作品タイトル不明
松坂郊外のお寺でいつもの住職と婚活の催しでのお好み焼き会を眺めながら愚痴や不安をこぼす博之
松阪郊外のお寺では、今日も婚活の場が開かれていた。
境内の片隅に鉄板が並び、女衆が手際よく生地を流していく。丸い型の中に、小麦と卵を水で溶いた
生地を薄く広げ、大葉、刻んだごぼう、鶏、たくあん、生姜を好みに応じて少しずつ入れる。
男女が向かい合って、少し照れながら具を選ぶ。
「大葉はお好きですか」
「あ、はい。少しなら」
「ごぼうも入れましょうか」
「歯ごたえがあって良さそうですね」
ぎこちない会話が、鉄板の上でじゅうっと音を立てながら、少しずつほどけていく
焼き上がったお好み焼きに、女衆が味噌醤油を薄く塗る。香ばしい匂いが立ったところで、
竹筒を手に取った。
中には、干した青苔を細かくした磯粉が入っている。
女衆は軽く一礼し、柔らかい声で言った。
「よきご縁に、伊勢の潮風を」
さらさらさら。
茶色い焼き目の上に、細かな青が散った。
見ていた者たちから、小さな歓声が上がる。
「おお、綺麗やな」
「急に上等に見えますね」
「香りもええ」
それを少し離れたところで眺めながら、博之は和尚に向かって得意げに言った。
「あれ、いいでしょう」
和尚はにこにこしながら頷いた。
「ええですな。味噌醤油の香りに、磯の香りが乗る。見た目も華やかです」
「私、ちゃんと考えたんですよ」
「ほう」
「お伊勢さんでやる流れになりそうなので、最後の演出が欲しいなと思いまして。円を焼いて、
ご縁を願う。そこに伊勢の潮風をかける。これ、ええやんと思ったんです
「なるほど。筋が通っておりますな」
和尚は目を細めた。
「ただ、女衆がやると、品がありますな」
博之は、すぐに不満げな顔になった。
「でも和尚さん、私が考えたんですよ」
「はい」
「私が考えたんやから、こういうイベントがあったら、私がやりたいって言ったんです」
「それは反対されますな」
「即答やめてください」
和尚は笑った。
「旦那様が“よきご縁に、伊勢の潮風を”とにやにやしながら言われたら、縁が逃げます」
「ひどくないですか」
「ひどくはありません。自然な判断です」
「みんなにも同じこと言われました。私の縁もを作ろうとしたら店が傾くからあかん、とか」
「それも、なかなか的確ですな」
「和尚さんまで」
博之は肩を落としたが、境内の方ではまた笑い声が起きていた。
若い男女が、焼けたお好み焼きを半分に分けている。最初は固かった表情が、今は少し柔らかい。
和尚は、その様子を見ながら言った。
「しかし、ありがたいことです」
「何がですか」
「旦那様ほどの大商人になっても、こうして時折うちへ来て、話してくださることです」
「大商人って言われると、まだ変な感じしますけどね」
「実際、大商人でしょう」
「私はもともと、大商人になりたくて始めたわけじゃないです」
博之は、少し苦笑した。
「最初は、飯が食えたらええな、寝るところがあったらええな、ぐらいでした。
根なし草から始まって、気づいたら人が増えて、店が増えて」
「今では伊勢、鳥羽、津、北伊勢、伊賀、名張、信楽まで話が広がっておりますな」
「そうなんです。松阪だけにおったら危ないと思って伊勢に出たら、
伊勢神宮の端っこで店をやることになって、そこから金が爆発的に増えて」
博之は、指を折りながら続けた。
「その評判で鳥羽につながり、津につながり、今は亀山の方まで来てる。買い付けは信楽から
草津へ向かおうとしてますし、大和八木から大和高田、堺の道も見たい。四日市もあります」
「聞いているだけで、目が回りますな」
「やってる本人も回ってます」
和尚は笑った。
「それでも、旦那様は淡々と進めておられるように見えます」
「淡々というか、いつどうなるか分からないから、止まれないだけです」
博之は境内を見た。
お好み焼きの列。
麦茶を飲む者。
蜂蜜饅頭をつまむ子ども。
少し照れながら話す男女。
それを見守る和尚と女衆。
「でも、最近ちょっと怖いんですよ」
「何がですか」
「満たされていくと、アイデアが減りそうで」
和尚は、黙って博之を見た。
「私の良さって、飯の種を思いつくことやと思うんです。ふくふく焼きも、お好み焼きも、
肉あんも、柚子はちみつ湯も、なんか追い詰められたり、帳簿から逃げたり、
寂しかったり、そういう時に降ってくるんですよ」
「ふむ」
「でも、これだけ飯もあって、寝るところもあって、銭も増えて、人も増えて、
そこそこ満たされていったら、逆に何も出てこなくなるんちゃうかって」
「なるほど」
「怖いんです。何者でもなかったからこそ出てきたものが、何者かになったら消えるんちゃうかって」
和尚は、ゆっくり茶を飲んだ。
そして、穏やかに言った。
「では、一緒に考えましょうか」
博之は、少し驚いた顔をした。
「一緒に?」
「はい。旦那様一人で降らせようとするから、怖くなるのです。こういう場に来れば、
若い男女が何に困っているか、子どもが何を喜ぶか、年寄りが何を食べやすいか、
寺に何が足りないか、見えるでしょう」
「ああ」
「満たされると、飢えから出る知恵は減るかもしれません。けれど、人を見ることで
出る知恵は増えます」
博之は黙った。
和尚は続けた。
「旦那様は、もう一人で根なし草をしている人ではありません。ならば、これからの飯は、
一人の寂しさからではなく、人の集まりから生まれてもよろしいのでは」
「人の集まりから生まれる飯」
「そうです。縁会の飯。旅人の飯。子どもの飯。年寄りの飯。働く女衆の飯。買い付け隊の飯。
寺で食べる飯。それぞれ、まだまだ種はあります」
博之は、境内で女衆が青苔を振る姿を見た。
「よきご縁に、伊勢の潮風を」
また笑いが起きる。
博之は、少しだけ肩の力を抜いた。
「そっか。もう俺一人で考えんでもええんか」
「はい。旦那様が最初の火をつけたのですから、今度は皆で火を守ればよろしい」
「和尚さん、ええこと言いますね」
「たまには言います」
「じゃあ、また相談しに来ます」
「いつでもどうぞ。ただし、帳簿から逃げるためだけに来るのはほどほどに」
「そこは見逃してください」
「それはヨイチさんに怒られてください」
博之は苦笑した。
境内では、また新しい一組が具を選んでいる。
お好み焼きは、ただの飯ではなくなっていた。
会話のきっかけであり、縁を願う形であり、伊勢へつながる実験でもある。
博之は、小さく呟いた。
「まだ、考えられそうやな」
和尚は頷いた。
「はい。満たされた人には、満たされた人の飯があります」
その言葉を聞いて、博之は少し笑った。
青苔が、またさらさらと円の上に降る。
伊勢の潮風をまとったご縁の飯は、松阪郊外の寺で、静かに次の形を作り始めていた。