作品タイトル不明
柊の毒蛇、そしてジャージの男
柊本家の屋敷は、現代の東京にありながらまるで時代劇から切り取られたかのような異様な威容を誇っていた。
高くそびえる黒塗りの塀に、樹齢数百年はありそうな松の木々。
玉砂利の敷かれた広大な庭園には、石灯籠が淡い光を落としている。
しかし、風流な景観とは裏腹に、空気に漂っているのは血と暴力、そして濃密な魔素の匂いだ。
屋敷のあちこちには、厳つい顔つきの黒服たちや、高ランクの装備を身に纏った柄の悪い護衛たちが配置されていた。
彼らは一様に、柊家の令嬢であるまどかに恭しく頭を下げるが、その後ろを歩く俺――上下2700円の無地の安物ジャージを着た男――を見るなり、侮蔑と嘲笑の入り混じった視線を向けてきた。
「なんだ、あの浮浪者は」
「まどかお嬢も、ついに護衛を雇う金すら尽きたか?」
「あんな細腕のおっさん、俺なら指一本でへし折れるぜ」
ヒソヒソと交わされる下品な囁き声。
だが、俺の【気配察知】が捉える彼らの実力は、せいぜいCランク下位といったところだ。
数日前にダンジョンで数千匹殴り殺したホブゴブリンと大差ない。
(マスター。あいつら、全員まとめて 制裁(デリート) しちゃいますか? あんなモブ共、指を弾くだけで首が飛びますよ!)
(……ステータスの影響とはいえ、お前本当に物騒になったな。ここは敵の本陣だ、大人しくしてろ)
好戦的な脳筋AIと化したエク子を宥めながら、俺はあくまで「無能な荷物持ち」の仮面を被り、飄々とした足取りでまどかの背中についていった。
本館の巨大な玄関を抜け、会合の場となる大広間へと続く長い廊下を歩いていた時のことだ。
「やあ、まどか。無事に着いたようで何よりだよ。ひどく心配していたんだ」
廊下の先から、わざとらしいほど明るい声が響いた。
そこに立っていたのは、仕立ての良さが一目でわかる純白の高級スーツを着こなした、長身の男だった。
顔立ちは端正だが、細められた瞳の奥には、獲物を狙う毒蛇のような冷酷な光が宿っている。
「……お気遣いどうも、 長男(あに) さん。おかげさまで、道中の『害虫』はすべて駆除してまいりましたので」
まどかの声が、絶対零度まで冷え込んだ。
柊家長男、 柊龍牙(ひいらぎ・りゅうが) 。
まどかを陥れようと海堂たちを買収し、さらに先ほど武装した刺客を差し向けてきた張本人だ。
「害虫? 物騒だな。最近は新宿の治安も悪いと聞く、一人歩きには気をつけることだ」
龍牙は柔和な笑みを崩さない。
だが、俺の【気配察知】は、彼の内側で渦巻くどす黒い苛立ちを正確に読み取っていた。
(……チッ、使えないゴミ共め。あれだけの重武装で包囲しておいて、女一人を仕留め損なっただと? 海堂といい、あの傭兵団といい、高い金を払ったというのに役立たずばかりだ)
龍牙の視線が、まどかの背後に立つ俺を捉えた。
(……それに、なんだあの男は。海堂の代わりの護衛か?
ふざけるな、魔力はおろか闘気すら感じない、ただの適性なしの凡人ではないか。
あんな道端の石ころのような男を連れて、この龍牙を出し抜いただと……?)
苛立ちを隠すように、龍牙はわざとらしく大げさなため息をついた。
「しかし、まどか。お前も柊の血を引く者なら、もう少し連れ歩く人間の『質』を考えたらどうだ?
