軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

まどかの涙と、盲点

光の届かない冷たい地下室。

まどかの意識は、深い泥の中に沈み込むように混濁し始めていた。

拘束されてから、どれだけの時間が過ぎたのだろうか。

差し入れられた安物の弁当には一切手をつけていない。

毒や薬が仕込まれている可能性があったし、何より極度の緊張と絶望で、胃が固く縮み上がっていた。

でも流石に生きるために最低限の水だけを口に含んできたが、それも限界だった。

唇はひび割れ、鉄パイプに縛り付けられた手足の感覚はとうの昔に麻痺している。

(……身体が、鉛みたい……)

カチャリ、と。

重厚な鉄扉の鍵が開く音がして、まどかは虚ろな目をわずかに開けた。

「よぉ、まどか。随分と惨めな姿になったじゃねえか。自慢の毛並みが台無しだな」

革靴の足音と共に現れたのは、龍牙だった。

彼は見下すような薄ら笑いを浮かべ、まどかの前にしゃがみ込んだ。

「……何の用よ。わざわざ私の死に顔を見に来たの?」

「強がるねぇ。だが、その減らず口もここまでだ。……お前に一つ、面白いニュースを持ってきてやったんだよ」

龍牙はまどかの顎を乱暴に掴み、無理やり顔を上げさせた。

「お前の飼い犬――結城誠の野郎が、ダンジョンから帰ってきたらしいぞ」

ビクリ、と。

まどかの身体が震えた。帰ってきた。

あいつが、生きて。

「ま、Aランクのバケモノ共にビビって、尻尾を巻いて逃げ帰ってきたんだろうがな。……だが、傑作なのはここからだ」

龍牙は心底愉快そうに、喉の奥で笑った。

「その狂犬、特区のエントランスから出てきた後……どこに行ったと思う? お前が攫われたってのに、血相変えて『別の場所』へ走っていきやがった。どうやら、お前は完全に見捨てられたみたいだなァ!」

龍牙の嘲笑が地下室に響き渡る。

だが、まどかの内心は、龍牙の思惑とは全く別の感情で満たされていた。

(……違うわ、龍牙。あいつは逃げたわけじゃない)

別の場所。急いで向かった先。

まどかには、痛いほどよくわかっていた。

誠が、Aランクダンジョンの最深部を攻略し、奇跡の薬を手に入れて、最愛の妹が待つ病院へと向かったのだと。

(よかった……。勝ったのね、誠。妹さんは、きっと助かるわ……)

胸の奥で、温かい安堵が広がっていく。

彼が無事だった。

その事実だけで、十分だったはずだ。

自分は裏社会のボスの娘。ここで死ぬのも、覚悟の上だったはず。

「せいぜいここで、誰にも助けられずに絶望して死んでいくんだな」

龍牙が吐き捨てて立ち上がり、再び鉄扉の向こうへと消えていく。

ガチャン、と冷たい施錠の音が響いた瞬間。

暗闇に一人取り残されたまどかの胸に、安堵とは真逆の、黒く濁った感情がチクリと刺さった。

(麗奈の隠密は……ちゃんと、誠に伝えてくれたのかしら)

妹を助けた誠は、今頃どうしているだろうか。

妹の命が助かって、泣いて喜んでいるだろうか。私のことなんか忘れて、平穏な日常に戻る準備をしているだろうか。

『お前を見捨てるような真似は、絶対にしない』

いつかの彼の言葉が、脳裏をよぎる。

ダメだ。

こんなことを考えてはいけない。

あいつは十分にやってくれた。

これ以上、あの不器用で優しい男に、私の世界の泥を被せるわけにはいかないのだ。

頭ではわかっているのに。

限界を迎えた身体と心が、弱音を吐き出そうとする。

「……ばか、ね。私……」

ぽろり、と。

ひび割れた頬を、熱い涙が伝って落ちた。

一度堰を切った感情は、もう止まらなかった。

暗い地下室で、まどかは子供のように嗚咽を漏らした。

「助けて……。誠……私を、助けてよ……っ」

誰にも届かない悲痛な願いが、冷たいコンクリートの壁に吸い込まれて消えていった。

「待ってろよ、まどか! 龍牙供を今すぐぶっ飛ばしに……!!」

同時刻。

美桜の奇跡的な生還を見届け、病院の正面エントランスを勢いよく飛び出した結城誠は、夜風を受けながらアスファルトを力強く蹴り上げた。

……蹴り上げて、そのまま数歩進んだところで、ピタッと足を止めた。

「…………あれ?」

『どうしたんですかマスター! 時間がないんでしょう!? 早く行きましょう!』

「……いや、待てエク子。……俺、まどかがどこに監禁されてるか、知らねえ」

『…………は?』

深夜の病院の前で、ジャージ姿の脳筋とチアガールのAIが、硬直した。

「いや、だって! あの隠密の女、『攫われて監禁されてる』って言っただけで、場所までは一言も言ってなかったぞ!? 病院に行くことで頭がいっぱいで、聞き返すの完全に忘れてた……!」

『マ、マスターのバカァァァッ!! なんでそういう一番肝心なところをスルーするんですか! 知力20にも程がありますよ!!』

「しょうがねえだろ! あの時は美桜のことで心臓止まりそうだったんだから!」

頭を抱えてしゃがみ込む俺。

新宿は広い。黒犬の息がかかった施設や倉庫なんて、星の数ほどある。

ここからローラー作戦で探すなんて、到底間に合わない。

『……マスター。落ち着いてください』

「トラ子! なんかいい 検索方法(サーチ) はないか!?」

『ありません。魔法的な探知スキルを持っていない以上、物理的な捜索には限界があります。……ですが、探す手間は省けたかもしれませんよ』

「え?」

トラ子の言葉とほぼ同時。

病院の敷地の外、暗い街灯の下から、一人の男がゆっくりとこちらに向かって歩いてくるのが見えた。

黒いスーツに身を包み、胸元には『黒犬』の代紋が光っている。

「……結城誠だな」

男は、俺の数メートル手前で足を止め、懐からスマートフォンを取り出した。

「お探しの小娘の居場所なら、俺たちが教えてやるよ。……これが龍牙様からの、直々の伝言だ」

俺はゆっくりと立ち上がり、ボロボロのジャージのポケットに手を突っ込んだ。

全身から濃密な殺気が無意識に漏れ出す。

「……言え。てめえのボスの首は、どこに行けばへし折れる?」

俺の放った極限のプレッシャーに、スーツの男は顔を引き攣らせ、一歩後ずさった。

だが、男は震える手でスマートフォンの画面を俺に向けた。

そこに映っていたのは、暗い地下室で縛り付けられ、ぐったりと首を垂れている、まどかの姿だった。

「……ッ!!」

「指定の場所へ一人で来い。少しでも妙な真似をすれば、この女の命はない。……お前の持っている『ダンジョンの素材』をすべて持参するのが条件だ」

男が震える声で指定した場所は、新宿港にある、黒犬が管理する巨大な放棄倉庫群だった。

「……上等だ」

俺は低く唸り、黄色いドドンキの袋を握り直した。

「わざわざ案内ご苦労だったな。お前のボスに伝えとけ。……『死ぬ準備をして待ってろ』ってな」

俺が地面を蹴り飛ばした衝撃波で、スーツの男が悲鳴を上げて吹き飛ぶ。

迷う必要はなくなった。

あとは、俺がすべてを解決してやる。

俺は夜の新宿を一直線に駆け抜けていった。