作品タイトル不明
北伊勢方面の買付隊護衛につく長野家の若者。白子の港の勢いが津よりもある。関→草津の伊勢松坂屋の定期便の勢い。一方で長野領と北伊勢国人衆が小競り合いをはじめる
長野家から伊勢松坂屋へ身を寄せた若侍たちは、いよいよ北伊勢方面へ向かうことになった。
本来なら、津をまず見るべきだったのかもしれない。
だが、津はあまりにも気まずい。
自分たちが飛び出してきた長野家の領分であり、殿様はいまだに機嫌を損ねている。
しかも伊勢松坂屋と津は、飯場の件でも信楽焼の件でも揉めている。そんなところへ、
いきなり伊勢松坂屋の袴を着た自分たちが入れば、余計な火種になりかねない。
そこで、買い付け隊の案内役は言った。
「まずは白子、関、そのあたりを見るのがええやろ。津そのものは後でええ。白子や四日市を
見た方が、先々のためになる」
若侍たちは頷いた。
伊勢松坂屋の袴を着て、買い付け隊とともに北へ向かう。荷には伊勢の小物、松阪木綿、包み紙、
少しの信楽焼、そして交換用の品が入っている。護衛とはいえ、彼らはまだ見習いだ。道中、
ただ刀を差して歩けばよいわけではない。
「相手の顔を覚えろ」
「店の並びを見ろ」
「どこで荷が止まるか見ろ」
「誰が声をかけてくるか、それが大事や」
そう教えられながら進むうちに、若侍たちは少しずつ、自分たちがこれまで見ていなかった
世界へ入っていった。
そして白子に着いた時、彼らは思わず足を止めた。
「……津より活気があるのでは」
若侍の一人が、ぽつりと呟いた。
港には荷が動き、人が行き来し、商人たちが声を張っている。魚、塩、干物、木綿、油、紙、器。
伊勢松坂屋の袴を見た者たちが、すぐに声をかけてくる。
「おお、伊勢松坂屋さんやないですか」
「最近また買い付け増えたそうで」
「四日市の方にも出したんでしょう」
「白子にも、もっと荷を回してくださいよ」
若侍たちは、少し戸惑った。
長野家の若い衆として歩いていた時には、ここまで気さくに声をかけられたことはない。
ところが、伊勢松坂屋の袴を着ているだけで、商人たちの目つきが変わる。
「最近、勢いよくて羨ましいですわ」
ある商人が笑いながら言った。
「伊勢松坂屋さんは、ほんま強い。買う時はどんと買うし、品もちゃんと流すし、
揉めても銭で筋を通す。ああいうところとは付き合いやすい」
若侍の一人が、少し複雑な顔をした。
「津は……どう見えていますか」
商人は、一瞬だけ言葉を選んだ。
「まあ、津そのものは悪い場所やないですよ。港もある。道もある。人もおる。けど、殿様がなあ」
「殿様が、ですか」
「商売に対して、ちょっと分かってへんように見えることが多すぎるんですわ」
若侍たちは黙った。
商人は、遠慮なく続けた。
「今、勢いのある伊勢松坂屋さんと揉める意味が分からん。飯屋や言うて下に見るのは勝手やけど、
あそこはもう飯だけやない。買い付け隊を持って、伊勢、松阪、鳥羽、信楽、奈良、草津まで
話を伸ばしとる。そんなところを重宝せえへん政治感覚が、こっちからすると怖い」
「怖い、ですか」
「怖いですよ。約束しても、殿様の機嫌でひっくり返るんちゃうかと思う。こっちまで
振り回されるのはごめんですわ」
別の商人が横から口を挟んだ。
「それやったら、まだ亀山や関の方が話が早い。大きな顔はできんかもしれんけど、その分、こちらの
話をよう聞く。商人にとっては、そういう方が助かることも多いんです」
若侍たちは、また顔を見合わせた。
大きければよいわけではない。
領地を持っていればよいわけでもない。
そこを治める者が、商いをどう見るか。人の流れ、荷の流れをどう扱うか。その感覚一つで、
人は別の場所へ流れていく。
若侍たちは、今さらながらそのことを思い知った。
買い付け隊の年長者が、白子の荷置き場を指差した。
「見てみい。あそこに集まってる荷の中には、草津へ向かうものもある」
「草津へ?」
「そうや。伊勢松坂屋は、関を通って草津へ抜ける道を見てる。信楽から草津、草津から関、関から
白子や松阪へ。逆に伊勢や松阪の品を草津へ送ることもできる」
「伊賀を通らずに、ですか」
「そうや。伊賀には伊賀の意味がある。けど、荷を大量に通すなら、関から草津の道は大きい」
若侍の一人は、はっとした。
自分たちは伊賀を越えた。
あの道の厳しさ、危険さ、そしてそこを通る価値を身に染みて知った。
だが、だからこそ分かる。別の道があるなら、その道にも価値がある。
白子や関が活気づいているのは、単に港があるからではない。伊勢松坂屋が、ここを通り道として
見始めたからだ。荷が集まり、人が集まり、商人が期待する。
「つまり、草津の重要性が増しているから、こっちの東海道筋も使われるのですね」
