作品タイトル不明
第33話 王都への帰還/反対署名の束
王都へ戻る馬車の中で、サラは求婚状の話を聞きたがった。聞きたがった、というより、聞く気で待っていた。
「で、どうだったんですか」
「正式な求婚状でした」
「そうじゃなくて」
「職務継続、署名権、財産権、居住地協議が明記されていました」
「そうじゃなくて!」
オリーヌが笑いを堪えきれず、旅程表で顔を隠した。マルタは窓の外を見ているが、肩が揺れている。
「イザベル様、嬉しかったですか」
サラが真正面から聞いた。私は少し黙った。嬉しかった。その言葉を口にするのは、契約条項を説明するより難しかった。
「嬉しかったです」
サラは満足そうに頷いた。
「なら、よかったです」
その単純さが、少し眩しかった。王都に戻ると、外務院はいつも通り忙しかった。署名式後の運用、監査制度の立ち上げ、各国からの照会。私の机には、旅の前より多くの紙が積まれている。だが、机の上に一通の私信もあった。差出人はエルネスト様。
内容は短い。帰国後、正式な婚約の届けを出す前に、あなたの職務上の影響を外務卿と確認したい。私情を手続きより先に走らせないため。私はその手紙を読み、笑ってしまった。オリーヌが覗き込む。
「今度は何の条項ですか」
「私情を手続きより先に走らせないため、だそうです」
「本当にお似合いです」
「どういう意味ですか」
「そのままです」
外務卿へ婚約予定を報告すると、彼は頭を抱えた。
「隣国公爵と監査官の婚約か。外交上の説明が増える」
「職務上の利益相反を整理します」
「当然だ。だが、まずは祝いの言葉を言わせろ」
私は少し驚いた。外務卿は咳払いをし、淡々と言った。
「おめでとう。君が自分で選んだなら、それでよい」
「ありがとうございます」
「ただし、婚約を理由に職務を曖昧にするな」
「もちろんです」
「相手にも言っておけ」
「彼はすでに文書化しています」
外務卿は長く沈黙したあと、疲れたように笑った。
「そうだったな。相手も面倒な男だった」
王都への帰還は、ただ浮き立つだけのものではなかった。婚約は政治になる。職務は調整が必要になる。社交界はまた噂を作るだろう。それでも、私は今度は逃げるためではなく、選ぶために文書を作る。それが何より大きな違いだった。
◇
王都へ戻った翌日、監査室の机に反対署名の束が置かれていた。厚い紙束だった。表紙には、王国の職務を持つ女が隣国公爵家へ嫁ぐことへの懸念、とある。署名者の中には、夜会で私を悪女と呼んだ家名もあれば、私の仕事を一度も読んだことのない商会もあった。
ただの嫌がらせとして捨てることはできない。懸念という言葉は、時に差別の薄い覆いになる。だが、国境文書を扱う監査官が隣国公爵と婚姻することには、確かに確認すべき点がある。正しい疑問と、都合のよい悪意を同じ箱に入れたままでは、どちらにも答えられない。
私は署名を三つに分けた。職務上の利益相反を問うもの。女が公務に残ることを嫌がるもの。私個人への中傷だけを目的とするもの。オリーヌは二つ目の束を見て、眉を寄せた。
「これは、返事を書く必要がありますか」
「あります。返事を書かないと、沈黙を同意にされます」
「でも、内容がひどいです」
「ひどい文にも、ひどいと分かる記録が必要です」
サラは三つ目の束を見て、唇を引き結んでいた。そこには、侯爵家を捨てた女、隣国へ王国を売る女、子どもを利用して名を上げた女、という言葉が並んでいる。
「読まなくていいです」
私が言うと、彼女は首を振った。
「読めるようになりたいです。嫌な言葉も、読めないと怖いままなので」
私は少し迷い、彼女の前に比較的短い文を置いた。
「読むなら、一人で抱えないこと」
「はい」
彼女はゆっくり読み、顔をしかめた。
「この人は、レヴィエ様が条約を書いたことを知っていて、女のくせにと書いています」
「そうですね」
「仕事をしたから怒っているのですね」
「仕事の内容ではなく、仕事をした人に怒っているのでしょう」
その区別は重要だ。文書に問題があるのか、文書を書いた人の立場が気に入らないのか。前者には修正で答える。後者には、制度で答える。昼過ぎ、エルネスト様が監査室へ来た。反対署名の束を見ても、表情はほとんど変わらない。
「私の家からも、説明書を出す」
「公爵家が私を守る形にすると、反発が増えます」
「では、共同ではなく、別々に同じ事実を書く」
「はい」
彼はすぐに理解した。私の名で答えるべきところを、彼の名で覆ってはいけない。守ることと、代わることは違う。私は返答案を書いた。
婚姻は監査官の職務権限を拡張しない。婚姻は監査官の職務権限を縮小しない。カルヴァレン公爵家の利害に関わる案件では、外務卿、司法局、第三国書記の同席確認を受ける。監査記録は王国側保管庫と共同封印箱の二か所へ保存する。
ここまでは職務上の答えだ。次に、私は別紙を取った。女であること、離縁経験があること、婚姻することは、公文書を読む能力の欠格事由ではない。短い一文だった。けれど、この一文を公的な返答案に入れるには、王都の机はまだ古い。外務卿は渋い顔をするだろう。宮内局の残党は騒ぐだろう。
だからこそ入れる。夕方、外務卿が来て、案の最後の一文で止まった。
「これを入れるのか」
「入れます」
「かなり揉める」
「抜けば、揉めなかったことになります」
外務卿は長く黙り、やがて羽根ペンを取った。
「文を少し整える。欠格事由ではない、に加えて、職務評価は記録された実績に基づく、と入れよう」
「ありがとうございます」
「礼を言うな。これは王国のためでもある」
彼は照れ隠しのように咳払いした。その夜、監査室の窓に雨が当たった。私は反対署名の束を箱に収め、分類名を書いた。職務上の懸念。制度上の偏見。個人攻撃。紙束は同じ重さではない。重さを量り分けることも、文書の仕事だ。
私は封をし、青い印章を押した。明日も誰かが私を妻と呼び、誰かが監査官と呼び、誰かが隣国へ行く女と呼ぶだろう。どの名で呼ばれても、私が署名する欄は私の手で選ぶ。