作品タイトル不明
奈良のお坊様が松坂に向かい出立。道中の伊勢松坂屋の拠点を見ながら奈良と伊勢がつながる意味をつなぐ意味を察し始める
奈良の寺社に、伊勢松坂屋から第一便の銭が届いた。
大和八木で上がった今月分の利益、三十万文。
それが、寄進の第一便として、帳面とともに届けられた。
若い僧たちは、最初こそ半信半疑だった。
五十万文という無茶な文を出したら、百五十万文で返ってきた。しかも、文化交流だ、
僧を送れ、伊勢を見に来い、とまで書いてある。
まさか本気ではあるまい。
伊勢松坂屋も、こちらを試しているだけではないか。
そう思っていた者もいた。
だが、銭が届いた。
文だけではない。
噂だけではない。
帳面つきで、確かに銭が届いた。
年配の僧は、しばらく黙ってその帳面を見つめていたが、やがて静かに言った。
「……動かねばならぬな」
その一言で、寺内の空気が変わった。
もう、冗談では済まない。
こちらから仕掛けた五十万文という無礼に近い文に対し、相手は三倍の額と、
交流という筋をもって返してきた。
受け取った以上、動かねばならない。
「伊勢へ向かう」
年配の僧が告げると、若い僧たちの顔がこわばった。
「伊賀を越えるのでございますか」
「そうだ」
「危のうございます」
「承知しておる」
「道中、山もあり、地侍もおります。寺の者だけで行くには……」
「だからこそ、支度をする」
年配の僧は、寺内から足腰の強い者、旅に慣れた者、書き物のできる者、医薬の心得のある者、
若い衆を合わせて二十人ほど集めた。
皆、本音では行きたくなかった。
奈良の寺にいれば、飯はある。寝るところもある。寺社の中での役目もある。
わざわざ伊賀を越えて、見知らぬ伊勢の飯屋まで行くなど、普通なら考えない。
だが、今回は違った。
自分たちが文を出した。
相手が銭を送ってきた。
しかも、それはただの銭ではなく、伊勢と大和の寺社交流の種だと書いてある。
逃げるわけにはいかない。
支度が始まった。
草鞋をそろえ、衣を整え、荷を小さくまとめ、途中で使う銭を分ける。書き役は筆と紙を包み、
薬草に詳しい者は腹薬や傷薬を持つ。若い僧たちは、不安げに互いの荷を見合った。
その時だった。
伊勢松坂屋から、さらに荷が届いた。
箱を開けると、中には袴が入っていた。
しかも、五十着。
添えられた文には、こう書かれていた。
伊賀の道中は危険であること。
しかし、伊勢松坂屋は伊賀、名張、大和八木の道中にいくつも拠点を作っていること。
今回、九十万文を奈良へ送るにあたり、伊賀の道へ三十万文を撒いたこと。
寺社への寄進、地侍への護衛料、炊き出し、荷置き場、道中の揉め事への備えとして
銭を落としているため、おそらく道中は以前より安全であること。
ただし、念のため、伊勢松坂屋の袴を着てほしい。
それがあれば、道中の拠点や寺社、地侍にも話が通りやすい。
年配の僧は、文を読み終えると、長く息を吐いた。
「……ここまでしてくれるのか」
若い僧たちも、袴を手に取って驚いていた
「五十着も」
「我ら二十人には多すぎますな」
「いや、予備も含めてであろう」
「それだけではない」
年配の僧は、文の続きを読んだ。
「道中の飯と寝床についても、伊勢松坂屋の拠点でできる限り用意する、とある」
部屋の空気が、少し変わった。
伊賀越えの恐ろしさは消えない。
だが、少なくとも、ただ放り出されるわけではない。
袴がある。
拠点がある。
飯がある。
寝床がある。
護衛に銭も撒かれている。
それを聞いて、最初は尻込みしていた者の中から、少しずつ声が上がった。
「それなら、私も参りましょう」
「書き留める者が多い方がよろしいでしょう」
「薬草の話を聞くなら、私も行った方がよいかと」
「伊勢の寺社を見られるなら、学びになります」
結局、最初の二十人に加え、さらに十人ほどが加わった。
合わせて三十人。
奈良の寺社から見れば、なかなかの人数である。
年配の僧は、その顔ぶれを見て頷いた。
「よい。これは物見遊山ではない。こちらが無礼に近い文を出し、相手がそれ以上の筋を返してきた。
その意味を見に行く旅である」
こうして、一行は伊勢松坂屋の袴を身につけ、大和八木へ向かった。
最初の目的地は、大和八木の拠点だった。
