作品タイトル不明
翌朝、松坂郊外のお寺で住職の説法を聞く。寄進がない田舎の寺の維持の大変さと伊勢松坂屋のかかわり方。縁を作る会の売り上げを寄進してもらうやり方
翌朝、奈良の僧たちは、伊勢松坂屋の本店で朝飯を食べた。
白い飯に、味噌汁、焼き魚、漬物。
派手ではないが、どれも温かく、体に染みる。昨日の伊賀越えの疲れがまだ残っている者たちは、
無言で箸を進めていた。
食後、年配の僧を中心に数名が、松阪郊外の和尚の寺へ向かうことになった。
寺は、大寺院というほど立派ではない。
塀も古く、門も大きくはない。
けれど、境内はきれいに掃かれ、石畳の脇には手入れされた草木があり、質素ながらも
清々しい空気があった。
奈良の僧の一人が、小さく言った。
「大きくはないが、よく整っておりますな」
案内役が頷く。
「和尚様のお人柄です」
奥へ通されると、和尚が静かに待っていた。
「遠路、ようお越しくださいました」
奈良の年配の僧も、丁寧に頭を下げる。
「このたびは、何かとお騒がせいたしました」
和尚は柔らかく笑った。
「では、奈良での一件について、少しお話しいたしましょうか」
そう言って、向かい合って座った。
博之も横に控えていたが、和尚はまず奈良の僧たちへ目を向けた。
「奈良や京都、あるいは都に近い大きな寺社では、寄進を受ける文化があるのだと思います。
武家、商人、町衆、旦那衆。いろいろな方から寄進が集まることもあるでしょう」
年配の僧は静かに頷いた。
「はい。もちろん寺社によって違いはありますが、寄進というものは身近でございます」
「しかし、田舎の寺はそうではありません」
和尚は穏やかに言った。
「ここらの寺では、大きな寄進など、ほぼないに等しい。時折、炊き出しをする。子どもたちに
少し読み書きを教え、その礼として米や野菜をいただく。あるいは法事の時に、少しばかりいただく。
その程度でございます」
奈良の若い僧たちは、少し驚いた顔をした。
「それで寺を維持されるのですか」
「維持というほど立派なものではありません。掃除をして、雨漏りを直し、
飢えた者が来ればできる範囲で飯を出す。それだけです。裕福とは程遠い」
和尚は、横にいる博之を見た。
「今でこそ、うちは飯が食えております。それは、こちらの松坂屋の旦那が、馬鹿みたいに
銭を撒いておられるからです」
「和尚さん、馬鹿みたいにってひどくないですか」
博之がすぐに口を挟む。
和尚は笑った。
「事実でしょう」
「まあ、否定はできませんけど」
場が少し和らいだ。
和尚は続けた。
「この旦那も、最初から大商人だったわけではありません。ボロ小屋から始めました。
本当に、豚汁を出すところからです」
奈良の僧たちは、真剣な顔で聞いている。
「食い口のない戦災孤児、身寄りのない子ども、行き場のない者たちを、手伝わせる代わりに
飯を食わせ、寝床を用意する。そういうところから始まりました」
「子どもたちを、ですか」
「はい。ただ、その子たちは読み書きも算盤もできません。そこで、食い詰めた侍を呼び、
読み書き算盤を少し教えてもらった。その侍たちもまた、居場所を得た」
和尚は、少し懐かしそうに目を細めた。
「その時、私どもとの交流も、本当に小さなものでした。子どもに字を教えるため、
少し寺の者が手伝う。必要な額だけいただく。余分なことはしない。そういう細い縁でございました」
博之は黙って聞いていた。
「それが、店が少しずつうまくいき、横丁ができ、買い付け隊が動き、伊勢へ出るようになった。
そうして、私どもとの関わりも広がっていったのです」
奈良の年配の僧が、静かに尋ねた。
「今は、どのような関わりを?」
「世間話を兼ねた情報交換ですな」
和尚は微笑んだ。
「旦那は、飯のことになると次々に妙なことを思いつく。ですが同時に、心配も多い方です」
「心配、ですか」
「伊勢松坂屋では、住むところとまかないが用意されています。給金も、かなりよい。そうなると、
働く者たちは銭を貯め込むことができる」
