作品タイトル不明
長野家の領内での北伊勢国人衆との争いで長野家が消耗。殿様の積み上げに対してうわさが広まり兵の士気も低い。領民負担緩和の炊き出しやや噂の鎮火のために伊勢松坂屋との関係を修復できないか
長野の殿様は、相変わらず機嫌が悪かった。
若い者たちが伊勢松坂屋へ走った件は、城内にじわじわと広がっている。
表立って口にする者はいない。だが、廊下の端、台所の裏、配膳の控え、若侍たちの間で、
ひそひそと噂になっているのは分かる。
殿様は、それが何より気に入らなかった。
「飯屋に行っただけやろうが」
そう吐き捨てても、周りの空気は元に戻らない。
そこへ、さらに急報が入った。
「北伊勢の国人衆が、また境目に仕掛けております」
「またか」
殿様は、眉間に皺を寄せた。
「城を取りに来るほどの話か」
「いえ、そこまでではございません。ただ、領地の狭間の村で、強盗まがいの押し込み、
刈り取り前の穀物の横取り、荷の通行妨害が起きております」
「堂々とやっとるんか」
「はい。小競り合いを試すように」
殿様は舌打ちした。
「兵を出せばええやろ」
「出しております」
「なら、なぜ止まらん」
「負けてはおりません。ですが、勝ち切れてもおりません」
報告役の言葉に、殿様の顔がさらに険しくなる。
「なんやそれは」
「こちらが兵を出せば、相手は引きます。ですが、追えば逃げ、戻ればまた別の村に出る。
こちらの兵も、あちこちに駆り出され、疲弊しております」
「そんなにうちの兵は弱くなったんか」
「いえ、常備の兵や侍衆は、鍛錬もしておりますし、弱くなったわけではございません」
「では何が問題や」
調整役が、重い顔で口を開いた。
「集めた雑兵、領民から出した者たちの士気が低うございます」
「領民を駆り出すのは当たり前やろう。領地を守るんやから」
「それはその通りでございます。ただ、境目でのちょっかいが増え、その都度、村々から人を
出させております。農作業の手も止まる。家の男手も抜かれる。しかも、相手は正面から戦わず、
逃げる。こちらは疲れるばかりでございます」
「それで逃げるんか」
「早々に逃げる者が出ております」
「情けない」
殿様は吐き捨てた。
「鍛錬が足らん」
「鍛錬だけの問題ではございません」
調整役は、恐る恐る続けた。
「噂が回っております」
「噂?」
「先だって、伊勢松坂屋と揉め、若い者が何人か出て行った件です」
殿様の顔が、ぴくりと動いた。
「またその話か」
「関、白子、四日市の商人筋で、かなり話が回っております。長野家は伊勢松坂屋と揉めた。
奈良の僧にも袖にされた。若侍が飯屋へ走った。そういう形で」
「松坂屋が手を回したんか」
「それは薄いと思います」
「なぜ言い切れる」
「今、伊勢松坂屋は奈良と草津に力を入れております。四日市や白子にも手を伸ばしていますが、
津を潰すために噂を撒くほど、うちに関心を向けているようには見えません」
「なんやと」
「言い方は悪いですが、向こうからすれば、今の津は主戦場ではないのです」
殿様は、無言になった。
それは、馬鹿にされたようで腹立たしい。
だが同時に、否定しきれない響きがあった。
調整役は、さらに言った。
「噂は自然発生に近いかと。伊勢松坂屋の買い付け隊が白子、四日市、関を動けば、
商人たちが話します。長野家の若い者が伊勢松坂屋の袴を着て北伊勢を回っている、
という話も、おそらく出ております」
「何やと。あいつら、もう北伊勢に行っとるんか」
「はい。白子、四日市、亀山、関あたりを見ているようです」
「勝手にしろと言ったやろうが」
「勝手にしております」
調整役の声には、少し疲れが滲んでいた。
殿様は、また苛立って立ち上がった。
「領内にちょっかいをかけられ、兵を出しても決め手に欠ける。領民は逃げる。
商人は噂を流す。飯屋は奈良だ草津だと勝手に伸びる。なんでこんなことになっとるんや」
誰も答えられない。
ただ、皆が心の中で思っていた。
少しずつ積み重なって、こうなったのだと。
伊勢松坂屋を軽く見た。
信楽焼の道の意味を知らなかった。
奈良の僧を横から呼ぼうとした。
若い者の進言を怒鳴りつけた。
そして「飯屋に就職してこい」と言った。
その一つ一つが、今の状況につながっている。
調整役は、慎重に口を開いた。
「殿。領民の負担が増えております。境目の村々には、何らかの手当てが必要です。
年貢を一部軽くする、兵糧を補助する、あるいは炊き出しを行うなど」
「どこにそんな銭がある」
「そこが問題でございます」
「分かって言うとるんか」
「分かっております。ですが、何もしなければ、さらに士気が下がります」
殿様は、苛立ちを隠さず座り直した。
「なら、どうせえと言うんや」
その時、逃げずに長野家に残っていた若い侍の一人が、静かに口を開いた。
