作品タイトル不明
滞在中は驚きと学びの連続。帰宅後津の長野方から連絡。話題のお坊さんが来ているならぜひうちにも。寺も上げるよ。博之はあっさり断る
奈良の僧たちは、二、三日ほど伊勢に滞在した。
伊勢の上司に顔を出し、内宮の周辺を見て、伊勢松坂屋が寄進している寺や神社にも、
何組かに分かれて訪れた。ある組は、縁会でお好み焼きを焼く女衆を見た。ある組は、
伊勢の小物を買い付ける者たちの様子を見た。別の組は、鳥羽の方へ向かい、九鬼水軍の筋で、
港と寺社との関わりを見せてもらうことになった。
奈良の僧たちは、見るもの見るものに驚いていた。
寺社が、ただ寄進を待つのではない。
飯場を作り、人を集め、商いを通して町と関わる。
伊勢松坂屋は、そこへ銭と人と飯を流し込んでいる。
それは奈良の大寺とは、まったく違う生き方だった。
博之たちは、鳥羽へ向かった組とは別れて、先に伊勢から松阪へ戻った。
船から降り、松阪の館へ戻る。
だが、館に入った瞬間、博之は空気の違いに気づいた。
「……なんや。様子おかしいな」
ヨイチが、すぐに前へ出る。
「旦那様。少し厄介な話が来ております」
「厄介?」
お花も顔をしかめている。
「津、いえ、長野の方から使いが来ました」
博之の表情が、その時点で少し曇った。
「またか」
「はい。奈良のお坊様方がこちらへ来ていると聞きつけたようで、津の方でも説法をしてほしい、と」
博之は、露骨に顔をしかめた。
「なんでや」
その声には、かなり機嫌の悪さが混じっていた。
「こっちは、津で店出した時にも揉めた。信楽焼の件でも揉めた。
長野の若い衆を伊賀越えまでさせて、ようやく少し分かったかどうかってところやろ」
「はい」
「その状況で、奈良のお坊様方を津へ行かせるわけがないやんけ」
博之は、畳に座ることもせず、立ったまま吐き捨てるように言った。
「説法してほしい? 都合よすぎるやろ。自分らが呼んだわけでも、道中の飯を用意したわけでも、
袴を用意したわけでも、伊賀の道に銭を撒いたわけでもない。なのに、話題になってるから
寄越せってことやろ」
奈良の若い僧の一人が、少し困った顔で言った。
「ですが、先方の使いの話では、お寺を一つ用意する、と。そこで奈良の方々に
何かやっていただけるなら、という話だったそうです」
「お寺を一つ、ですか」
年配の僧も、少し驚いたように呟いた。
別の若い僧は、思わず言った。
「それは、ありがたい話ではございませんか」
博之は、その僧をじっと見た。
「ありがたい?」
「はい。寺を一つ任せてもらえるのであれば、説法や学びの場を作れるかもしれませんし、
奈良と津の交流にも……」
「あのな」
博之の声が低くなった。
広間が静かになる。
「そこを勘違いしたらあかん」
若い僧は、はっとして口を閉じた。
「今、あなた方には価値がある。奈良から来た偉いお坊様方や。しかも、伊勢松坂屋が
百五十万文積んで、伊賀越えして、松阪、伊勢、鳥羽を見て回ってる。話題性がある。
だから津の方も飛んできてる」
「話題性……」
「そうや。あなた方の仏法そのものを聞きたいというより、“今、話題の奈良の坊さんが
うちにも来た”という看板が欲しいんや」
年配の僧は、静かに目を伏せた。
博之は続ける。
「もちろん、津にも真面目に聞きたい人はおるかもしれん。けど、今このタイミングで
長野の方から来てる話は、かなり臭い」
「臭い、でございますか」
「臭い。うちと揉めてる。けど、奈良のお坊様方は今うちにいる。だったら、そこへ手を突っ込んで、
自分らも何かやってる風に見せたい。そういう匂いがする」
若い僧は、少し顔を赤くした。
博之は、少しだけ声を和らげた。
「お寺を一つあげる、というのもそうや。今はそれっぽく聞こえる。けど、あなた方が
必要な情報を話し終えたら、相手は興味を失うと思うぞ」
「そんなことが……」
「ある」
博之は即答した。
「今は“奈良の坊様”やから価値がある。伊勢松坂屋が呼んだ客やから価値がある。
奈良、伊勢、松阪、鳥羽を見て回ってるから価値がある。けど、津の寺に住み込んで、
ただの住職になったらどうなる」
誰も答えない。
「ただの住職になるんや」
博之は言った。
「しかも、地元のしがらみに巻かれる。長野の殿様の都合で呼ばれ、都合が悪くなったら
放っておかれる。寺を一つ任されたように見えて、実際にはそこに縛られる」
年配の僧が、静かに頷いた。
「確かに、寺を持つということは、土地に縛られるということでもありますな」
「そうです。今のあなた方は、奈良へ帰る場所がある。見聞を持ち帰る役目がある。
伊勢松坂屋の客として、各地で歓迎されている。でも、津に居ついた瞬間に、その立場は変わる」
