作品タイトル不明
松坂城主との会談。噂を一通り笑われたあと、なぜ伊勢松坂屋、博之の店は多少高くても売れ、周囲から恨まれないか。お礼札の存在等
郊外の和尚の寺で話を終えたあと、奈良の僧たちはその足で松阪の城主のもとへ向かった。
伊勢松坂屋の案内役がつき、数名の古参衆も同行する。奈良の僧たちは、朝からすでに
多くのものを見せられていた。
大きくはないが掃除の行き届いた寺。
寄進に頼るだけではなく、町とつながることで寺を保とうとする和尚。
そして、その背後にいる伊勢松坂屋という飯屋。
まだ整理しきれぬまま、松阪の城主の前へ通される。
城主は、すでに待っていた。
そして、奈良の僧たちを見るなり、にやにやと笑った。
「なるほどな。噂は聞いとるぞ」
年配の僧は、静かに頭を下げた。
「このたびは、お騒がせいたしております」
「五十万文も寄進を迫った馬鹿たれが、博之に百五十万文払われて、伊賀越えまでしてここへ来た、
という話やな」
若い僧たちは、顔を伏せた。
場の空気が一瞬重くなる。
だが、上司はそこで声を少し和らげた。
「まあ、こうやって来たこと自体は、義理を果たそうとしておるということや。
伊賀越えもしたんやろ。なら、そこは認める」
年配の僧が答える。
「はい。道中、伊勢松坂屋様に大変手厚くしていただきました。伊賀の道も、名張の拠点も、
大和八木の横丁も見てまいりました」
「それでええ。こちらとしても、奈良の坊様方に来てもらって、色々知識を落としてもらえたら
ありがたい。しかも、わしの銭やないしな」
上司がそう言うと、周囲に少し笑いが起きた。
奈良の僧たちも、ようやく少し肩の力を抜いた。
「郊外の和尚とは話したんやろ」
「はい。寄進について、寺が町とどう関わるかについて、たいへん考えさせられました」
「そうやろうな」
城主は頷いた。
「松阪あたりの田舎の寺は、奈良や京とは違う。そんなに信仰心が濃いわけでもない。
みんな食うので必死や。大きな寄進なんか、そうそうない」
上司は、少し皮肉っぽく笑った。
「だからこそ、こっちは工夫しとんねん。子どもに読み書きを教えたり、炊き出ししたり、
縁会を開いたり、町の人が来る理由を作ったりな。あぐらかいて寄進を待つだけでは、寺も町も細る」
奈良の若い僧の一人が、少しだけ顔を上げた。
「我らは、そのあたりをあまり知らずにおりました」
「知らんことは罪ではない。知っても考えんのが罪や」
城主は、そこで茶を飲み、話を変えた。
「それにしても、博之のところをどう見た」
「非常に大きな店でございます」
「飯は食うたか」
「はい」
「うまかったやろ」
「はい。たいへん」
「だが、安くはないぞ」
奈良の僧たちは、少し驚いた顔をした。
城主は笑った。
「伊勢松坂屋の飯は、正直、高い。そこらの飯屋より高い。信楽焼なんぞ使って、
器も小綺麗にして、女衆もよく動く。そりゃ値も張る」
若い僧の一人が、思わず口を開いた。
「それでも、恨まれないのでございますか」
「そこが面白いところや」
城主は、膝を叩いた。
「うまいからというのもある。飯がうまい。出汁が効いておる。味噌も使い方がうまい。
魚も鶏も野菜も、妙なことを考えて食わせる。だから客は納得する」
「うまいだけで、値が高くても通るのでしょうか」
若い僧が、さらに聞いた。
「もし高いのであれば、安くした方が多くの人が食べられて良いのでは」
城主の顔が急に厳しくなった。
「馬鹿たれ」
若い僧は、びくりとした。
「そんなことをしたら、他の店が潰れるやないか」
「他の店が、でございますか」
「そうや。伊勢松坂屋は、他の飯屋よりうまい。人も多い。仕入れも強い。銭もある。
その店が安く売ったら、周りの飯屋は太刀打ちできへん」
城主はゆっくり言った。
「だから、高くてええんや」
奈良の僧たちは、黙って聞いた。
「うまいけど高い。高いけど納得できる。その位置におるから、他の飯屋も生き残れる。
安くして客を全部持っていくのは、町を壊す」
年配の僧は、深く頷いた。
「なるほど……商いの加減でございますな」
「その通りや」
上司は少し笑い、続けた。
「さらに、あいつの憎いところはな、自分の店の従業員に、よその飯を食いに行けと