奈良から大和八木までは、まだ彼らの感覚でも分かる道だった。
だが、そこに近づくにつれ、伊勢松坂屋の影が見え始めた。
郊外に小さな飯場がある。
荷置き場がある。
湯を沸かす小屋がある。
子どもたちが水を運び、女衆が飯を炊き、男衆が荷を降ろしている。
さらに城下へ入ると、まだ小さいながらも横丁ができていた。
肉あんを焼く匂い。
味噌だれの香り。
麦茶を配る女衆。
旅人らしき者が、腰を下ろして飯を食っている。
若い僧の一人が、思わず呟いた。
「ここまで手広くやっているのか」
別の僧も頷いた。
「細々と、などという話ではないな」
大和八木の拠点の者たちは、奈良から来た僧たちを見ると、すぐに頭を下げた。
「お待ちしておりました。伊勢松坂屋でございます。道中、お疲れでしょう。まずは飯をどうぞ」
年配の僧は、遠慮して言った。
「我らは握り飯でもいただければ十分です」
「いえ、旦那様より、きちんと食べていただくようにと申しつけられております」
そう言って出されたのは、混ぜ飯だった。
鯛味噌ではない。大和八木で手に入りやすい野菜と味噌を合わせた、香りの良い混ぜ飯。
そこに、刻んだたくあんと、少しの青菜が添えられている。汁は薄い味噌汁だが、
出汁がしっかりしていた。
若い僧が一口食べて、目を丸くした。
「……うまい」
別の僧も、たくあんを噛んで言った。
「この漬け方、奈良のものと違いますな」
「塩が強すぎぬ。飯に合う」
「味噌汁も、薄いのに香りがある」
年配の僧も静かに箸を進めた。
たかが飯。
そう思っていた。
だが、違った。
ただ腹を満たす飯ではない。
旅の疲れを取る飯。
これから人と話すための飯。
相手を迎えるための飯。
そこに、伊勢松坂屋という店の考え方が見えた。
「握り飯だけでよかったのだがな」
年配の僧が苦笑すると、拠点の女衆がにこりと笑った。
「旦那様が、奈良の方々にはまず飯を食わせろ、と」
「そうか」
「それから、見たいものを見て、聞きたいことを聞いてください、とも」
僧たちは、顔を見合わせた。
ここまで用意されているとは思っていなかった。
袴。
道中の護衛。
拠点。
寝床。
飯。
そして、話す場。
五十万文と書いて相手を試したつもりが、今では自分たちの方が試されている。
食後、一行は大和八木の郊外拠点と城下横丁を案内された。
小さな横丁では、肉あんが焼かれている。奥には荷が積まれ、伊勢から来た小物や
松阪木綿の見本も置かれていた。信楽焼の小皿も少しだけ並んでいる。
若い僧が尋ねた。
「これは、すべて伊勢から?」
「伊勢、松阪、伊賀、名張、信楽、いろいろです。ここから奈良へも、
いずれ流したいと旦那様は申しております」
「奈良の品は、伊勢へ?」
「もちろんでございます。奈良の紙、筆、香、薬、書物。そうしたものがあれば、
ぜひ教えていただきたいと」
年配の僧は、その言葉を聞いて、ようやく少し腑に落ちた。
百五十万文は、ただの見栄ではない。
大和八木は、すでに奈良と伊勢を結ぶ足場になり始めている。
ここから伊賀を越え、名張、伊賀、松阪へ向かう。
さらに伊勢へ行き、寺社と会い、内宮の縁会を見せられる。
それは、奈良の寺社にとっても、決して無駄な旅ではない。
ただし、気楽な旅でもない。
これから伊賀を越えるのだ。
夜、僧たちは大和八木の拠点で寝床を与えられた。
飯は温かく、湯もあった。
だが、若い僧たちはなかなか寝つけなかった。
「明日からが本番ですな」
「伊賀越えか」
「袴があるとはいえ、怖いものは怖い」
「だが、ここまでされて戻るわけにはいかぬ」
年配の僧は、灯りのそばで帳面を開き、今日見たことを書き留めていた。
伊勢松坂屋、大和八木郊外および城下に拠点あり。
飯、寝床、湯、荷置き場を整える。
混ぜ飯、味噌汁、漬物、いずれも旅人向けに工夫あり。
袴を送るなど、道中の安全にも配慮あり。
単なる飯屋にあらず。道を作る者なり。
筆を置き、年配の僧は小さく呟いた。
「我らは、思った以上のものを相手にしている」
外では、伊勢松坂屋の者たちが、明日の荷と道を確認していた。
奈良の僧たちは、まだ伊勢へ着いてもいない。
だが、大和八木に着いただけで、すでに伊勢松坂屋の大きさを少しずつ思い知らされていた。