作品タイトル不明
第三話 公爵令嬢の行き先
数日後、王都は晴れ上がっていた。
その夜、クラリスは再び辻馬車に乗った。
今回は夜会服ではなく、簡素な外套を羽織り、書類の束を手にしていた。
「こんばんは、クラリス様」
「こんばんは、アルトさん」
御者は普段どおりに尋ねる。
「どちらまでですか?」
クラリスは少しだけ考え、静かに答える。
「どこにも行かなくていいわ」
アルトが、わずかに目を細めた。
「また、ですか?」
「ええ。でも今夜は、逃げるためではないの」
「かしこまりました」
アルトは手綱を軽く鳴らした。
馬車は、雨のない夜の王都を静かに走り出す。
数日前と同じ馬車だった。
同じ御者で、同じ夜の王都だった。
ただ、雨は降っておらず、クラリスの胸にあるものも、あの夜とは違っていた。
「王宮は、落ち着きましたか?」
アルトが前を向いたまま尋ねた。
クラリスは膝の上の書類に視線を落とす。
「ええ。落ち着くまでに、ずいぶん騒がしかったようだけれど」
「騒がしかった……?」
「私が王宮を出た翌日、橋の下の炊き出しに届くはずのパンが、危うく止まりかけたそうよ」
アルトは何も言わなかった。
「支払いの確認が済んでいなかったの。十日ごとに支払うよう手配していたのだけれど、誰も承認をしなかったようで……。承認印がどこにあるかも誰も知らなかったのよ」
「それは、困りましたね」
「ええ。パン屋の方が前日に仕込みを済ませてくださっていたから、ひとまず届けてくれたそうよ。でも次はない、と言われたそうで」
クラリスは書類の一枚を指でなぞった。
「孤児院の毛布も、配布日に間に合わない。施療院の薬草商からの問い合わせにも答えられなかったようで……」
「……たった一日で、そんなことに?」
「一日で、というより」
クラリスは窓の外へ視線を向ける。
「一日も止まらないように、私が整えていたのよ」
その言葉に、アルトは静かに頷いた。
「聖女候補の方は?」
「ミリア様は、民の前で涙を流されたそうよ」
「涙を」
「ええ。『皆さん、おつらいでしょう。私も胸が痛みます』と」
クラリスの声には、怒りではなく、疲れがあった。
「けれど、鍋は涙では満たされない。火は涙では燃えない。パンは涙では届かない」
馬車は王都を走り続ける。
「それから、少し困ったことも分かったの」
「困ったこと?」
「ミリア様は、孤児院へ配るはずだった毛布を、ご自分の慰問の日まで倉庫に置かせていたそうなの」
「なぜです?」
「その日に手渡した方が、民が喜ぶから、と」
アルトの手綱を握る指が、ほんの少しだけ止まった。
「その間、子どもたちは寒さに耐えなければなりませんね」
「ええ」
クラリスは小さく息を吐く。
「ミリア様は、きっと本当に民を慰めて、喜ばせたかったのだと思う。でも、慰めを待つ間にも、夜は来るのよ」
しばらく二人は沈黙した。
「王太子殿下は?」
「私を呼び戻そうとなさったわ」
クラリスの声は、もう震えていなかった。
「戻れば、昨夜の件は水に流してやる、と」
「それで?」
「お断りしたわ」
クラリスは窓の向こうに流れる街灯を見た。
「流せるほど軽い罪なら、なぜ私は王宮を追い出されたのでしょう、と申し上げたの」
アルトが、ほんの少しだけ笑った。
「それは、よい返事ですね」
「ええ。少しだけ、胸がすっとしたわ」
クラリスは、膝の上の書類を一枚持ち上げた。
「国王陛下は、王太子殿下をしばらく政務から外されたそうよ」
「そうですか」
「理由は、婚約者選びを誤ったからではなくて、王都の暮らしを支えていた仕組みを、感情ひとつで断ち切りかけたから」
クラリスの声に、勝ち誇った響きはなかった。
「そして王太子殿下は当面、救済事業の補佐を命じられたわ」
「補佐、ですか」
「ええ。決裁権は、私に預けられたまま」
アルトは前を向いたまま、静かな声で言った。
「大変なお役目です」
「そうね」
