軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

伊勢松坂屋がここまで栄えているのであれば武家筋や大商人の縁の者と結婚もありなのではという話をすると女衆がたしなめる。博之を結婚させたくない理由がそこにはある

奈良の若い僧が、ふとした調子で言った。

「しかし、それほど伊勢松坂屋さんが伊勢の国や南近江まで手を広げておられるのであれば、

地元の有力者や、どこぞの大商人の娘御、あるいは遠縁の方と縁を結ばれるというのは、

よくある話ではございませんか

その瞬間、広間の空気が少し変わった。

お花をはじめ、女衆の何人かが、一斉に顔をしかめた。

奈良の僧は、すぐに自分が何かまずいことを言ったのだと悟った。

「あ、あの、失礼を……」

お花が、静かに湯呑みを置いた。

「お坊様。そこなんです」

「そこ、でございますか」

「はい。お坊様は、何もわかっておられません」

若い僧は、完全に固まった。

年配の僧が、隣で小さく咳払いをする。だが、お花の表情は穏やかではない。

「奈良から来られて、大きな寺社にいて、どこぞの武家や商家の縁の方を受け入れることも

多いのでしょう。それは何となく分かります。大きな家と大きな家が縁を結ぶ。

そういうことは、よくあることなのでしょう」

「はい……」

「ですが、うちは都ではありません。地方です」

お花の声は、強かった。

「ここは伊勢です。北畠様の地域です。今は守られています。けれど、この先どうなるか分かりません。

織田がどう動くかも分からない。北伊勢も揺れている。長野も津も、関も神戸も、

いつどうなるか分からない」

奈良の僧たちは、黙って聞いていた。

「そんな中で、伊勢松坂屋は飯屋としてやっているから強いんです」

「飯屋として、ですか」

「はい。飯屋なら、どこの領地でも必要とされます。北畠様のところでも、九鬼様のところでも、

六角様の筋でも、大和でも、草津でも、飯屋なら残る余地があります。どこかの家が倒れても、

飯は残ります」

お花は、少しだけ博之の方を見た。

「旦那様がよく言うんです。うちは刀で戦う店ではない。飯を出す店だと」

博之は、気まずそうに茶をすすった。

「まあ、そうやな」

「ですが、そこに武家の縁を入れると話が変わります」

お花は、若い僧をまっすぐ見た。

「旦那様がどこぞの有力武家の娘と結婚したら、その家との関わりができます。縁戚になります。

そうなれば、伊勢松坂屋はただの飯屋ではなく、その家の色を持った店になります」

年配の僧が、深く頷いた。

「なるほど。どこかの家が滅びれば、連座する危険がある」

「そうです」

お花の声はさらに強くなった。

「私たちは、もともと根なし草同然のところからここまで来ました。飯が食えない者、寝床のない者、

身寄りのない子、行き場のない侍、そういう人たちが集まって、ようやくここまで来たんです」

女衆の一人も続けた。

「それを、旦那様の婚姻ひとつで、どこぞの武家の争いに巻き込まれて滅ぼされたら、

たまったものではありません」

別の女衆も頷く。

「旦那様は、女に弱そうですし」

「そこは言わんでええやろ」

博之が小さく抗議するが、誰も聞かない。

「だから、私たちは守っているんです。旦那様をというより、店をです」

お花は言い切った。

「正直に言えば、公家の偉い方の縁の者なら、百歩譲ってまだ許せます。公家なら武家ほど直接の

戦に巻き込まれる危険は少ない。寺社や文の筋にもつながるかもしれない。京都や奈良との

情報の道にもなる。もちろん、それでも慎重に見ます」

「百歩譲って、ですか」

「百歩譲ってです」

若い僧は、もう完全に恐縮していた。

「申し訳ございません。まことに、軽く考えておりました」

年配の僧も頭を下げる。

「なるほど。これは、都の縁組とはまったく違う話でございますな。飯屋であることが安全であり、

中立であり、強みである。それを婚姻で崩す恐れがある、と」

「はい」

お花は、少しだけ表情を緩めた。

「分かっていただければ、それで結構です」

そこで博之が、ぽつりと言った。

「ということは、公家様と結婚する筋はええんやな」

広間が一瞬止まった。

お花が、ゆっくり博之の方を見る。

「旦那様」

「はい」

「何を言っているんですか」

「いや、今、お花さんが言うたやん。公家の偉いさんの縁の者なら、百歩譲ってまだ許せるって」

「百歩譲って、です」

