作品タイトル不明
長野家と伊勢松坂屋の交渉成る。津の郊外2か所、港1か所横丁建設。地盤を厚くして物流強化。見返りに各所の炊き出し支援。
長野家の若い衆は、松坂から戻るなり、調整役のもとへ向かった。
「旦那様と話をつけてきました」
その一言で、調整役の顔つきが変わった。
「どういう話になった」
若侍は、座敷に通されると、落ち着いて話し始めた。
「まず、今の長野家が商いから得ている収入については、伊勢松坂屋が一定額を保証する、
という話です」
「収入を保証する?」
「はい。今まで長野家が受け取っていた分を基準にして、その分は伊勢松坂屋側で負担する。
その代わり、そこから上に乗る利益、つまり上っ跳ねの部分は伊勢松坂屋が取る、という形です」
調整役は、黙って聞いていた。
「次に、伊勢松坂屋の大きな荷を、津の領内から関方面へ安全に通す約束が欲しいとのことです。
今、関から草津へ抜ける道の価値が上がっています。そこへ荷を流すために、津の通り道を
安定させたい、と」
「なるほど」
「そのために、津の郊外に二つ拠点を増やす。飯場、荷置き場、場合によっては寺社を使った
炊き出しや交流の場も作る。これは、境目の村々への支援にもなると」
「郊外二つか」
「はい。そして港にも横丁を一つ増やす。港を厚くする。荷が入り、人が動き、
商人が戻るようにする。これについては、領地の湾岸整備、交通の便の整備という
名目が立つだろうとのことです」
調整役は、小さく息を吐いた。
「城下はどうする」
「城下町には手を出さない、とのことです」
その言葉に、調整役は少しだけ目を見開いた。
「そこは大きいな」
「はい。旦那様も、そこは大事だとおっしゃっていました。殿様のお膝元に踏み込めば、
いくら“勝手にしろ”と言われていても、面子が潰れる。だから、城下には手を出さず、
郊外と港だけにする」
調整役は、しばらく考え込んだ。
「……それなら飲めそうやな」
「私もそう思います」
若侍は、少し身を乗り出した。
「正直に申し上げます。これで飲めないなら、かなり厳しいです」
「うむ」
「今、北の領地境はかなり脅かされています。小競り合いが続き、領民の負担は増え、
雑兵の士気も落ちています。しかも、商人筋には長野家の評判が落ちている。
ここで伊勢松坂屋が収入を保証して、さらに港と郊外を整備すると言っているなら、
拒む理由は少ないはずです」
「上っ跳ねを取られる、という点で殿は怒るかもしれん」
「そこは、こう説明できます」
若侍は、博之たちと話してきた内容を思い出しながら続けた。
「今の収入は保証されます。つまり、何もしない場合と同じ収入は残る。上っ跳ねというのは、
伊勢松坂屋が大量の荷を通し、宿、飯場、荷置き場、港の整備によって新しく生まれる部分です。
その新しく生んだ利益を伊勢松坂屋が取る、というだけです」
「なるほどな。元からあったものを奪うのではなく、新しく太らせた分を取る、と」
「はい。そう言えば、無茶な話ではありません」
調整役は頷いた。
「むしろ、かなり抑えた条件やな」
「はい。私も、本当はもっと厳しい条件を課されるかもしれないと思っていました」
「港の権益を丸ごと取るくらいか」
「それくらいは覚悟するべき状況だったと思います」
座敷が静かになった。
調整役も、その覚悟はしていた。長引けば長引くほど、長野家は不利になる。
境目の小競り合いで疲弊し、商人が離れ、伊勢松坂屋が別の道を固めれば、津は置いていかれる。
そうなれば、伊勢松坂屋はもっと強い条件を出せたはずだった。
それを、今の収入保証、上乗せ利益の取得、荷の安全通行、郊外二拠点、港一拠点、
城下不干渉で収めている。
調整役は、低い声で言った。
「今が、飲める最大の条件かもしれんな」
「はい。旦那様も、これがさっさと通るなら、さっさと鎮静化へ向けて動いた方がいいと
見ているようでした」
「炊き出しもするのか」
「はい。郊外の寺社を使って、炊き出しや交流の会を始める案です。兵に駆り出されて疲れている
村々には、飯が効きます。伊勢松坂屋がただ商いに来るのではなく、領民にも飯を返す形にできます」
「それは大きい」
「港も、荷が増えれば人が来ます。人が来れば銭が落ちます。商人も戻りやすくなる」
調整役は、少しだけ苦笑した。
「飯屋に領地の立て直しを教えられるとはな」
「私も、そう思いました」
「だが、理は通っている」
「はい」
しばらくして、調整役は決断した。
「この案で行こう」
若侍たちの顔が引き締まる。
「殿様に、ですか」
「そうだ。正直、殿は怒る。権限を奪われると感じるだろう」
「はい」
「だが、権限があっても立て直す施策がないなら、どうしようもない。今のままでは、
領民の不満も、商人の離れも、小競り合いも止まらん」
調整役は、ふっと疲れたように笑った。
「共作や不作になった時でも、今の収入ベースを保証してくれるなら、悪い話ではない。
むしろ、かなりありがたい話だ」
「それも、殿様に伝えるべきかと」
「伝える。ただ、言い方は考える」