クラリスは、少しだけ口元を緩めた。
「王太子殿下は今、毎日パンの数を数えていらっしゃるそうよ」
「それは、大切なお仕事です」
「ええ。二百個のパンを、ただの二百という数字だと思わなくなるまで、少し時間がかかるでしょうけれど」
二人の間に、静かな笑みがこぼれた。
それは、決して誰かを嘲るための笑みではなく、寒い王都の夜を、小さく温める笑みだった。
「クラリス様は、王宮へお戻りになるのですか?」
アルトが尋ねた。
クラリスは、すぐには答えなかった。
王宮へ戻る道はある。
名誉は回復した。
公爵家からも、戻るように言われた。
国王からは、王都救済事業の正式な監督役として力を貸してほしいと言われている。
けれど、あの夜の橋の下の火を見てから、クラリスの中で何かが変わっていた。
「私は、戻る場所を探していたのではないみたい」
クラリスは呟いた。
「では、何を?」
「行く場所を探していたの」
クラリスは馬車の窓の外を見た。
そこには、王宮の窓からは見えない、小さな路地と、低い屋根と、夜風に肩をすくめる人々の暮らしがあった。
「私は、王太子妃候補には戻らないわ」
「はい」
「でも、王都救済事業には携わっていたい。橋の下の炊き出しも、孤児院も、施療院も、戦災遺族の共同住宅も、自分の足で見て回りたいの」
クラリスは、手元の書類を見る。
「これまでは、書類の向こうに人がいると信じていた。でもこれからは、その人たちの顔も見たいの」
「それは、よい行き先ですね」
「ええ」
クラリスは少し笑った。
「ようやく、そう思えるようになったわ」
馬車は橋の上にたどり着いた。
橋の下では、今夜も火が灯っている。
クラリスは馬車の窓越しにそれを見つめた。
今夜は、涙は出なかった。
「アルトさん」
「はい」
「あなたの探しものは、まだ見つからないの?」
アルトは少しの間、沈黙した。
「まだです」
「そう」
クラリスは橋の下の火を見た。
「見つからないものを探し続けるのは、無駄なのかしら」
アルトは、手綱を握ったまましばらく考えた。
「無駄かもしれません」
クラリスは彼を見る。
「ですが、無駄なものがなければ、人は夜を越せないこともあります」
アルトがそこで少し言葉を止め、再び口を開く。
「私も、この十年、リディアを見つけられませんでした」
アルトは、橋の向こうを見ていた。
「けれど、誰かを乗せて走っている間だけは、彼女を失ったあの夜から、少しだけ進めている気がするのです」
クラリスは、その横顔を見つめた。
「……クラリス様をお乗せして、少しだけ分かりました」
「何が?」
「僕は、リディアを失ったあの夜に戻りたかったのではなく、あの夜の先へ進みたかったのかもしれません」
彼はまだ、探しものを見つけられてはいない。
けれど、完全に止まっているわけでもない。
「それでも……いつか、見つかるといいわね」
「ええ」
アルトは微かに、少し寂しそうに笑った。
「あるいは、見つからないまま、別の何かに辿り着くのかもしれません」
馬車は橋の上からゆっくりと動き出す。
橋の下の火が、窓の端へ流れていく。
「今夜は、どちらまで行きましょうか?」
アルトが尋ねた。
クラリスは少し考えた。
公爵家へ帰ることもできる。
炊き出しの場へ降りることもできる。
王宮へ戻り、書類を片づけることもできる。
けれど今夜は、もう少しだけ走っていたかった。
逃げるためではない。
迷うためでもない。
自分の行き先を、自分で選ぶために。
「決まったところはないの」
クラリスは小さく笑みを浮かべた。
「でも、少し遠回りしてくださる?」
アルトは手綱を軽く鳴らした。
「かしこまりました」
馬車は夜の王都を走り続ける。
失くしたものは、戻らないかもしれない。
それでも、探し続ける道の上で、灯りを見つけることがある。
夜の辻馬車は、今夜も王都を走る。
行き先を失った誰かが、もう一度、自分の行きたい場所を見つけるまで。