作品タイトル不明
津の一件が収まり始めたころに松坂城主からお坊さん連れて飯持って一緒に来いとの一報がくる。飯屋って怖いなって話で盛り上がる
津の一件が、ひとまず鎮まり始めた頃である。
その話を聞きつけた松阪の城主から、また文が届いた。
「奈良のお坊様も来ておるのだろう。飯を持って、一緒に来い」
文を読んだ博之は、ため息をついた。
「いや、私は飯相手だけじゃないんですけど」
お花が笑う。
「でも、飯を持っていくと喜ばれますよ」
「それはそうやけども」
ヨイチも横から言った。
「松阪の城主様に、津の件は報告しておくべきです。奈良のお坊様方も同席されるなら、なおさらです」
「まあ、そうやな」
そうして博之は、肉あん、鯛味噌の混ぜ飯、魚のすり身揚げ、柚子蜂蜜湯、少しの漬物、
信楽焼の器に盛った小皿料理を持って、奈良の僧数人とともに松阪の上司の屋敷へ向かった。
屋敷へ着くと、城主はもう待っていた。
「おお、来たか。最近の伊勢松坂屋さんには歯向かう気になれんからな。丁重に迎えんとな」
博之は顔をしかめた。
「やめてくださいよ。私はただの飯屋です」
「ただの飯屋が長野の懐を握るか」
「懐を握ったつもりはないんですけど」
「収入を保証して、上っ跳ねを取って、港と郊外に横丁を作って、荷を関まで通させるんやろ。
十分握っとるわ」
城主は、面白そうに笑った。
「まさか長野の懐へ入ってまうとはなあ。これならあれやな。わしが長野を恭順させるのも、
かなり簡単になったんちゃうか」
博之は、少し困ったように言う。
「たぶん、簡単だと思います」
「お前が言うな」
「いや、でも実際、津の港と郊外を押さえられると、だいぶ厳しいと思います。城下には
手を出してませんけど、荷と飯と人の流れを押さえる形になってますから」
「せやろ。わしも気をつけなあかんな。松坂屋さんに懐を握られる」
「握る気ないですって」
上司は、魚のすり身揚げをかじりながら笑った。
「懐は握ってへんかもしれん。けど、お前、住民の腹は満たしとるやろ」
「それは……否定できません」
「胃袋を掴んでるやないか」
その場に笑いが起きた。
同席していた奈良の年配の僧も、静かに笑っていた。
「時代が時代ですから、寺社と商人、武家と町衆の関わりはいろいろ見てまいりました。
ですが、ここまで慕われている飯屋というのは、私もあまり見たことがございません」
「慕われてるんですかね」
博之が首を傾げると、僧は穏やかに言った。
「少なくとも、飯を食わせ、寝床を用意し、道を整え、困った者を拾い、寺社に場を作る。
そういう存在は、ただの商人とは少し違います」
城主がうなずく。
「そうや。しかも武器を振り回してるわけやない。刀で脅してるわけでもない。
飯を出して、荷を通して、銭を回して、気づいたら相手ががんじがらめになっとる」
「言い方が怖いです」
「実際怖いんや」
奈良の僧は、少し考え込むように続けた。
「畿内でも、もちろん商人が力を持つ例はございます。堺衆、京の旦那衆、寺社に出入りする
有力な商人たち。けれど、それは多くの場合、武家同士、公家同士、寺社同士の駆け引きの中で
力を持つものです」
「はい」
「伊勢松坂屋殿の場合は、少し違います。飯屋として始まり、飯場を作り、人を雇い、
買い付け隊を持ち、寺社と結び、若侍を抱え、港と郊外を整える。武家をこけにしている、
と言えば言い過ぎかもしれませんが、少なくとも武家の不得手なところへ入り込み、結果として
手のひらの上で転がしているようにも見えます」
博之は、慌てて手を振った。
「いやいやいや、転がしてるつもりはないです」
上司がすかさず言う。
「転がしてる側は、だいたいそう言うんや」
「ひどい」
僧は少し微笑んだ。
「今回に関しては、長野のお殿様の適性のなさが大きかったのでしょう。伊勢松坂屋殿が
最初から津を取りに行ったのではない。むしろ、向こうが揉め、若者を追い出し、商人の信用を失い、
境目を荒らされ、どうにもならなくなったところを、伊勢松坂屋殿が引き取った」
「土地を取ったわけではないですけどね」
博之が言うと、僧は頷く。
「ええ。土地は取っておられません。しかし、土地を取った時に得られるものの一部、
すなわち交通の便、荷の流れ、港の実務、郊外の人の集まり、それらを得ておられる」
城主が膝を打った。
