作品タイトル不明
翌朝信楽へ到着。だが長野家家臣が買い付けようとしてもうまくいかない。伊勢松坂屋の裏の努力が骨身に染みる
翌朝、長野の若武者たちは、足を引きずるようにして信楽へ向かった。
前日の伊賀越えだけでも、すでに体はくたくただった。草鞋は泥を吸い、足の裏は痛み、
肩は張っている。それでも、買い付け隊の者たちは平然と歩いていく。
「ここからが本番や」
伊勢松坂屋の地侍がそう言った時、若武者たちは誰も返事ができなかった。
昼前、ようやく信楽の集落に着いた。
焼き物の匂い、土の匂い、煙の匂い。道端には、皿や湯呑み、壺のようなものが並んでいる。
若武者たちは、少しほっとした。
「ここまで来れば、買えるやろ」
だが、そう甘くはなかった。
最初に入った窯元では、軽くあしらわれた。
「どこの者や」
「長野家の者だ。殿への品を買いに来た」
「殿への品なら高いぞ」
「いや、そこまで高いものではなくても」
「なら、そこの安い小皿でも買って帰り」
次の店では、さらに冷たかった。
「伊勢松坂屋さんの紹介か」
「いや、後ろについて来ただけで……」
「ほな、普通の客やな」
「一万文ある」
「一万文で、殿様に見せるようなものを選べると思うなよ」
若武者たちは、だんだん焦り始めた。
確かに品はある。けれど、こちらが良いと思うものは高い。安いものは、
どこか歪んでいたり、色が悪かったり、小さかったりする。しかも、相手は奥の棚を見せてくれない。
「高すぎるのではないか」
若武者の一人が思わず言うと、店の者は鼻で笑った。
「殿様に買うんやろ。そら高いに決まってる」
「我らは長野の者だぞ」
「伊勢のどこや」
「津の方だ。伊勢国の真ん中を治める家だ」
「伊勢で知ってるのは、北畠さんと、伊勢松坂屋さんくらいやな」
「なっ……」
「ああ、伊勢松坂屋さんと揉めたところか」
その一言で、若武者たちは黙り込んだ。
話は、もう信楽まで届いていた。
結局、彼らは別の小さな店で、どうにか小皿と湯呑みをいくつか買った。
値段は、思っていたより高かった。しかも、良いものを買えたという手応えは薄い。
「これで殿に見せられるのか」
「分からん」
「だが、これ以上粘っても、相手にされん」
疲れた彼らは、飯でも食おうとした。
しかし、そこでもまた現実を知る。
素朴な飯だった。冷えた飯に、味噌、少しの漬物。けれど値は高い。
伊勢松坂屋の横丁で食べた飯とは、味も量もまるで違う。
「これでこの値か」
若武者が小さく呟くと、近くにいた焼き物職人が言った。
「嫌なら食わんでええ」
その時、少し離れたところで笑い声がした。
伊勢松坂屋の買い付け隊だった。
彼らは、信楽の者と気さくに話し、奥の方へ通されていた。そこには、
若武者たちが見せてもらえなかった皿や鉢が並んでいる。子どもたちは飯を分けてもらい、
女衆も湯をもらっている。地侍たちは、窯元の者と品を見ながら、これは店で使える、
これは従業員向け、これは割れても惜しくない、と相談していた。
「なんで、こんなに扱いが違うんや」
若武者の一人が、思わず漏らした。
それを聞いた信楽の職人が、少し呆れたように言った。
「当たり前やろ」
「当たり前?」
「伊勢松坂屋さんは、銭を撒いてくれてる。ここに拠点も作ってくれた。
飯場も横丁も作ってくれた。六角のお侍さんが何もしてくれんようなところまで、
あの人らは飯を持ってきて、働き口を作ってくれたんや」
「器を買ってくれるからか」
「それだけやない」
職人は、少し土のついた手で小皿を持ち上げた。
「わしらはな、器が好きで焼いてるだけちゃう。器を焼くしかないから焼いてる者も多いんや。