「でも、武家より危なくないんやろ。京都や奈良の情報も入るかもしれんし、

書物や作法や寺社筋にもつながるかもしれんし」

「だから怖いんです」

「え?」

女衆たちが一斉に頷いた。

「公家様の縁は、武家ほど戦に巻き込まれる危険は少ないかもしれません。ですが、その分、

格や作法や面子の話になります」

「面子か」

「旦那様、そういうの一番苦手でしょう」

「苦手やな」

「公家様の縁の方が来て、旦那様がいつもの調子で“よきご縁に伊勢の潮風を”とか言い出したら、

どうするんですか」

「それは女衆が止めるやろ」

「止める前提で動かないでください」

ヨイチも冷静に口を挟んだ。

「それに、公家筋と縁を結ぶとなれば、銭だけでは済みません。礼、文、贈答、屋敷、装束、作法、

付き合い、すべてが増えます」

「それはそれで金でなんとか」

「旦那様」

「はい」

「その発想が一番危険です」

奈良の僧たちは、最初は緊張していたが、だんだんこのやり取りに笑いをこらえられなくなってきた。

若い僧の一人が、遠慮がちに言った。

「しかし、旦那様ほどのお方であれば、何か方法を考えてしまわれるのでは……」

お花は、即座に頷いた。

「そこも怖いんです」

「そこも?」

「はい。旦那様の勢いです」

女衆の一人がため息をついた。

「たとえばですよ。どこぞの公家筋から“百万文積めば考えましょう”と言われたら、

普通は引くでしょう」

別の女衆が続ける。

「でも旦那様は、たぶん三百万文積んできます」

博之は、少し考えてから言った。

「うん。するな」

「するんですか」

奈良の僧たちが思わず声を上げた。

「いや、だって、百万文って言われたら、相手はたぶん断り文句やと思うやんか。

そこで三百万文積んだら、話が動く可能性あるやろ」

ヨイチが、冷たい声で言った。

「旦那様」

「はい」

「金銭感覚、どうなってるんですか」

「最近、自分でも分からん」

「分からないで済む額ではありません」

「でも、二千三百万文あるし」

「そういうところです」

お花が、奈良の僧たちへ向き直った。

「お分かりいただけましたか」

年配の僧は、深く頷いた。

「はい。よく分かりました」

「旦那様は、思いついたら本当にやります。しかも、銭で道が開くと分かったら、

普通の三倍積んででも開けに行きます」

「百五十万文の件で、十分理解いたしました」

「だから、縁談は慎重にしなければならないんです。旦那様の寂しさは分かります。

モテたいお気持ちも、まあ、分からなくはありません」

「そこはもっと分かってほしい」

「ですが、店を守る方が先です」

お花の言葉に、広間の者たちが静かに頷いた。

博之は、少しむくれた顔で飯をつついた。

「俺の人生はどこにあるんや」

ヨイチが淡々と答える。

「伊勢松坂屋の帳簿の中です」

「嫌すぎる」

お花が微笑んだ。

「でも、旦那様。縁がまったくないとは言っていません。ただ、武家や大商家の縁を軽く

入れるわけにはいかないというだけです」

「ほんまか」

「はい。旦那様をちゃんと見て、店を壊さず、女衆に怯まず、帳簿から逃げる旦那様を叱れる方なら、

考えます」

博之は真顔になった。

「そんな女おる?」

女衆たちは、少し考えてから黙った。

「黙るな」

広間に笑いが起きた。

年配の僧は、その様子を見ながら、静かに言った。

「これは、たしかに普通の縁談では収まりませんな」

「でしょう」

お花は、少し誇らしげに言った。

「旦那様は困った方ですが、伊勢松坂屋そのものでもあります。だから、誰か一人の都合で

簡単に動かしていい方ではないんです」

博之は、照れたように頭をかいた。

「なんか、褒められてるんか縛られてるんか分からんな」

「両方です」

「両方か」

奈良の若い僧は、申し訳なさそうに笑った。

「軽々しく縁談の話をして、申し訳ございませんでした」

「いえ、分かっていただければ」

お花は穏やかに答えた。

博之は、最後にぽつりと言った。

「でも、俺もいつかはご縁が欲しいんやけどな」

お花はにっこり笑った。

「よきご縁に、伊勢の潮風を」

「それ俺にかけて」

「旦那様が言うと逃げますので、私が代わりに祈っておきます」

また、広間に笑いが広がった。

奈良の僧たちは、ようやく理解した。

伊勢松坂屋において、旦那の縁談はただの男女の話ではない。

それは、店の中立、土地の安全、人の生活、千人の飯に関わる話なのだ。

そして、その中心にいる博之は、銭の桁が壊れた、寂しがりの飯屋だった。