作品タイトル不明
闇夜の港、交渉
潮の香りと錆びた鉄の匂いが混じる、深夜の新宿港。
海風が吹き荒れる中、俺は巨大な放棄倉庫群に向けて、音を殺しながら疾走していた。
「……トラ子、状況はどうなってる?」
「マスター、怒りに任せて正面から突っ込んではダメですからね。まどかさんが人質に取られている以上、ヤツらはいつでも彼女の命を絶つことができます。
まずは冷静に相手の要求を聞き、確実に彼女を奪還できる『隙』をうかがう必要があります」
「わかってる……! だが、あいつに指一本でも触れてたら、ただじゃおかねえ」
ギリッと奥歯を噛み締め、俺は指定された第4倉庫の前で足を止めた。
開け放たれた巨大なシャッターの奥。
そこには、アサルトライフルなどの重火器で完全武装した『黒犬』の黒服たちが、数十人がかりで陣形を組んで待ち構えていた。
だが、その中に、首謀者である龍牙や左京玄弥の姿はない。
「……ボスは不在で、下っ端だけの出迎えか。随分と舐められたもんだな」
俺がドドンキの袋を揺らしながら歩み寄ると、配下の一人がビクッと肩を揺らしながらも、一台のスマートフォンを俺の前に放り投げた。
アスファルトに落ちた画面には、すでにビデオ通話が繋がっている。
『――ようこそ、まどかの忠実な犬。よく生きて帰ってきたな』
画面越しに聞こえてきたのは、底意地の悪い、嘲りに満ちた龍牙の声だった。
背景は薄暗いコンクリートの壁。
どうやら、ヤツはまどかを監禁している別の 安全圏(アジト) から、高みの見物を決め込んでいるらしい。
「てめえが龍牙か……! まどかは無事なんだろうな!?」
『さあてね? なんせ長いこと飯も水もろくに与えてねえからなァ。息をしてるかどうかは、俺にもわからねえな』
「てめえェェェッ!!」
俺の足元のコンクリートが、無意識に漏れ出た踏力でクレーター状に砕け散る。
激怒で頭に血が上り、目の前の野郎どもを今すぐ全滅させてやろうと拳を握り込んだ、その時。
「マスター! ストップです! 挑発に乗っちゃダメ! 深呼吸して!!」
脳内でエク子が必死にブレーキをかける。
俺はハッとして、ギリギリで拳を止めた。
そうだ、ここで暴れてもまどかの居場所はわからない。
「……ふぅ。いいから、とっととまどかの顔を見せろ。無事を確認するまでは、アイテムの『ア』の字も出す気はねえぞ」
『ハハッ! 交渉の基本はわかってるみたいだな。いいだろう、ちょっと待ってろ』
画面越しの龍牙が、カメラの向きをぐるりと反転させた。
そこに映し出されたのは――。
「まどか……!」
冷たい鉄パイプに両手足を太い鎖で繋がれ、ボロ切れのようにぐったりと首を垂れている、まどかの姿だった。
頬はこけ、唇はひび割れ、あの気丈だった令嬢の面影は見る影もない。
「おい、まどか! 大丈夫か!? 俺だ、誠だ!」
俺の叫びに反応し、まどかが虚ろな目をわずかに開けた。
「……ま、こと……? ばか……なんで、来たのよ……」
「お前……! 龍牙、てめえよくもこんな真似を……! もしあいつの身体に少しでも後遺症が残ったら、てめえの四肢を全部へし折って東京湾に沈めてやるからな!!」
俺の殺気に当てられ、倉庫にいる黒服たちが一斉に銃口を俺に向けた。
だが、画面の向こうの龍牙は、心底可笑しそうに肩を揺らした。
『おお、怖い怖い。流石は化け物、画面越しでもチビりそうになるぜ。
……だが、吠えるのはそこまでだ。
お前がどんな規格外の力を持っていようと、俺が指を一度鳴らせば、この女の頭はスイカみたいに吹き飛ぶんだからな』
龍牙がまどかの髪を乱暴に掴み、カメラに向けて顔を上げさせる。
『さあ、確認は済んだな? なら条件だ。お前がAランクダンジョンから持ち帰った素材、そのすべてを、目の前にいる俺の部下たちに引き渡せ』
龍牙の要求。
Aランクダンジョンという死地から持ち帰った、天文学的な価値のアイテムをすべて手放せというものだ。
「……ま、こと……ダメよ……ッ」
その時、まどかが最後の力を振り絞るように、画面越しに叫んだ。
「ッ!?それは、妹さんのために……あなたが命を懸けて……! 私のことなんて、気にしないで逃げてッ!!」
『うるせえ! 黙ってろビッチが!』
ドゴッ!
