作品タイトル不明
松坂郊外の和尚様と松坂城主との対談。旅に来た一行でも情報交換を行い充実していると話す。半月ほど滞在することに合意
晩になり、奈良の僧たちは伊勢松坂屋の本店へ戻ってきた。
郊外の和尚の寺で話を聞き、松阪の上司のところで商いと町の話を聞き、朝からずいぶん頭を
使った一日だった。伊賀越えの疲れも残っている。足はまだ重く、腰にも疲れが溜まっていた。
それでも、広間に通され、温かい飯が並ぶと、皆の顔が少し和らいだ。
「本当に、飯を食わせてもらってばかりで、ありがたいことでございます」
年配の僧が、箸を手にしながら言った。
博之は笑った。
「いやいや、遠いところ来てもろてますから。飯ぐらい食べてもらわんと」
「しかし、ただ食べているだけではございません。今日だけでも、すごい勉強になりました」
「そうですか」
「はい。松阪郊外のお和尚様の説法、それから松阪の上司様との話。戻ってから、我々の中でも
気づいたことを話し合っておりましたが……正直、この時点で、伊賀を越えて来た価値は
十分にありました」
若い僧たちも頷いた。
「寄進とは、ただ受け取るものではないのだと」
「寺が町とどう関わるか、考えさせられました」
「伊勢松坂屋がなぜ恨まれずに広がっているのか、少し見えました」
博之は、手を振った。
「いやいやいや、まだもうちょっといてください」
「まだ、ですか」
「どっちにしても、伊賀を越えた足がまだ悲鳴を上げてはるでしょう」
年配の僧は、少し苦笑した。
「正直、上げております」
「でしょう。半月ぐらいおって帰らはったらよろしい」
「半月も?」
「はい。飯は大丈夫です。寝るところもあります。奈良へ帰るのに無理して足を壊しても
仕方ないですし、せっかく来られたなら、松阪だけ見て帰るのはもったいない」
お花が横から補足した。
「近くの寺社の方々も、奈良の方々と交流したいとおっしゃっています。書物の話、
寺社の運営、薬草、暦、法要の作法など、聞きたいことが多いようです」
ヨイチも帳面を閉じながら言った。
「また、こちらからも見ていただきたい場所がございます。横丁、買い付け隊、
包み紙や札の作業、湯浴みどころ、縁会の準備などです」
博之は、味噌汁をすすりながら続けた。
「明日は、早い段階で九鬼水軍のところへ行きましょう」
「九鬼水軍、でございますか」
「はい。船で伊勢方面へ回ります。足は痛くならんはずです。九鬼様には話を通します。
そこで海の道や魚の流れを見てもらって、それから伊勢へ行きます」
「伊勢神宮にも?」
「もちろんです。伊勢神宮には皆さんに行っていただきたい。そこで一泊しましょう。
その後、伊勢の上司とも話していただきます」
若い僧たちは、また顔を見合わせた。
松阪だけでも十分驚いたのに、次は鳥羽、伊勢、九鬼水軍、伊勢神宮である。
博之は、さらに話を広げた。
「そこからは、二手に分かれてもええです。船で松阪へ戻る組と、鳥羽まで行って、鳥羽のお寺さんに
ちょっと厄介になる組。そこも九鬼水軍宛てに言いますから、船で行きなはれ」
「鳥羽まで……」
「案内役はもちろんつけます。そうしたら、松阪、伊勢、鳥羽を見たことになります。
うちがどうやって飯と魚と器と人を回しているか、だいぶ分かると思います」
年配の僧が、ゆっくり聞いた。
「津の方は?」
博之は少し顔をしかめた。
「津の方は、ちょっと私たち仲が悪いというか、ややこしいので、今回は無理に行かんでええです」
ヨイチが横から言った。
「北伊勢の方は、白子、関、亀山、四日市へ向けて拠点が固まりつつあります。
四日市は今立ち上げたばかりです」
「四日市まで……」
