作品タイトル不明
お坊様がご飯を食べた後、今後の日程について軽く案内する。数組に分かれて色々見てください。明日朝一は博之をはじめから見ている郊外の和尚様の説法
飯を食べ終えた奈良の僧たちは、ようやく人心地がついたようだった。
湯浴みで泥と汗を落とし、清潔な袴に着替え、温かい飯と汁を口にする。伊賀越えで
張りつめていた顔が、少しずつ緩んでいく。
博之は、それを見届けてから、年配の僧の前に座った。
「今日は疲れてらっしゃるでしょうから、早くお眠りくださいませ」
年配の僧は、静かに頭を下げた。
「お気遣い、痛み入ります」
「いえいえ。伊賀越えはきついですから。私なんか絶対嫌です」
横にいたヨイチがすぐに言う。
「旦那様はそもそも歩かれませんから」
「そこは言わんでええ」
少し笑いが起きた。
博之は茶をすすりながら、改めて話し始めた。
「で、ここからなんですけども、一応、今日はこのままお休みいただいて、
明日からはいろんなところに顔を出していただけたらありがたいと思っております」
「いろんなところ、でございますか」
「はい。皆様三十人ほどおられますので、何組かに分かれていただきます。こちらで
案内役をつけますので、松阪の横丁、郊外の飯場、買い付け隊の荷置き場、湯浴みどころ、
紙や包みの作業場、そのあたりを見ていただきたい」
年配の僧は、ゆっくり頷いた。
「なるほど」
「ただ、あなた様が一番偉いお坊様だと思いますので、無理にあちこち引っ張り回す
つもりはありません。ゆっくり見ていただければ結構です。伊勢の方も見ていただいて、
奈良へ帰られる時に、見たことを話していただければ、それで十分です」
「伊勢へも参るのですな」
「はい。伊勢神宮には、皆さんに行っていただきたいです。そこは日程を合わせます。それ以外は、
ほんまに適当に分かれていただいて大丈夫です」
「伊勢までは、また歩きで?」
「いえ、そこは船も使います。九鬼水軍の方にも話を通しておりますので」
若い僧たちが、少しざわついた。
博之は笑った。
「足は痛くならんと思います。ただ、九鬼水軍とも少しお話ししていただきたいです。
海の道、魚の道、うちが鳥羽や伊勢でやっていることも、そこを見てもらうと分かりやすいので」
「なるほど。海の道ですか」
「はい。基本的に、皆様がうちの袴を着ていただいている限り、松阪、伊勢、鳥羽、伊賀、
名張、大和八木の拠点では大丈夫です。私が金を撒いたり、飯場を作ったり、
いろいろ企画している関係で、話は通じます」
博之は、少しだけ表情を改めた。
「それと、今回の文のやり取りについてですが」
奈良の僧たちの顔が、また少し固くなった。
「おそらく、あなた様があの文を送ったのではないことは分かっております」
年配の僧は、静かに目を伏せた。
「……お見通しでございましたか」
「しっかりしてらっしゃる方だと思いました。あの文は、どこぞの若いお坊さんが、
ちょっとからかい半分で出されたんでしょう」
若い僧たちの何人かが、気まずそうにうつむいた。
博之は、責めるようには言わなかった。
「笑い話で終わる可能性もありました。うちが無視してもよかったし、値切ってもよかった。
でも、こちらはあえて乗った。百五十万文を用意する、と」
「はい」
「その上で、皆様が人義を通すために伊賀を越えて来てくださったことに、まずは感謝しております」
年配の僧は、深く頭を下げた。
「こちらこそ、失礼な文を送ったうえに、事が大事になりました。これは必ず行かねばならぬと思い、
参りました」
「伊賀の道は大変だったでしょう」
「しんどい道ではございました。しかし、道中は想像以上に手厚くしていただきました。
襲われる心配もほとんどなく、ここまで来られたのは、伊勢松坂屋様のおかげです」
「それはよかったです」
「まず、お会いできてよかった」
年配の僧の言葉には、素直な重みがあった。
博之は、少し照れたように茶碗を置いた。
「こちらはこちらで、来ていただく意味は十分にあると思っております」
「と、申しますと」
「奈良のお坊様方は、そもそも奈良で暮らす人の数も多いし、仏閣としての歴史もあります。
寺社の運営、書物、薬草、暦、大和の土地の情報、名産品。そういう知見は、
こちらが喉から手が出るほど欲しいものです」
