作品タイトル不明
この一件を見てまだ長野の殿様が切れ散らかすならウチに来たらどうですか?信楽に行った子らは3倍で雇いますよ
博之は、長野の若武者たちの話を一通り聞き終えると、しばらく黙っていた。
伊賀で宿を断られたこと。
寺に泊めてもらうにも五百文を払ったこと。
信楽でまともに相手にされなかったこと。
伊勢松坂屋の袴があるかないかで、扱いがまるで違ったこと。
どれも、博之には想像できていた。
けれど、若武者たちが泥だらけの足で戻り、自分たちの口でそれを語ったことには、意味があった。
「まあ、ようやったと思います」
博之がそう言うと、若武者たちは少しだけ顔を上げた。
「今回、命張ったわけやんか。伊賀を越えて、信楽まで行って、帰ってきた。しかも、
うちの袴なしでどう扱われるかも見た」
「はい」
「それは、かなり大きい経験です」
調整役も、静かに頭を下げた。
「この者たちは、本当によく見てきたと思います」
「うん。だから、ここからが問題やな」
博之は、少しだけ声を低くした。
「この一件をありのまま話して、それでも長野様の殿様が、また馬鹿みたいに怒るんやったら」
若武者たちが息をのんだ。
「うちに来たらどうですか」
座敷が一瞬、静まり返った。
ヨイチが筆を止める。お花も目を丸くする。調整役は、言葉を失った。
若武者の一人が、かすれた声で言う。
「……うちに、とは」
「伊勢松坂屋にです」
博之は、あっさり言った。
「今日の話で、うちは思ってます。長野さんも、さすがに状況が分かったやろうと。
特に伊賀まで行った若者さんたちは、値段とは何か、道とは何か、顔とは何かを考える
いい機会になったと思う」
「はい」
「だから普通なら、殿様はこの話を聞くべきです。怒る前に、ちゃんと顛末を聞くべきです。
なんで一万文で大したものが買えなかったのか。なんで宿に断られたのか。
なんで伊勢松坂屋だけが奥へ通されたのか。そこを聞くべきです」
博之は、若武者たちを見た。
「でも、それを聞かずに、“わしの名が軽く扱われた”とだけ怒るなら、もう先はないです」
若武者たちは黙った。
博之は続けた。
「少なくとも、うちが付き合う相手としては、振り回されすぎる。あなた方もそうや。
命がけで見てきたものを、上が怒りで踏みつぶすなら、それはもう、あなた方が可哀想や」
調整役が、慌てて口を開いた。
「しかし、それを殿に申し立てれば……」
「だから、叩き切られそうになったら、うちに来いと言うてます」
博之は、さらりと言った。
「旦那様」
ヨイチが少し強い声を出した。
「分かってる。危ないこと言ってるのは分かってる」
博之は頷いた。
「でもな、失敗した若い衆を切るような相手なら、こっちも付き合い方を考えなあかん」
若武者の一人が、戸惑いながら言った。
「しかし、我らは長野家の者です」
「今はな」
博之は、穏やかに言った。
「別に引き抜きたいわけちゃう。買い叩きたいわけでもない。ただ、今回の見聞を正直に話して、
それで殿様があなた方を罰するなら、うちに来てください。飯と寝るところは用意します。
給金は、今の三倍出します」
若武者たちは、完全に度肝を抜かれた顔をした。
「三倍……」
「はい。命がけで道を見てきた人材です。伊勢も見て、信楽も見て、値段の意味を知った。
うちとしては、かなり欲しい人材です」
博之は、そこで少しだけ表情を引き締めた。
「ただし、裏切りは許しません」
座敷の空気が変わった。
「失敗は許します。うちは、失敗はかなり許します。飯を焦がした、帳面を間違えた、
道で判断を誤った。そういうのは、次に直せばええ。けど、仲間を売る、荷を盗む、
店を裏切る。それは許しません」
若武者たちは、自然と背筋を伸ばした。
「裏切らないなら、失敗しても食わせます。寝床も出します。給金も出します。