売れへんかったら、その日で終わりや。買い付けに来る連中は、殿様向けの良いものだけ買いたがる。
売り物にならんものは見向きもせん」
若武者たちは黙って聞いた。
「でも伊勢松坂屋さんは、小皿も買う。少し歪んだものも、店で使えるなら買う。
従業員に買わせると言うて、まとめて買う。飯を盛る器にすると言って買う。出来をけなさず、
使い道を考えてくれる」
「それで、奥まで通すのか」
「そうや。向こうは、うちらの飯の種を作ってくれた。だから優しくする。
どこの誰か分からん者に、同じ扱いはできへん」
若武者の一人が、悔しそうに言った。
「我らは長野家の者だ。伊勢国では、それなりの家だぞ」
「ここは信楽や」
職人は淡々と言った。
「こっちで聞こえてくる伊勢の話は、北畠さんと伊勢松坂屋さんや。あんたらのことは、
伊勢松坂屋さんと揉めたところ、という話の方が通ってる」
別の職人が笑った。
「あの旦那の話は面白いからな。根なし草から始まって、飯で店を広げて、
地侍を飯で丸めて、伊勢まで連れて行ったとか。そういう話は、みんな聞くんや」
「……」
「だから本当なら、売りたくないと思う者もおる。ただ、今回は銭を持って来てるし、
伊勢松坂屋さんの買い付け隊の後ろについて来てるから、売ってるだけや」
若武者たちは、何も言えなかった。
自分たちは、殿の名を出せば話が通ると思っていた。
一万文あれば、それなりの量が買えると思っていた。
信楽焼は、欲しいと言えば手に入るものだと思っていた。
けれど、違った。
道がある。
顔がある。
積み重ねた銭がある。
飯がある。
噂がある。
その全部が、伊勢松坂屋の袴に乗っていた。
夕方、若武者たちは、買えた小皿と湯呑みを抱えて、伊勢松坂屋の買付隊と合流した。
地侍が荷を見て言った。
「それだけか」
「これだけしか買えなかった」
「まあ、最初ならそんなもんや」
「高かった」
「やろな」
別の地侍が、皿をちらりと見て言った。
「ちょっと変なもん掴まされたな」
「やはりか」
「悪いとは言わんけど、うちならその値では買わん」
若武者は、がくりと肩を落とした。
地侍は、少しだけ同情するように言った。
「普段から銭を撒いて、飯を出して、拠点を作って、顔をつないでる者と、
急に欲しい言うて来た者では、それくらい差があるんや」
「分かった気がする」
「気がするだけや。帰りもあるぞ」
その言葉通り、帰りの伊賀でもまた寺に泊まることになった。
住職は、前と同じように事情を聞き、同じように言った。
「寄進として、三人で五百文をお願いします」
若武者たちは、もう文句を言わなかった。
最初に預かった一万文。
行きの宿で五百文。
帰りの宿で五百文。
飯代、礼、細かな支払い。
そして、買えたのは思っていたより少ない信楽焼だけ。
夜、薄い味噌汁と冷飯を前にして、若武者の一人がぽつりと言った。
「俺ら、本当に何も分かってなかったな」
誰も笑わなかった。
もう一人が、買った小皿を見ながら言った。
「伊勢松坂屋が三倍で売ると言うた時、取りすぎやと思った。でも、違うな」
「三倍でも安いものがある、という意味が少し分かった」
「道中、宿、飯、顔つなぎ、危険、荷の管理。全部入れたら、皿の値段だけ見ても仕方ない」
寺の外では、伊勢松坂屋の者たちが、荷を確かめ、子どもたちの寝場所を整え、
翌日の道を相談していた。
彼らには、道があった。
自分たちには、銭しかなかった。
若武者は、深く息を吐いた。
「帰ったら、ちゃんと話そう」
「ああ」
「殿が怒っても、話さなあかん」
信楽焼が欲しい。
その一言の裏には、自分たちが見ていなかった世界があった。
彼らは、くたびれ切った体を横たえながら、ようやくその重さを知ったのだった。