勧めておるところや」
「よその飯を?」
「そうや。しかも札まで配っとる」
「なぜ、そのようなことを。まかないがついていると聞きました。まかないで食べればよいのでは」
また若い僧が言うと、城主は再び言った。
「馬鹿たれ」
二度目だった。
「まかないだけで済ませたら、恨まれるやないか」
「恨まれる?」
「伊勢松坂屋は、もう千人ほど抱えておる」
奈良の僧たちは、そこで小さくざわついた。
「千人……」
「そうや。ざっくり千人や。その千人が、飯も寝床も全部伊勢松坂屋の中で済ませたらどうなる」
城主は指を折った。
「千人かける三食。日に三千食。月にすれば九万食。これを町から奪っておることになる」
場が静かになった。
「もちろん、まかないは必要や。働く者を食わせるのは当たり前や。だが、全部を内々で済ませたら、
町の飯屋は客を失う。町の者から見れば、“伊勢松坂屋だけが膨らみ、こちらには銭が
落ちない”となる」
年配の僧は、少し息を呑んだ。
「だから、外へ食べに行かせるのですか」
「そうや。札を渡して、よその飯屋で食え。仲の良い者と飯を食え。女衆と茶を飲め。町に銭を落とせ。
そうやって、伊勢松坂屋の従業員が町の客にもなるようにしておる」
城主は、感心したように笑った。
「あいつは、儲けるくせに、恨まれへんようにするのがうまい」
博之がその場にいたら、たぶん「褒めてます?」と言っただろう。
城主は続けた。
「銭をばらまくのもそうや。金を持ちすぎたら怖い、というのも本音やろう。だが、それだけやない。
寺に寄進する。道に飯場を作る。地侍に護衛料を払う。窯元から器を買う。港で魚を買う。
紙や墨を買う。町の飯屋にも従業員を行かせる」
「銭を、町へ戻しているのですね」
「そうや。伊勢松坂屋に銭が集まる。だが、そこからまた外へ出す。だから周りは完全には恨めん。
むしろ、“あそこがあると銭が回る”となる」
奈良の僧たちは、黙っていた。
彼らは寄進というものを、寺社が受け取る銭として見ていた。
しかしここでは、銭はただ受け取るものではなく、流すものだった。
寺へ。
飯屋へ。
地侍へ。
職人へ。
港へ。
街道へ。
そしてまた人へ。
上司は、年配の僧を見た。
「奈良の寺社にも、学ぶところはあると思うぞ」
「我らが、でございますか」
「当たり前や。奈良には歴史がある。書物もある。学もある。だが、寄進をもらうだけで
町から浮いてしまえば、いずれ恨まれる。寺が町に何を返すのか。銭をどう回すのか。
そこは考えた方がええ」
年配の僧は、深く頭を下げた。
「肝に銘じます」
「まあ、あいつも全部分かってやってるわけではないがな」
城主は笑った。
「飯を出したい。人を食わせたい。寂しいから人を集めたい。そうやってるうちに、
結果的に銭の回し方がうまくなった。だから厄介なんや」
若い僧の一人が、小さく言った。
「飯屋というより、町を動かしているように見えます」
「その通りや」
上司は頷いた。
「だから、そちらも軽く見るな。五十万文を求めたら、百五十万文で返してくる飯屋や。
しかも、その百五十万文で、奈良の坊主を伊勢へ呼び、松阪を見せ、伊勢を見せ、
九鬼の船まで見せる」
城主は、にやりと笑った。
「怖いやろ」
年配の僧は、正直に答えた。
「はい。怖いです」
「なら、それでええ。怖いと思いながら、よう見て帰れ。恐れるだけでなく、学べ」
奈良の僧たちは、再び頭を下げた。
松阪の城主は、最後に言った。
「博之のところは、ただ飯がうまいだけではない。高く売る。銭を払う。人を雇う。町に戻す。
恨みを薄める。そこまで含めて商いなんや」
年配の僧は、静かに答えた。
「奈良へ戻りましたら、この話を必ず伝えます」
「そうしろ。特に、五十万文を軽く書いた馬鹿たれどもにな」
若い僧たちは、また気まずそうにうつむいた。
上司は笑った。
「まあ、来たからには飯を食っていけ。伊勢松坂屋の飯ばかり食うてもあれや。うちでも少し出す」
そう言われて、奈良の僧たちは、ようやく少しだけ笑った。
嫌味はあった。
だが、それ以上に学びがあった。
松阪の城主は、伊勢松坂屋という存在を、外から見た言葉で説明してくれた。
それは、奈良の寺社にとって、百五十万文以上に重い説法だった。