……おい、そこのお前」
龍牙の冷たい視線が、俺を真っ直ぐに射抜く。
「ここは裏社会を統べる『黒犬』の本家だ。
どこで拾われたホームレスかは知らないが、その目を腐らせるような薄汚いジャージで歩き回られては、柊の品位に関わる。
今すぐ路地裏に帰って、ダンボールの家でも作っているんだな」
周囲に控えていた龍牙の部下たちが、下品な嘲笑を漏らす。
だが、俺は顔色一つ変えなかった。
Cランクの限界値まで精神と肉体を極めた今の俺にとって龍牙の放つ威圧感など、そよ風にも劣る。
「……このジャージは新品だ。それに、機能性は極めて高い。
血がついても洗えばすぐに落ちるからな。
あんたのその白いスーツは、一度血を吸ったら終わりだろう?」
俺が平然とそう言い放つと、廊下は水を打ったように静まり返った。
適性なしのただのオッサンが、次期ボス候補の龍牙に口答えをしたのだ。龍牙の部下たちが一斉に殺気を放ち、武器に手をかける。
「貴様、誰に向かって口を利いているか分かっているのか……?」
龍牙の顔から笑みが消え、額に青筋が浮かんだ。
俺がそれに「掃除なら済ませてきたと言っただろう」と答えようとした瞬間、別の方向から甲高い笑い声が割って入った。
「アハハハッ! いいじゃない、お兄様! 私、そういう命知らずな馬鹿、嫌いじゃないわ!」
見れば、廊下の奥の襖に寄りかかるようにして、一人の 蠱惑的(こわくてき) な女性が立っていた。
真紅のチャイナドレスを身に纏い、長い脚をこれ見よがしに露出させている。
手にした細い 煙管(きせる) から、紫色の甘ったるい煙を吐き出していた。
「 麗奈(れいな) ……。首を突っ込むな」
龍牙が忌々しそうに舌打ちをする。
柊家長女、麗奈。彼女の周囲だけ、空気がねっとりとした毒を帯びているように感じられた。
俺の【毒耐性】が微かに反応している。
強力な毒物使いか、あるいは魅了系の魔法の使い手だろう。
「あら、ご挨拶ね。まどか、見違えたわよ。いつもオドオドしていた 妾(めかけ) の子が、ずいぶんと凶暴な野良犬を拾ってきたじゃない。……ねえ、あとでそのオジサン、私に貸してくれない? 新しい『実験体』を探していたのよ」
麗奈が赤い唇を舐めずりながら俺を見る。
「姉さん、そのへんにしとけ。親父が待ってるぜ」
さらに、部屋の奥から野太い声が響いた。
のっそりと姿を現したのは、身長二メートルはあろうかという巨漢だった。
顔の半分を覆う痛々しい火傷の痕、そして岩のように隆起した筋肉。身に纏っているのは、ミスリル製の重装甲だ。
柊家次男、 猛(たける) だ。
装備から見るに、物理戦闘に特化した脳筋タイプだ。
(マスター! あの大男、マスターの次にいい筋肉してますよ! 殴り甲斐がありそうです!)
猛は俺をじろりと一瞥したが、すぐに興味を失ったように鼻を鳴らした。
強者の気配を察知する野生の勘は持っているようだが、俺が完全に闘気を遮断しているため、ただの雑魚だと判断したらしい。
「……フンッ、なんだ、ただの雑魚か。まどかの護衛と聞いて期待したが、つまらん」
そして、猛の後ろにはもう一人。
フリルのついた黒いゴシックロリータ風のドレスを着た、まだ中学生ほどの少女がいた。
柊家次女、 瑠夏(ルカ) 。
彼女は自分の身の丈ほどもある巨大なウサギのぬいぐるみを抱きしめながら、焦点の定まらない虚ろな瞳で、ただじっと俺を見つめていた。
「……お兄ちゃん、燃えてる。……真っ赤な炎で、いっぱい燃えてる……。ウフフ……」
意味深な言葉を呟きながら、不気味に微笑む凛。
どうやら、魔法的な「視る」力に長けているらしい。
Bランクの『紅蓮核』の残り香を感じ取っているのだろう。
腹黒い長男、毒婦の長女、脳筋の次男、狂気の次女。
なるほど、まどかが「誰一人として信用できない」と言っていた意味がよくわかる。ここはまさに、人間という皮を被った魔物たちの巣窟だ。
ゴォォォォン……。
やがて、屋敷の奥深くから、重々しい 銅鑼(どら) の音が響き渡った。
会合の始まりを告げる合図だ。
「……時間だ。行くぞ。まどか、せいぜい父上を失望させないことだな」
龍牙が冷たく言い放ち、踵を返して大広間へと向かう。麗奈、猛、凛の三人もそれに続いた。
「……結城誠、準備はいい?」
「ああ。いつでも行ける」
まどかの問いに、俺は短く答えた。
裏社会の頂点に君臨する『黒犬』のボス。
そして、この 蛇蝎(だかつ) のごとき兄弟たちの前で、俺が持ち帰った品を見せつける時が来た。
俺は、新品のジャージのポケットに手を突っ込んだまま、静かに会合の場へと足を踏み入れた。