「恐れながら」
「何や」
「伊勢松坂屋へ、改めて話を通すべきかと」
場が凍った。
殿様の目が、若侍に向く。
「なんでそこで飯屋が出てくる」
「今、噂が広がっております。若い者が出て行ったこと、伊勢松坂屋と揉めたこと、
奈良の僧を呼べなかったこと。それが、長野家の弱り目として見られております」
「だから?」
「その噂を止めるには、伊勢松坂屋と何らかの落としどころを作る必要があります」
「落としどころやと」
「はい。たとえば、出て行った若者たちと和解した形を作る。彼らを正式に責めない。
むしろ、北伊勢の見聞を持ち帰らせる役目にする。伊勢松坂屋とは、津郊外の寺社や炊き出し、
あるいは港町での小さな会から始める」
「お前まで、飯屋に頭を下げろと言うんか」
「頭を下げる、という話ではございません」
「同じやろうが」
若侍は唇を噛んだ。
それでも、言葉を続ける。
「若者たちは、津を嫌って出たわけではないと思います。伊賀越えを経験し、信楽焼の道を見て、
伊勢松坂屋のやり方を知った。だからこそ、殿に申し上げたのだと思います」
「わしが悪いと言いたいのか」
「そうではございません。ただ、彼らにはまだ津を思う気持ちがあります。先日、
様子を見に行った者たちも、彼らが完全に縁を切ったわけではないと申しておりました」
調整役も、そこで口を添えた。
「殿。ここで意地を張れば、彼らは本当に伊勢松坂屋の者になります。ですが、今ならまだ、
津との口になり得ます」
「口?」
「はい。津と伊勢松坂屋の間の調整口です。彼らは長野家を知り、伊勢松坂屋も知り始めています。
北伊勢の港も見ている。そういう者は、むしろ使えます」
殿様は、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「使える? 勝手に出て行った者をか」
「勝手に出て行かせたのは、こちらの言葉でもあります」
調整役がそう言うと、座敷の空気がさらに重くなった。
「殿のお言葉を、彼らは本気に受け取りました」
「知らん」
殿様は、そっぽを向いた。
「飯屋に行けと言うたら、本当に行った。そんな奴ら、勝手にしろ」
若侍たちは、顔を見合わせた。
調整役は、心底疲れたように目を伏せた。
「殿。今はすねておられる場合ではございません」
「すねてなどおらん」
「では、どうされますか。境目の小競り合いは続いております。領民の士気は下がっております。
商人筋では長野家の評判が揺れております。伊勢松坂屋は奈良、草津、四日市へ伸びております。
このまま放っておけば、津だけが置いていかれます」
「うるさい」
「殿」
「俺は知らん。勝手にしろ」
またその言葉だった。
しかし今回は、若い者たちの表情が前とは違った。
怒りというより、呆れ。
失望に近いものが、静かに広がっていた。
若侍の一人が、小さく言った。
「……それでは、本当に皆、勝手にし始めます」
殿様が睨む。
「何か言うたか」
「いえ」
調整役が慌てて間に入る。
「ひとまず、境目への対応は続けます。ただ、同時に伊勢松坂屋への口は探ります。
若者たちに、北伊勢で見たことを報告させる形を作れるかもしれません」
「勝手にせえ」
「では、そのように」
調整役は深く頭を下げた。
殿様は、まだ不機嫌だった。
だが、座敷を出た調整役と若侍たちは、もう分かっていた。
殿様が「勝手にしろ」と言った以上、動くしかない。
廊下へ出ると、若侍の一人が低い声で言った。
「本当に、このままでええんですか」
調整役は、苦い顔で答えた。
「よくはない。だが、殿が動かぬなら、こちらで口を作るしかない」
「伊勢松坂屋へ?」
「そうだ」
「向こうは受けてくれますか」
「分からん。ただ、若者たちを抱えた以上、向こうも津を完全には切っていないはずだ」
別の若侍が言った。
「彼らが北伊勢から戻ったら、まず話を聞きましょう」
「うむ。白子、四日市、関で何を見たか。それが大事になる」
調整役は、遠くの庭を見た。
殿様は、まだ飯屋に振り回されていると思っている。
だが、実際には、領地の境目が揺れ、兵の士気が下がり、商人が別の道を選び始めている。
飯屋一つを軽く見た結果ではない。
その背後にある、道、飯、銭、信用を軽く見た結果だった。
若侍が、ぽつりと言った。
「伊勢松坂屋に頭を下げるしかないんでしょうか」
調整役は、少しだけ首を振った。
「頭を下げる、ではない」
「では?」
「飯を食いに行くのだ」
若侍たちは、一瞬きょとんとした。
調整役は疲れたように笑った。
「向こうは飯屋だ。まず飯を食う。話はその後だ」
それは、伊勢松坂屋で何度も聞いた言葉だった。
若侍たちは、苦笑した。
津の立て直しは、刀や怒声ではなく、ひょっとすると一膳の飯から始まるのかもしれなかった。