龍牙の容赦ない蹴りが、縛られたまどかの腹部を情け容赦なく蹴り上げた。
「が、はァッ……!」
「まどかァァァァッ!! 龍牙、てめえこの野郎ォォォッ!!」
血を吐いてうずくまるまどかを見て、俺の理性が完全にぶっ飛びそうになる。
だが、ヤツの言う通りだ。
俺がここで暴れれば、まどかは確実に殺される。俺が地獄の底から這い上がれたのは、彼女が手を差し伸べてくれたからだ。
命に代えても、助けなきゃならない。
「……わかった。わかったから、もうあいつを殴るな!!」
俺は血の滲むような思いで怒りを飲み込み、右手に持った黄色いドドンキの袋に手を突っ込んだ。
袋の中には、蒼竜から強奪した神話級のドロップアイテムが山のように入っている。
これをすべて差し出し、まどかを解放してもらう。それしか道は――。
『――待ってください、マスター。早まらないで』
その時、トラ子の極めて冷静な、氷のような声が脳内に響いた。
「トラ子? 何を言って……」
『論理的な思考を放棄しないでください。すべてを渡す? ……なぜですか?』
「なぜって、そうしなきゃまどかが……!」
『ヤツらの認識を逆手に取るのです。マスター、ヤツらはマスターが『蒼竜を討伐した』なんて夢にも思っていません』
トラ子の言葉に、俺はハッとした。
『常識的に考えて、単独の冒険者がたった数日でAランクの最深部を攻略するなど不可能です。
ヤツらの見立ては、『マスターが浅層で少しだけ生き延びて、命からがら逃げ帰ってきた』という程度のものです。
ここで蒼竜のアイテムなんて出せば、逆に不信感を抱かせ、ヤツらの欲望を際限なく暴走させるだけです』
確かにその通りだ。
俺が底知れないバケモノだとバレれば、ヤツらは「もっと隠し持っているはずだ」と疑い、まどかを人質にしたまま無限に要求を釣り上げてくるかもしれない。
『ヤツらは、マスターがどれだけのアイテムを持っているかを知らない。
ならば、道中で狩ったAランク下位の魔物のドロップ品で十分です。
それだけでも、裏社会の相場ならしばらくは遊んで暮らせるだけの莫大な価値があります。それを交渉のカードにしてください』
トラ子の知略が、完全に俺の頭を冷やした。
そうだ、相手は極悪非道なヤツだ。
素直に全財産を渡したところで、「はいそうですか」と人質を返す保証なんてどこにもない。
必要なのは、ヤツらを出し抜き、まどかを安全に奪還するための『盤外の交渉術』。
「……なるほどな。頭いいぜ、お前」
俺は小さく息を吐き出し、ドドンキの袋の中をまさぐった。
蒼竜の鱗は奥に押しやり、代わりに道中で拾い集めていた「別の素材」を掴み取る。
そして、中から鈍く輝く巨大な氷の牙――【フロスト・ワイバーンの牙】と、蒼く脈打つ【アイス・ゴーレムの魔核】を取り出し、スマートフォンのカメラの前にかざした。
「……見ろ。これが、Aランクダンジョンで命がけで手に入れた素材だ。
ワイバーンの牙と、ゴーレムのコア。
これだけでも、かなり価値はあるはずだ」
『おお……! そ、それは……! 本当にAランクの魔物の……!』
画面越しの龍牙の目が、欲望にギラリと光った。
予想通りだ。Aランクというだけで、ヤツらにとっては垂涎の的なのだ。
「アイテムを渡すことに異存はねえ。
……だがな、龍牙。
こんだけのブツだ、てめえの下っ端なんぞにホイホイ預けられるかよ。
持ち逃げされたらどうすんだ?」
俺はわざとらしく鼻で笑い、カメラに向かって挑発的な視線を向けた。
「俺は交渉に応じる。だが、条件がある。
……てめえ自身が、俺の目の前でアイテムを受け取り、その場でまどかを解放しろ。
それができねえなら、今すぐこの場で素材を全部粉々に握り潰すぞ」
一世一代のハッタリと駆け引き。
夜の港を舞台にした、狂犬と脳筋の神経戦が、今静かに幕を開けた。