「飯屋であるにもかかわらず、ですか」
「飯屋やからこそです」
博之は即答した。
「何が流行っているのか。旅人は何を求めるのか。寺社の門前で何を売れば受け入れられるのか。
大和に店を出すなら、どんな礼儀が必要なのか。どんなものを食べてはいけないのか。
どういう人と筋を通すべきなのか。全部知りたいです」
年配の僧は頷いた。
「なるほど」
「それに、こちらのお和尚さんも、外部の情報を何よりのご馳走にされます」
博之は隣に座る郊外の和尚を見た。
「この方は、私がまだボロ小屋で店を始めた頃から見てくださっている和尚さんです。
私の人となりについても、たぶん私よりまともに説明してくださると思います」
和尚は穏やかに笑った。
「旦那様は、ご自身を説明されると、だいたい飯と金と寂しさの話になりますからな」
「やめてください」
「事実でしょう」
「事実ですけど」
奈良の僧たちの間にも、少し笑いが広がった。
博之は咳払いをして続けた。
「ですので、明日はまず朝に、こちらのお和尚さんのお寺へ行っていただきます」
「明朝、ですな」
「はい。先立っての文のやり取りについて、説法のようなものは受けていただきたいと思っております」
若い僧たちの背筋が伸びた。
博之は手を軽く振る。
「これはもう、通過儀礼です。百五十万文の話になってしまった以上、何も言わずに
済ませるわけにもいきませんので」
和尚が静かに言った。
「責めるためではありません。銭を受け取るとは何か、寄進とは何か、
寺社が飯場を受け入れるとは何か。そのあたりを、互いに考える場にしたいと思っております」
年配の僧は深く頷いた。
「それは、こちらとしても受けねばなりません」
「その後、松阪の城主にも挨拶に行っていただきます」
「この地域でうちを見てくださっているお殿様です。うちがボロ小屋から始まって、
今ここまで広がったことも、だいたい知っておられます」
「それは、ご挨拶せねばなりませんな」
「はい。そこでは一晩泊まっていただく形にします。無理に話を詰めるのではなく、
まず松坂の空気を見てもらえればと思っています」
お花が横から補足する。
「他の方々は、いくつかに分かれて、横丁や買い付け隊、包み紙の作業、湯浴みどころを
見ていただきます。見たことは、それぞれ書き留めていただければありがたいです」
「書き留める、ですか」
「はい。奈良に帰られた時に、何を見たか、何を感じたかを話していただきたいので」
博之が頷く。
「うちは別に、奈良のお坊様方を取って食うつもりはありません。ただ、見てもらいたいんです。
根なし草の飯屋が、どうやってここまで来たのか。飯で人が集まり、銭が回り、
道ができるというのが、どういうことなのか」
年配の僧は、静かに博之を見た。
「こちらも、奈良の寺社として、見るべきものを見たいと思います」
「ありがとうございます」
「しかし、ひとつだけ」
「はい」
「百五十万文の件、こちらが軽く扱ったことは、改めてお詫びいたします」
博之は、少し困ったように笑った。
「それはもう、飯を食べてからでいいです」
「今も食べた後でございますが」
「明日も食べますから」
和尚が笑った。
「旦那様にとって、物事はたいてい飯の後です」
「その方が揉めにくいでしょう」
「確かに」
場がまた和らいだ。
博之は立ち上がった。
「では、今日は本当に休んでください。明日は和尚さんのところから始めます。説法を聞いて、
松阪の城主に挨拶して、そこから伊勢、九鬼水軍、内宮、縁会、いろいろ見ていただきます」
「長い旅になりますな」
「はい。でも、来てよかったと思ってもらえるようにはします」
年配の僧は、深く頭を下げた。
「では、本日はお言葉に甘え、休ませていただきます」
「どうぞどうぞ。足が痛む方は、遠慮なく言ってください。薬もありますし、湯も使えます」
奈良の僧たちは、それぞれ案内され、寝所へ向かった。
廊下を歩きながら、若い僧の一人が小さく呟いた。
「明日は説法か……」
別の僧が答える。
「自業自得でございます」
年配の僧は、その会話を聞きながら、少しだけ苦笑した。
伊賀を越え、松阪へ着いた。
だが、本当に越えなければならないのは、これからなのかもしれない。
銭を求めた寺社と、飯で道を作る伊勢松坂屋。
その間に、明日から本当の交流が始まる。