「それや。それが怖いねん」
博之は黙った。
たしかに、土地は取っていない。
津の城下にも手を出していない。
長野家の収入も、一応保証している。
だが、港に横丁を作り、郊外に拠点を置き、荷を関へ通し、炊き出しで領民の腹を満たす。
それは、土地を取らずに土地の意味を取っているようなものだった。
奈良の僧は続けた。
「伊賀越えで物流を通すには限界があります。そこへ北伊勢を押さえ、関から草津へ回す道を作る。
さらに四日市、白子、津、関を通り、いずれ尾張へも目を向けられる。そうなれば、
今回の津の一件は、単なる揉め事ではなく、大きな実利を生むことになるでしょう」
城主は、にやにやしながら博之を見た。
「な? 分かるやろ。お前、めちゃくちゃ得しとるんや」
「いや、得はしてると思いますけど、こっちも炊き出しやら保証やらで金を出してますから」
「出しながら取ってるんやろ」
「それは……そうです」
「正直でよろしい」
城主は笑った。
「飯屋って怖いな。武器を持ってへんのに、人の腹を満たす。腹を満たしたら、人は寄ってくる。
人が寄ったら商いが起きる。商いが起きたら、銭が動く。銭が動いたら、武家が動かざるを
得なくなる」
奈良の僧も頷く。
「武家は土地を治める。けれど、飯屋は人の流れを治める。そういう見方もできるかもしれません」
「やめてください。ほんまに大げさです」
博之は頭を抱えた。
「私はただ、飯を食わせて、道を作って、困ってる人を拾ってるだけで」
城主がすぐに突っ込む。
「それが大げさなんや」
また笑いが起きた。
城主は、少しだけ声を低くした。
「で、あの長野の殿様は、今ごろぶつくさ言ってるんやろ」
「たぶん、怒ってます」
「怒るやろなあ。自分が“勝手にしろ”と言うたら、本当に勝手にされて、しかもそれで
事態が鎮まってしまった。これほど腹立つことはない」
奈良の僧が静かに言った。
「しかし、怒りでは飯は出ません」
「名言やな」
城主は笑った。
「怒りでは飯は出ん。怒りでは荷も動かん。怒りでは領民の腹も満たされん。結局、
飯を出した方が勝つ」
博之は、苦い顔で茶を飲んだ。
「勝ちたいわけではないんですけど」
「勝っとるんや」
「またそういうこと言う」
城主は、楽しそうに肉あんをつまんだ。
「まあ、わしからしたら面白い。長野が勝手に弱り、伊勢松坂屋が港と郊外を押さえ、
境目も静まり、商人も戻る。しかも城下には手を出してへんから、表向きは長野の面子も残っとる」
「そこはかなり気を使いました」
「その気の使い方がまたいやらしい」
「いやらしいですか」
「いやらしい。相手に“取られた”と言わせへん形で取るんやからな」
博之は、今度こそ黙った。
奈良の僧は、穏やかに言った。
「けれど、それが商いの妙でもありましょう。正面から奪えば恨みが残る。けれど、相手の困りごとを
引き受け、収入を保証し、領民に飯を出し、結果として道を得る。これは、乱世における別の力の
使い方です」
上司は感心したように頷いた。
「坊様、ええこと言うな」
「見ていて、実に面白いのです」
「わしも面白い」
「私は怖いです」
博之だけが本音を漏らした。
城主は、にやりと笑った。
「怖がっとけ。怖がってる飯屋の方が、まだ安全や」
「それ、ヨイチにも言われます」
「ヨイチは分かっとる」
しばらく、皆で飯を食べた。
鯛味噌の混ぜ飯に茶をかけると、上司が目を細める。
「これもええな。食が進まん時にちょうどええ」
「港町向けに考えてます」
「また増えるな」
「増やさないようにしたいです」
「無理やろ」
奈良の僧も笑った。
「伊勢松坂屋殿の飯は、道を作りますから」
「それ、褒めてます?」
「はい」
「怖い褒め方やな」
城主は、最後に茶を置いて、しみじみと言った。
「まあ、今回のことで分かったわ。武家は刀を持つ。寺は教えを持つ。商人は銭を持つ。けど、
お前は飯を持っとる」
「飯だけです」
「その飯が、人を動かすんや」
博之は、返す言葉をなくした。
松阪の城主は、けらけら笑いながら締めた。
「ほんま、飯屋って怖いなあ」
奈良の僧も、静かに頷く。
「ええ。実に怖く、実に面白い」
博之は、ため息をつきながら言った。
「私はただの飯屋です」
城主は即答した。
「だから、ただの飯屋のやってることちゃうねん」
座敷には、また大きな笑い声が響いた