お花が横から口を挟んだ。
「津の方々が悪いと言い切るつもりはありません。ただ、旦那様のおっしゃる通り、
今の話は少し急すぎます」
ヨイチも頷く。
「相手は、奈良の僧侶そのものではなく、“伊勢松坂屋が迎えた奈良の僧侶”という
看板に反応している可能性が高いです」
博之は、若い僧を見た。
「だから、行きたいなら止めません。私はあなた方を閉じ込めるつもりはない。津へ行って、
説法したい。寺を見たい。そこに何か役目があると思うなら、好きにしてもらってええ」
若い僧が少し顔を上げる。
博之は、そこで強く言った。
「でも、勘違いだけはしたらあかん。今の価値は、あなた個人がすごいからだけではない。
奈良から来たこと、百五十万文の話、伊賀越え、松阪と伊勢を見たこと、
伊勢松坂屋が後ろにいること。その全部が乗ってるから、相手が寄ってきてる」
「……はい」
「そこを自分の実力だけやと思ったら、飲まれる」
年配の僧が、若い僧に向かって静かに言った。
「よく聞いておきなさい。これは我らにも耳の痛い話です」
博之は少し息を吐いた。
「うちは、津と仲良くない。だから、私は行かせたくない。少なくとも今は」
「今は、でございますか」
「はい。今は、松阪、伊勢、鳥羽を見てもらう途中です。奈良へ帰って、何を見たか整理して、それからなら話は別です。津が本当に交流したいなら、改めて筋を通せばいい」
ヨイチが淡々と言う。
「少なくとも、奈良の方々を横から引き抜くような形は、こちらとしては受け入れがたいです」
「そういうことや」
博之は、少し乱暴に座った。
「お寺を一つあげる? ありがたい話に聞こえる。でも、相手が本当にその寺を支える気が
あるのか。飯はどうする。人はどうする。銭はどう回す。地元の寺社とどう折り合う。
そこを聞かずに飛びついたらあかん」
若い僧は、深く頭を下げた。
「軽く考えておりました。申し訳ございません」
「いや、責めたいわけじゃないんです」
博之は、少しだけ苦笑した。
「ただ、私も根なし草から始まって、あちこちで揉めて、ようやく少し分かってきたんです。
相手が今だけ欲しがってるのか、長く付き合う気があるのか。そこを見ないと、ほんまに危ない」
年配の僧は、ゆっくりと頷いた。
「津の話は、ひとまず保留にしましょう」
「それがええと思います」
「我々はまず、松阪、伊勢、鳥羽を見て、奈良へ帰る。そして、見たことを伝える。
その役目を果たします」
「ありがとうございます」
お花がほっとしたように息を吐いた。
「津の使いには、どう返しましょうか」
ヨイチが筆を取る。
博之は、少し考えて言った。
「奈良のお坊様方は、現在、伊勢松坂屋との交流の途上にあります。松阪、伊勢、鳥羽での
見聞を終えたのち、奈良へ戻られる予定です。津での説法や寺社交流については、
奈良側が帰還後に改めて判断されるべきことと考えます。今この場でお連れすることはできません。
って感じで」
「柔らかいですが、かなりはっきり断っていますね」
「それでええ」
「お寺を一つ用意する件は」
「それについては、“ありがたきお話ではありますが、寺を受けるとは土地に責任を持つことでも
ありますので、軽々にお受けすることはできません”とでも書いといて」
年配の僧は、その言葉に深く頷いた。
「それは、我々の言葉としても正しいです」
博之は、若い僧の方を見て言った。
「あなた方には、今のうちにいっぱい見てほしいんです。松阪の寺、伊勢の神宮、鳥羽の港、
九鬼水軍、うちの買い付け隊。見た上で、奈良に何を持ち帰るか考えてほしい」
「はい」
「津へ行くのは、それからでも遅くない。今、話題になってるからと飛びついたら、
こっちも向こうも変になります」
広間の空気は、少しずつ落ち着いていった。
長野からの誘いは、一見すると好条件だった。
寺を一つ用意する。説法をしてほしい。交流したい。
だが、その裏には、伊勢松坂屋と奈良の僧たちが作り始めた価値を、横から利用しようとする
匂いもあった。
博之は、畳に肘をつきながら、ぼそりと言った。
「ほんま、話題になったらすぐ寄ってくるな」
お花が答える。
「旦那様も、よく話題を作りすぎます」
「それは否定できん」
奈良の年配の僧は、そのやり取りを見て、静かに笑った。
「また一つ、学びました」
「何をですか」
「価値がある時ほど、足元を見なければならぬ、ということです」
博之は頷いた。
「それ、大事です」
津への返事は、その日のうちに整えられた。
奈良の僧たちは、改めて悟った。
伊勢松坂屋の旅は、ただ見せてもらうだけではない。
次々に現れる誘い、危うさ、欲、看板の価値を、その場で学ばされる旅でもあった。