。器を見に人が来る。話を聞く。寄進が集まる。
その銭で飯を炊く。飯を食べた人が、また寺に来る。少しずつ回ります」
「少しずつ、ですね」
「はい。いきなり全部は無理です」
僧は、深く頷いた。
「全くその通りです。私どもも、そういう形にしたいのです。いつか民草に頼りにされる
日が来るかもしれない。いや、頼りにされる寺でなければ、いざという時に見捨てられるかも
しれません」
その言葉に、別の僧も続けた。
「奈良の寺社には歴史があります。格もあります。けれど、それは昔の方々が積み上げたものです。
我らがその上に座っているだけでは、いずれ人の心は離れる」
伊勢松坂屋の者は、少し考えてから言った。
「松阪郊外のお和尚様は、飯を食えない子どもに読み書きそろばんを教えてました。
最初は小さなことやったみたいですけど、それで働き口が広がる子も出たんです」
「それです」
奈良の僧は顔を上げた。
「それも考えねばならぬと思っています。飯を食えない子どもに、まず飯を食わせる。
そこで読み書きそろばんを少し教える。町中で働けるようにする。寺が、ただ祈るだけでなく、
人が生きる足場を作る」
「ただ、全部はできません」
伊勢松坂屋の者は、少し厳しい声で言った。
「旦那様もよく言います。全員を救うのは無理やと」
「ええ」
「だから、できるところからです。子ども十人でもいい。炊き出し月一回でもいい。
信楽焼の会を一度やって、炊き出し一回分の銭が集まれば、それで一歩です」
僧は、静かに笑った。
「コツコツ、ですね」
「はい。コツコツです」
庭先では、子どもが汁を飲み干し、椀を両手で差し出していた。
「おかわり、ありますか」
奈良の若い僧が、一瞬戸惑ってから笑った。
「ありますよ。ただし、年寄りの方にも回してからね」
「はい」
そのやり取りを見て、年配の町人が言った。
「坊さんが飯をよそってるのも、悪くないな」
僧は少し照れたように頭を下げた。
「まだ慣れておりませんが」
「またやってくれや」
その一言に、僧たちは顔を見合わせた。
たった一言だった。
だが、それは説法の後にもらう寄進とは違う重みがあった。
またやってくれ。
寺が町からそう言われることの意味を、奈良の僧たちは初めて実感していた。
伊勢松坂屋の者は、釜の火を見ながら言った。
「今日、これだけ来たなら十分です。次はもう少し増えます。評判が悪かった分、
良いこともゆっくり広がります」
「そう願います」
「大丈夫です。飯の噂は早いですから」
僧は笑った。
「伊勢松坂屋さんらしいお言葉です」
「うちは飯屋ですから」
そう答えると、周りに小さな笑いが起きた。
奈良の郊外の小さな炊き出しは、まだ始まったばかりだった。
だが、伊勢で学んだことは、確かに奈良の土の上で形になり始めていた。
銭の力でこじ開けた縁は、飯と器と学びを通じて、少しずつ本当の縁へ変わろうとしていた。