「はい。さらに近江の草津にも郊外拠点ができ始めています」
その言葉に、奈良の僧たちが一斉に反応した。
「草津?」
「近江まで広げておられるのですか」
博之は、軽く頷いた。
「そうそう。草津はまだでき始めたばかりです。さすがに皆さんをいきなり近江まで連れて
行くのは意味分からんでしょうから、今回は行かなくていいですけど」
若い僧の一人が、ぽつりと言った。
「もう、大名様のようでございますね」
広間に笑いが起きた。
博之は苦笑した。
「それ、よく言われます」
「実際、飯屋の範囲ではないように思えます」
「でも、私は飯屋です」
「飯屋が、松阪、伊勢、鳥羽、北伊勢、大和八木、草津まで……」
「そう言われると怖いですね」
博之は、少し照れたように頭をかいた。
「でも、元々は私、モテたかったからやってるんですよ」
奈良の僧たちは、きょとんとした。
「モテたかった?」
「はい。根なし草で、顔もこんなブサイクで、モテへん。女っ気もない。
寂しい。そういうのを飯にぶつけてたら、なんかここまででかくなったんです」
お花がすぐに言った。
「かなり雑な説明です」
「でも事実やん」
「一部は事実です」
博之は、真顔で続けた。
「ほんで、でかくなりすぎたらどうなったかというと、女の子たちが私に縁を
持ってこなくなったんです」
「縁を?」
「はい。ちょっとでも良い縁がありそうになると、うちの女衆が鉄壁の守りを敷くんです。
“旦那様が変な女に引っかかったら店が傾く”とか言うて」
奈良の僧たちは、思わず笑った。
「それは……ご心配されているのでは」
「心配しすぎなんですよ。私は縁会を作り、お好み焼きを焼き、“よきご縁に伊勢の潮風を”
という言葉まで考えたのに、私自身にはご縁が来ない」
お花が冷静に言った。
「旦那様がその文句を言うと、縁が逃げます」
「ほら、こうやってすぐ刺してくる」
年配の僧も、つい笑ってしまった。
「なるほど。飯と銭と道をここまで広げた方にも、そのような悩みがあるのですな」
「あります。めちゃくちゃあります」
「それは、少し安心しました」
「安心するところですか」
「はい。大きくなりすぎた飯屋の旦那様というより、人の悩みを持った方に見えます」
博之は、少し黙った。
それから、照れくさそうに茶を飲んだ。
「まあ、そういうことです。私は別に偉い人になりたいわけじゃないんです。
飯を食わせたい。人が集まる場所を作りたい。ついでに、できれば私もモテたい」
「最後が正直すぎます」
ヨイチが刺す。
「正直は大事やろ」
「時と場合によります」
広間はまた笑いに包まれた。
奈良の僧たちは、昼間とは違う表情になっていた。
松阪郊外の和尚からは、寄進と寺の在り方を学んだ。
松阪の上司からは、町と商いと銭の回し方を学んだ。
そして夜、伊勢松坂屋の本店では、これほど大きな仕組みを作った本人が、根なし草で、寂しがりで、
モテたいだけの飯屋だと笑っていた。
年配の僧は、静かに言った。
「半月、滞在させていただきます」
「ぜひ」
「松阪、伊勢、鳥羽を見せていただき、こちらからも奈良の話をできる限りいたしましょう」
「ありがとうございます」
「ただし、旦那様の縁については、私どもには荷が重そうです」
「そこを何とか」
「それは、女衆の皆様と相談なさってください」
お花がにっこり笑った。
「そこは、こちらで厳重に見ておりますので」
「厳重にせんでええねん」
また笑いが起きた。
奈良の僧たちの滞在は、ただの謝罪でも、ただの見学でもなくなっていた。
伊賀を越えた足の痛みが癒えるまでの半月。
彼らは、伊勢松坂屋という飯屋が作った道と町と縁を、じっくり見ることになる。