「それは良いことでは?」
「良いことでもあります。しかし旦那は、それを恐れている」
和尚は、博之の方を見た。
「うちの者たちが、町に溶け込まず、町に銭を落とさず、伊勢松坂屋の中だけで固まる集団に
なってしまうのではないか。そう心配しておられるのです」
奈良の僧たちは、少し意外そうな顔をした。
博之は頭をかいた。
「だって、怖いやないですか。飯も寝床も全部うちで済む。銭だけ貯める。外から見たら、
変な集団ですよ」
和尚は頷いた。
「ですから、私どもも一緒に考えております。町の人と交流する方法。寺社を使った縁の場。
お見合いの手助け。子どもや年寄りが来られる催し。そういうものです」
奈良の若い僧が、少し身を乗り出した。
「お見合いの手助けを、寺で?」
「はい。最近では、お好み焼きという料理を使っております」
「お好み焼き?」
博之が少し得意げに説明する。
「小麦と卵を水で溶いて、丸く焼きます。具を二人で選んで、一緒に食べる。最後に青苔を振って、
“よきご縁に、伊勢の潮風を”と女衆が言うんです」
「旦那様は言ってはならぬと聞いております」
和尚がすぐに刺す。
「そこまで広がってるんですか」
「広がっております」
奈良の僧たちの間にも笑いが起きた。
和尚は話を戻した。
「以前は、催しのたびに旦那から寄進をいただいておりました。ですが、それでは
寺や神社のためにならない。もらうだけでは、こちらも腐る」
奈良の僧たちの表情が少し変わった。
「そこで今は、参加者から少し会費をいただき、寺が場を作る。伊勢松坂屋が料理を出す。
人が集まり、会話が生まれ、そこで出た売り上げを寄進としていただく。そういう形に
変えつつあります」
「ただの寄進ではない、と」
「はい。寺社が、交流の場を作る。町の上下の人々が出会う。若い男女が話す。子どもが飯を食う。
年寄りが見守る。その結果として銭が入り、それを寺の維持や炊き出しに使う」
奈良の年配の僧は、深く息を吐いた。
「……なるほど」
若い僧の一人が、思わず呟いた。
「我らは、寄進とは、相手が頭を下げて金を出すものだと思っておりました」
和尚は静かに首を振った。
「それも一つの形でしょう。けれど、こちらのような小さな寺では、それだけでは続きません。
人が来る理由を作り、寺が町に必要とされる形を作らねばなりません」
「小さな寺には、小さな寺の工夫があるのですね」
「はい。大寺のような権威はありません。ならば、飯と縁と掃除と、少しの学びで人を集めるしかない」
博之が横でぼそっと言った。
「和尚さん、めちゃくちゃええこと言うやん」
「旦那様は少し黙っていてください」
「はい」
奈良の僧たちは笑ったが、その笑いには感心も混じっていた。
年配の僧は、改めて和尚に頭を下げた。
「今回、我らは寄進というものを軽く見ていたかもしれません。五十万文という額を、
相手を試すように書いた。そのことは恥じねばなりません」
和尚は、穏やかに答えた。
「恥じるだけでは足りません。せっかく来られたのですから、見て、聞いて、持ち帰ってください。
奈良には奈良の歴史と学びがある。こちらには、こちらの飢えと工夫があります」
「飢えと工夫」
「はい。飯が足りなかった者が、飯を作る。銭がなかった者が、銭を回す。孤立しかけた者が、
縁の場を作る。そこに、伊勢松坂屋の面白さがあります」
奈良の僧たちは、しばらく言葉を失っていた。
立派ではない寺。
けれど、掃除が行き届き、人の出入りがあり、町の相談が持ち込まれる寺。
そこには、奈良の大寺とは別の生き方があった。
年配の僧は、静かに言った。
「我らも、学ばねばなりませんな」
和尚は微笑んだ。
「こちらも、奈良から学びたいのです。だからこそ、来ていただいた意味があります」
その言葉で、場の空気は少し変わった。
説法は、嫌味だけでは終わらなかった。
奈良の僧たちは、松阪郊外の小さな寺で、寄進とは何か、寺が町にどう関わるかを、
初めて別の角度から見ることになった。