若侍が言うと、買い付け隊の年長者は頷いた。
「そういうことや。道はつながって初めて価値が出る。白子も関も、ただそこにあるだけではない。
草津、信楽、伊勢、松阪、奈良。そこへつながるから、値打ちが出る」
若侍たちは、目から鱗が落ちる思いだった。
武家の屋敷で聞く地図と、商人たちが歩く道は違う。
地図の上では、津は大きい。港もある。領主の力もある。
だが、商人の目で見れば、約束を守るか、話が通じるか、荷が止まらないか、銭が回るかの方が
大事だった。
「上が気まぐれで、ころころ言うことを変えると、下は嫌がるんや」
商人の一人が言った。
「商いは、今日明日だけやない。来月も、来年も、同じ道を通れると思えるから荷を出す。
急に機嫌で止められたら、こっちはたまらん」
その言葉は、若侍たちの胸に刺さった。
自分たちもまた、機嫌に振り回されてきた。
殿様の一言で、屋敷を出ることになった。
だから商人たちの言葉が、他人事に聞こえなかった。
四日市に入ると、その印象はさらに強くなった。
港はまだ立ち上がりの途中ではあるが、勢いがあった。伊勢松坂屋の荷が入り、買い付け隊が動き、
地元の商人たちがそれに合わせて品を用意し始めている。
「桑名の方も見ておくとええですよ」
四日市の商人が言った。
「桑名はまた違う。大名の力が弱いところもあるけど、その分、町や商人が強い。自治みたいなもんが
効く場所は、商いがしやすいこともある」
「領主の力が弱い方が、商人は動きやすいのですか」
「場合による。でも、上が強すぎて気まぐれなら、それは最悪ですわ。弱くても、話が通って、
約束が守られて、町が自分らで回せるなら、その方がええこともある」
若侍たちは、また黙った。
武家としては、強い領主こそよいと思っていた。
だが商人の世界では、強さの意味が違う。
強いが気まぐれな殿様より、弱くても約束が守られる町の方が、人と荷を集める。
その事実を、彼らは北伊勢の港で突きつけられていた。
そんな時、ひとりの商人が声を潜めて近づいてきた。
「伊勢松坂屋さん、ちょっと耳に入れといた方がええ話があります」
買い付け隊の年長者が、表情を変えた。
「何や」
「長野さんのところな。今回の一連の騒ぎで、北伊勢の国人衆がちょっと調子づいてます」
若侍たちの顔が強張った。
「どういうことですか」
「長野の若い衆が出て行った。奈良の坊さんにも袖にされた。伊勢松坂屋とも揉めてる。
そんな噂が広がってるんですわ」
「それで?」
「領地の狭間で、小競り合いをちょいちょい始めるんやないかって話が出てます」
若侍の一人は、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「小競り合い……」
「大きな戦というほどではないかもしれん。でも、境目の村や荷の通り道で、ちょっとした嫌がらせ、
押し込み、通行の邪魔、そういうのはあり得る。上が弱ったと見られたら、周りは試してくる」
その瞬間、若侍たちは、自分たちの出奔がただの個人的な出来事ではなかったことを思い知った。
自分たちが飛び出した。
殿様が荒れた。
伊勢松坂屋との関係がこじれた。
奈良の僧を呼び損ねた。
そのすべてが、外からは「長野家の揺らぎ」と見られている。
「俺らのせいで……」
若侍の一人が呟く。
買い付け隊の年長者が、すぐに首を振った。
「全部お前らのせいやない」
「でも」
「上がちゃんとしとったら、若い衆が数人出ただけで周りが調子づくことはない。
お前らが出たことは火種やけど、薪を積んでたのは長野家や」
その言葉は、慰めでもあり、さらに重い現実でもあった。
若侍たちは、しばらく何も言えなかった。
白子、関、四日市。
そこを見れば、北伊勢の商いが分かると思っていた。
だが、実際に見えたのは、それ以上だった。
商人は、強い者ではなく、信用できる者へ流れる。
町は、気まぐれな権力より、安定した道を選ぶ。
そして、領主の弱り目は、周囲にすぐ見抜かれる。
伊勢松坂屋の袴を着ている自分たちは、もう長野家だけの若侍ではない。
けれど、長野家の揺らぎを他人事として見ることもできない。
若侍の一人が、低い声で言った。
「これは、松阪へ戻ったら旦那様に報告せなあかんな」
別の者も頷いた。
「相談役にも、いずれ伝えなあかん」
「殿様が聞くかどうかは分からん」
「それでも、知らんわけにはいかん」
買い付け隊の年長者は、そんな彼らを見て静かに言った。
「よう見とけ。これが道を見るということや。荷だけやない。人の顔、町の勢い、噂、恐れ、欲。
全部が道に出る」
若侍たちは、深く頷いた。
北伊勢の港には、潮の匂いと、荷の匂いと、銭の匂いがあった。
そしてその奥に、戦の匂いがわずかに混じり始めていた。