作品タイトル不明
第34話 利益相反の書類/婚約発表の夜会
婚約前に最初に作った書類は、利益相反に関する届出だった。恋愛の余韻は、外務院の様式番号に包まれると驚くほど現実的になる。相手方はカルヴァレン公爵エルネスト・クロイツ。私はリュゼール王国の多言語文書監査官。
条約文書の監査において、カルヴァレン関連案件では補助監査官を置くこと。私が主監査を行う場合は、外務卿の承認と第三者校閲を必須とすること。私的関係を理由に文書閲覧権を拡大しないこと。書いているうちに、オリーヌが頭を抱えた。
「婚約って、もっと浮き立つものでは」
「浮き立つ部分は、別にあります」
「あるんですか」
「あります」
言い切ると、オリーヌが目を丸くした。サラはにやにやしている。
「イザベル様が堂々と言いました」
「仕事中です」
「はい」
エルネスト様も同様の届出をカルヴァレン側で作成した。互いの書類を交換し、問題点を赤字で入れる。婚約前に赤字修正を交わす男女は少ないだろう。だが、私たちにはこれが必要だった。数日後、両国外務担当者による確認会が行われた。
外務卿、カルヴァレン記録官ハインツ、私、エルネスト様。会議室に浮いた空気はない。紙と規則と印章が並ぶ。外務卿が言った。
「この届出で、当面の職務上の問題は整理できる。だが、社交界は整理されないぞ」
「噂は監査対象外です」
「残念ながら、外交上の雑音にはなる」
エルネスト様が静かに言った。
「雑音には、必要な場合だけ返答する。それ以外は仕事で示す」
「二人そろって面倒だな」
外務卿はまた頭を抱えた。会議の後、エルネスト様と廊下を歩いた。
「浮き立つ部分は、別にあると言ったらしいな」
私は足を止めた。
「誰から聞いたのですか」
「サラ」
「サラ」
遠くで、サラがくしゃみをしたような気がした。エルネスト様は真面目な顔で言った。
「あるのか」
「確認が必要ですか」
「必要だ」
私はしばらく彼を見た。そして、廊下の窓際に人がいないことを確認した。手を伸ばし、彼の指にそっと触れる。それだけだった。けれどエルネスト様は、まるで条約が突然一頁増えたような顔をした。
「これで確認できましたか」
「まだ足りない」
「では、続きは私的な時間に」
「記録は」
「残しません」
彼は少し笑った。
「それもいい」
利益相反の書類は、無事に承認された。私たちは、職務を曖昧にせず、関係を隠しもしない形で婚約へ進むことになった。面倒だ。けれど、面倒な手続きを大切にできる関係なら、私は怖くなかった。
◇
婚約発表の夜会は、王宮ではなく外務院の大広間で行われた。エルネスト様の希望だった。
「私たちは夜会で出会ったわけではない。文書の場で並んだ。なら、外務院がいい」
そう言われた時、私は反論できなかった。夜会の日、私は深い青のドレスを着た。マルタが補償金の一部で仕立てたものだ。豪奢ではないが、動くたびに布が静かに光る。胸元には、青い印章と同じ色の小さな石をつけた。
「とてもお似合いです」
マルタが言った。
「高すぎたのでは」
「ご自分の報酬でございます」
その言葉で、私は素直に頷いた。会場には各国の使節、外務院職員、翻訳組合の人々、救護院の院長、港湾連盟の代表まで来ていた。サラは見習い制服を着て、ニコたちと宛名札の確認をしている。オリーヌは会場案内を任され、緊張で歩き方がぎこちない。
社交界の貴婦人たちもいた。以前、私を悪女と呼んだ人々だ。エヴァンジェリン伯爵夫人は、扇の奥から微笑んだ。
「レヴィエ様、いえ、いずれはクロイツ公爵夫人ですわね」
「婚約者です。職務上はレヴィエ監査官です」
「まあ、相変わらず堅いこと」
「必要な堅さです」
彼女は少し苦笑し、今回はそれ以上言わなかった。夜会の中央で、エルネスト様が私の隣に立った。外務卿が短い挨拶をした。
「本日は、カルヴァレン公爵エルネスト・クロイツ閣下と、リュゼール王国多言語文書監査官イザベル・レヴィエ殿の婚約を祝う。なお、両名の職務上の利益相反については別紙の通り整理済みである」
祝いの挨拶に別紙が出る夜会は珍しい。会場のあちこちで小さな笑いが起きた。私も笑った。エルネスト様が私を見た。
「笑っている」
「ええ」
「よかった」
その短い言葉で、また胸が温かくなる。ダンスの時間になった。私は踊りが得意ではない。侯爵家の夜会では、夫が私をほとんど誘わなかったため、実践が少ないのだ。
「踊るか」
エルネスト様が尋ねた。
「少しだけ」
「間違えてもいい」
「外交官としては危険な言葉です」
「今は婚約者として言っている」
その言葉に、私は少しだけ頬が熱くなった。手を取り、音楽に合わせて動く。足元は少し不安だった。けれど彼は急がない。私の歩幅に合わせ、無理に回さず、会場の視線から少し外れた場所へ導いてくれる。踊りながら、私は大広間を見た。
サラが笑っている。オリーヌが拍手している。マルタが泣きそうな顔をしている。外務卿は疲れた顔で杯を持ち、クロイツ公爵家の記録官ハインツと何か話している。紙の先にいた人々が、同じ部屋にいる。その光景が、私には何よりの祝福に見えた。
「イザベル」
エルネスト様が低く呼んだ。
「はい」
「幸せか」
私は少し考えた。そして、今回は迷わず答えた。
「はい」
彼の手が、ほんの少し強くなった。音楽はゆっくり続いていた。