あなた方が本当に居場所をなくした時は、うちに来なさい。絶対に守ります」
調整役は、青い顔をしていた。
「それは、長野家に対してかなり強い一手になります」
「分かってます」
博之は静かに言った。
「でも、そういう噂が立つだけでも意味がある。伊賀まで行って帰ってきた若者を粗末に扱えば、
伊勢松坂屋が拾うらしい。そういう話が広がれば、簡単には切れなくなる」
「噂を使うと」
「はい。うちは北伊勢にも拠点を作り始めてます。伊勢、松阪、信楽、名張、津、鳥羽にも話が流れる。北畠家がすぐ攻めるとか、そういう話ではない。でも、北の方はごたつきます」
博之は、若武者たちを見た。
「だから、そうならないように殿様が聞くなら、それで良し。見切りをつけるなら、
それも良し。あなた方がどっちを選ぶかは、あなた方の人生です」
若武者の一人が、少し苦笑した。
「私らの一件は、旦那様にとっては暇つぶしですか」
博之は、悪びれずに言った。
「そうやで」
「旦那様」
お花がすぐに咎める。
「いや、語弊はある。語弊はあるけど、偉いさんたちからしたら、
こういう騒動って暇つぶしの面もあるんよ」
若武者たちは、顔を見合わせた。
博之は続けた。
「松阪の城主もそうやったやろ。前にあなた方が騒いだ時、ゲラゲラ笑ってたやん」
若武者の一人が、苦い顔で頷いた。
「はい。松阪の城主には、かなり笑われました」
「そうなんよ。偉い人の中には、現場の苦労が見えてない人もいる。逆に、
全部見た上で笑ってる人もいる。どっちが怖いかは、その人次第や」
調整役が静かに言った。
「長野の殿が、どちらかを見極めろ、ということですか」
「そうです」
博之は頷いた。
「名君かどうかは、今すぐ分からん。でも、今回の一件で分かることはある。命がけで見てきた
者の話を聞けるか。失敗を笑って次に生かせるか。それとも、自分の面子だけで怒るか」
座敷が静かになる。
「名君でなくてもええんです。完璧な殿様なんか、そうそうおらん。けど、ここでどれだけ
寛容になれるか。そこが、暗君との差やないですかね」
若武者たちは、深く息を吐いた。
それは、長野家の行く末にも、自分たちの行く末にも関わる言葉だった。
博之は、少しだけ柔らかく笑った。
「まあ、俺は飯屋ですから。政治に口出す気はないです」
「十分、口を出しておられます」
ヨイチがすぐ刺した。
「そうか?」
「はい」
「でも、飯屋として言うなら、働いた人を食わせないところは長続きしません。
命張った若い衆を粗末にするところも、たぶん長続きしません」
若武者たちは、もう一度頭を下げた。
「この話、ありのまま持ち帰ります」
「うん。怒られても、できるだけ正直に言いなさい」
「もし、切られそうになったら」
「うちに来なさい」
博之は、はっきりと言った。
「三倍の給金で雇います。飯も寝床も出します。買い付け隊でも、調整役でも、
見聞の書き手でも、使い道はいくらでもある」
調整役は、少し震えた声で言った。
「殿には、必ず聞いていただきます」
「それが一番ええです」
お花が、若武者たちへ茶を差し出した。
「まずは、体を休めてください。大事な話は、疲れ切ったままではできません」
若武者たちは茶を受け取り、静かに飲んだ。
泥の道を越え、冷飯を食い、粗末に扱われ、ようやく知ったことがある。
伊勢松坂屋は、ただの飯屋ではない。
そして、主君の器もまた、こういう時に見える。
博之は、また畳に寝転がりながら言った。
「まあ、どっちに転ぶか、見せてもらいますわ」
「やはり暇つぶしでは」
「語弊やって」
座敷に少しだけ笑いが戻った。
だが、若武者たちの顔には、もう軽さはなかった。
彼らは、信楽焼の道だけでなく、自分たちのこれからの道も、見なければならなくなっていた。