作品タイトル不明
第32話 川町の春を約束する/求婚の翻訳
カルヴァレン視察の二日目、私たちは国境に近い春待ちの村へ向かった。そこには、王国側の川町から避難した人々の一部が、一時的に暮らしていた。白い石の家々の間に、洗濯物が揺れている。冬はまだ残っているが、日差しには少しだけ春の気配があった。
村の集会所では、保護附属書の説明会が開かれた。王国語、北方語、川町の混合語。私は三つの言葉で同じ説明をした。保護を受けても労働義務は発生しないこと。働く場合は別の契約が必要なこと。子どもは単独で移送されないこと。名前と言語は、移動先を決める理由にならないこと。
説明が終わると、年配の女性が手を挙げた。
「紙にそう書いてあっても、役人が違うことを言ったら?」
「その時は、この青い控えを見せてください。番号が入っています。番号を言えば、王国とカルヴァレンの両方で照会できます」
「字が読めない人は?」
サラが前に出た。
「色を見てください。青は救援品、茶色は仕事の契約、赤は移動の許可です。分からなければ、名前を言ってください。名前で記録を探します」
堂々とした声だった。かつて侯爵家の食堂で震えていた少女とは違う。私は胸が熱くなった。説明会の後、子どもたちがサラの周りに集まった。自分の名前を書きたいと言う子が多く、サラは練習帳を広げて一人ずつ教えた。エルネスト様は少し離れた場所で、村長と話している。彼の横顔は穏やかだった。
夕方、村の橋の上で二人になった。川は細く、雪解け水が光っている。
「春になれば、川町へ戻れる人もいます」
私が言うと、彼は頷いた。
「戻れない者もいる」
「はい」
「戻ることだけが救いではない」
「ええ。新しい場所で、名前を失わずに暮らせることも必要です」
私は橋の下を流れる水を見た。川は国境を知っているのだろうか。地図では線が引ける。だが水は線の上を流れていく。人の言葉も、それに少し似ている。
「エルネスト様」
「何だ」
「あなたへの返事を、そろそろ言わなければと思っています」
彼はすぐにこちらを見なかった。少しだけ息を整え、それから私を見た。
「今でなくてもいい」
「今、言いたいのです」
私は胸に手を当てた。怖さはある。でも、その怖さは逃げる理由ではない。
「私は、あなたを愛しているのだと思います」
彼の目が揺れた。
「思います?」
「はい。まだ、愛という言葉に慣れていません。けれど、あなたの隣で沈黙しても怖くない。あなたの文を監査したいし、あなたの怒りが紙を歪めないよう隣で見ていたい。あなたの国を知りたい。これは、私にとって愛にかなり近いです」
エルネスト様はしばらく黙った。そして、ゆっくり笑った。
「かなり近い、か」
「不満ですか」
「いや。あなたらしい」
「そればかりですね」
「ほかの言葉を探す」
彼は一歩近づいた。
「手を取ってもいいか」
「はい」
彼の手が私の手を包んだ。橋の下で、雪解け水が流れている。春はまだ遠い。けれど、約束はもう始められる。
◇
エルネスト様の求婚は、橋の上ではなく、翌日の公爵邸で行われた。彼は順序を重んじる人だ。私が気持ちを伝えたからといって、その場で抱きしめたり、勢いで結論を出したりはしなかった。カルヴァレン公爵邸へ戻り、私に休む時間を与え、翌朝、正式な面会を申し込んできた。
面会場所は、邸の小書斎だった。壁には地図と書架。窓辺には小さな月桂樹の鉢植えがある。私が落ち着ける場所を選んだのだと、すぐに分かった。エルネスト様は、机の上に一通の文書を置いた。
「求婚状だ」
「文書で」
「口頭でも言う。だが、紙にも残す」
「あなたらしいです」
彼は少しだけ笑った。求婚状は、驚くほど実務的だった。私が婚姻後も多言語文書監査官として職務を継続すること。私の報酬、署名権、私有財産はクロイツ公爵家に吸収されないこと。居住地は王国とカルヴァレンを協議で決めること。
私が婚姻を望まない場合、現在の私的確認事項を尊重し、職務関係のみを継続すること。最後の一文で、私は目を止めた。あなたの返答が拒絶であっても、あなたの名と仕事への敬意は変わらない。胸が熱くなった。
「これは、求婚状というより」
「あなたが怖がる点を先に書いた」
「怖がっていると、分かっていたのですね」
「分かっているつもりだった。違えば直す」
私は紙を置いた。
「口頭の方も聞かせてください」
彼は姿勢を正した。公爵としてではなく、一人の人として、少し緊張しているのが分かった。
「イザベル・レヴィエ。私はあなたを愛している。あなたの仕事を尊敬し、あなたの名を尊重し、あなたが選ぶ場所で隣に立ちたい。私と結婚してほしい」
言葉は、また短かった。けれど、今度は私は沈黙だけでは返さなかった。
「翻訳します」
彼が瞬いた。
「何を」
「私の返事を、私自身の言葉へ」
私は深く息を吸った。
「はい。結婚します。ただし、私はあなたの妻になる前に、私であり続けます。あなたの家名に入っても、私の名を消しません。あなたを愛しますが、あなたの後ろには戻りません。隣に立つ契約なら、受けます」
エルネスト様は、しばらく動かなかった。
「それは、はい、でいいのか」
「はい、です」
彼はようやく息を吐いた。そして、私の手を取った。
「ありがとう」
「礼を言うことですか」
「私には」
彼の手が少し震えていた。私はその震えを見て、胸の奥が柔らかくなるのを感じた。求婚状には、返答欄があった。私はそこへ署名した。イザベル・レヴィエ。その下に、承諾、と書いた。妻になることを、初めて自分の言葉で選んだ。
その違いは、紙の上では小さい。けれど私の中では、まったく違う意味を持っていた。