そこで若侍の一人が、少し口ごもりながら言った。
「あの、我らの扱いについてですが……」
調整役は、その若者を見た。
「ああ、それも話しておかねばならん」
彼は、少し間を置いてから言った。
「お前らは、無理に長野家へ戻らんでもいい」
若侍たちは黙った。
「正直に言う。今のお前らは、伊勢松坂屋で給金三倍をもらっている。飯と寝床もある。そんな待遇を
長野家が出す余裕はない」
「……はい」
「無理に戻せば、また不満が出る。殿様も意地になる。お前らも居場所を失う。それなら、
伊勢松坂屋の者として、津との交渉口になった方がよい」
「伊勢松坂屋の者として、ですか」
「そうだ。言うなら、伊勢松坂屋・長野家支店のようなものだ」
若侍の一人が、思わず変な顔をした。
「支店、でございますか」
「言い方は変かもしれんが、実態としてはそうなる。お前らは長野家を知っている。
伊勢松坂屋も知り始めている。北伊勢も見た。なら、郊外や港の拠点で働きながら、
長野家との間をつなぐ役目ができる」
若侍たちは、少しずつ表情を変えた。
戻るか、戻らないか。
それだけだと思っていた。
だが、第三の形がある。
伊勢松坂屋の者でありながら、津を見捨てない形。
「それでよろしいのでしょうか」
「よろしいかどうかは、これから決める」
調整役は答えた。
「だが、少なくとも今の長野家には、お前らを同じ待遇で雇う余裕はない。ならば、
無理に戻すより、その立場を利用した方がよい」
「殿様は怒られます」
「怒るだろうな」
「では」
「だが、殿は“勝手にしろ”とおっしゃった」
調整役は、苦い顔で言った。
「その言葉を、こちらも使う。勝手にする。ただし、長野家を裏切るのではない。
津を立て直すために、伊勢松坂屋の力を借りる」
若侍たちは、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「礼はまだ早い。殿様に話を通さねばならん」
「これで駄目だと言われたら」
調整役は、重く息を吐いた。
「その時は、わしらも匙を投げねばならんかもしれん」
座敷に重い沈黙が落ちた。
それほどの話だった。
長野家の面子、津の商い、北伊勢の小競り合い、伊勢松坂屋の権益、若侍たちの身の振り方。
すべてが、この案に乗っている。
それでも、調整役は立ち上がった。
「行くぞ」
「今からですか」
「こういう話は、寝かせると腐る。殿様がまた別のことで機嫌を悪くする前に持っていく」
若侍たちも立ち上がる。
調整役は、最後に念を押した。
「殿様の前では、伊勢松坂屋に頭を下げるとは言うな」
「はい」
「領地の交通と湾岸の整備。商い収入の安定化。領民の支援。関方面への荷の安全通行。
そういう言い方にする」
「承知しました」
「そして、城下には手を出さない。それを強く言う」
「はい」
彼らは、長野の殿様のもとへ向かった。
殿様は、相変わらず不機嫌な顔をしていた。
「今度は何や」
調整役は、深く頭を下げた。
「津を立て直すための話でございます」
「また飯屋か」
「伊勢松坂屋の力を使います。ただし、城下には入れません」
その言葉に、殿様の目がわずかに動いた。
「城下には入れん?」
「はい。港と郊外のみです。今の商い収入は保証させます。その上で、荷の増加により新しく出る
利益は伊勢松坂屋が取る。代わりに、郊外二拠点、港一拠点を整え、炊き出しも行い、
関方面への荷の流れを安定させます」
殿様は、黙って聞いていた。
怒鳴るかと思ったが、すぐには怒鳴らなかった。
調整役は続けた。
「今、北の境目は荒れております。領民の士気も低い。商人も津を避け始めている。
このままでは、収入は落ち、評判も落ちます。ですが、この案なら、少なくとも今の収入ベースは
維持できます」
「権限は?」
「港と郊外の実務は、伊勢松坂屋にかなり任せることになります」
「つまり、取られるんやないか」
「取られるのではなく、任せるのです。こちらに立て直す手がない以上、動かせる者に
動かさせるしかありません」
殿様の顔が険しくなる。
だが、調整役は引かなかった。
「しかも、城下には入れません。殿のお膝元には手を出させません。これは、今取れる最大限の形です」
殿様は、しばらく黙っていた。
若侍たちは、息を詰めて見守った。
やがて殿様は、低い声で言った。
「……勝手にしろ」
また、その言葉だった。
だが、今回は調整役の目が少しだけ光った。
「承知しました」
殿様は顔を背けた。
「俺は知らん。うまくいかんでも、お前らの責任や」
「承知しております」
座敷を出た後、調整役は若侍たちに小さく言った。
「言質は取った」
若侍たちは、顔を見合わせた。
「本当に、動くのですね」
「動く。これで駄目なら、その時こそ本当に終わりだ」
調整役は、深く息を吐いた。
「伊勢松坂屋に文を書く。条件を飲む、と」
こうして、津と伊勢松坂屋の関係は、ようやく喧嘩から商いの形へ移り始めた。
ただしそれは、仲直りではない。
長野家が、どうにか面子を残しながら、伊勢松坂屋の力を借りざるを得なくなったということだった。