作品タイトル不明
特訓3
月明かりすら届かない『 疾風狼(ゲイル・ウルフ) の峡谷』の最深部。
二百体を超える巨大な狼の群れを前にして、俺は一切の躊躇なくその中心へと突っ込んでいった。
『マスター! 右舷より五体、同時跳躍! 続く後方から風の 刃(ウィンド・カッター) が七発来ます!』
「おう、分かってるッ!」
トラ子の切羽詰まったナビゲートが脳内に響き渡る。
俺は地面をスライディングで滑り抜け、頭上を通り過ぎる五体の疾風狼の腹部を下から連続で蹴り上げた。
そしてそのまま滑りながら背後の岩壁を蹴って宙へ跳ぶ。
直後、俺がいた空間を七発の不可視の刃が交差し、岩盤を豆腐のように切り刻んだ。
『強奪成功! さらに5%のステータスを一時奪取! 』
エク子の声を聞きながら、俺は空中で体勢を立て直し、岩壁に張り付いていた疾風狼の顔面を思い切り踏み砕いた。
「ハァッ……シィッ!」
群れの真ん中で、俺はただひたすらに踊り続けた。
一発殴れば1%のステータスを奪える。
だが、この【存在強奪】のバフは一時間で完全に消滅する。
群れと群れの間の移動時間を考えれば、常にギリギリの戦いだ。
ステータスが元に戻ってしまえば、この圧倒的な数の暴力と速度の前に、俺の身体は一瞬でミンチにされることは不可避だ。
だから、殴り続けるしかない。
動き続けるしかない。
「グルルルゥゥッ!」
「オラァッ! 次ッ!」
バキィッ! ドガァッ!
右拳が狼の牙を砕き、左肘が別の狼の頭蓋を陥没させる。
俺の身体は、奪ったステータスによってすでに限界を超えた速度で駆動していた。
視界は極度に研ぎ澄まされ、狼たちの動きがコマ送りのように見える。
『対象の討伐を確認!能力値の0.01%UPです』
0.01%、それは微小な数値だ。
だが、それが百、千と積み重なっていくことで、俺の肉体は確実に『底上げ』されていく。
――それから、どれほどの時間が経っただろうか。
「ゼェッ……ハァッ……!」
峡谷の風は、いつの間にか生臭い血の匂いだけを運ぶようになっていた。
俺の周囲には、すでに原型をとどめていない疾風狼の死骸が、文字通り山のように積み上がっていた。
『マスター、現在の連続討伐数、三千八百を突破。
……しかし、マスターの脳波に著しい疲労のサインが見られます』
トラ子の声が、遠くで聞こえるような気がした。
無理もない。俺はダンジョンに入ってから、すでに二十時間以上、一睡もせずに戦い続けているのだ。
肉体の疲労は、奪ったステータスで誤魔化せる。
だが、『完全回避』を維持するための極限の集中力は、確実に俺の脳を焼き切ろうとしていた。
「ハァッ……まだだ。まだ、やれる……」
霞む視界を無理やり見開き、血の滴る拳を構える。
『マスター、もう休んでください! タイムリミットなんてどうでもいいですから!
一度安全地帯に引いて寝ないと、本当に死んじゃいます!』
エク子が泣きそうな声で訴えかけてくる。
『エク子先輩の言う通りです。現在のマスターの反応速度は、ピーク時から0.4秒低下しています。このままでは、次の攻撃を――』
トラ子の警告が響いた、その瞬間だった。
「――ガウッ!」
死骸の山の中から、死んだふりをしていた一回り巨大な個体――群れのリーダー格の疾風狼が、俺の死角を突いて飛び出してきた。
(しまった……!)
脳が「避けろ」と命令を下すより早く、鋭い銀色の爪が、俺の眼球めがけて迫り来る。
反応が遅れた。
極度の疲労が、ほんの一瞬だけ、俺の身体を硬直させたのだ。
『マスターッ!!』
爪が顔面に届く寸前。
時間が、ゆっくりと引き伸ばされていくような感覚に陥った。
(……ここで一発でも食らえば、暗黒龍には勝てない。俺は……あの【嫉妬】の男に、また無様に負けるのか?)
天道茜の、助けを求めるような顔が脳裏にフラッシュバックした。
まどかのために理不尽な取引を受けた麗奈の、挑発的な笑みが浮かんだ。
そして、託してくれた仲間の顔が。
『――ふん。ここで死ぬようなら、その程度の器じゃったということじゃ』
グリ子の、突き放すような、けれど確かな期待を込めた冷たい声が響いた。
「……ふざ、けるなッ!!」
俺は、限界を迎えていた脳髄に、無理やりアドレナリンをぶち込んだ。
硬直した身体を、筋肉の繊維を引きちぎるような力業で強引に捻り上げる。
――チッ。
鋭い爪が、俺の鼻先数ミリを掠めて空を切った。
ジャージの襟元が切り裂かれたが、肌には傷一つ付いていない。
「オオオオオオッ!!」
俺は回避の反動をそのまま利用し、前のめりに倒れ込みながら、リーダー狼の無防備な腹部へ向けて、渾身の右アッパーを突き上げた。
ドゴォォォォォォォンッ!!
重低音と共に、群れのリーダーの巨体が、くの字に折れ曲がって遥か上空へと吹き飛んだ。
そして、数十メートル先の岩壁に激突し、二度と動かなくなった。
『……対象の討伐を確認。』
トラ子が、微かに震える声で告げる。
『群れの全滅を確認しました。……マスター、お見事です』
『よ、よかったぁぁぁ……! マスターぁぁ……!』
エク子が安堵のあまり号泣しているのが分かった。
「ハハッ……ハァッ……」
俺はそのまま、血だまりの地面に仰向けに倒れ込んだ。
全身の筋肉が痙攣し、指一本動かす気力すら残っていない。完全なオーバーヒートだ。
『……ふん。ギリギリじゃったな、マスターよ』
グリ子が、どこか満足げな声で脳内に語りかけてきた。
『あの土壇場で、己の肉体を壊してまで回避を優先するとは。……呆れた執念じゃ。だが、それでこそ強欲の宿主。よくぞ耐え抜いた』
「へへっ……お褒めに預かり、光栄だね……」
俺は荒い息を吐きながら、空に浮かぶ仮想のステータス画面を見上げた。
『討伐総数、八千九百十三体。……マスターの基礎ステータスが、入山時からさらに【89.1%】上昇しました』
「すげえ……。これで、最初の頃と比べたら、基礎ステータスが倍以上になってるぞ……」
俺は震える手を持ち上げ、力強く握りしめた。
魔法もスキルも使えない。ただ殴り、避けるだけ。
だが、この地道で狂気的な0.01%の積み重ねが、俺の肉体を確実に『龍殺し』の領域へと近づけていた。
「……よし。休憩は六時間だ。エク子、トラ子、時間になったら叩き起こしてくれ」
『了解しました。ゆっくり休んでください、マスター』
『おやすみなさい、マスター。ドロップアイテムの回収は私に任せてくださいね!』
俺は泥と血に塗れた峡谷の底で、気絶するように眠りに落ちた。
――そして、三日後。
疾風狼の峡谷に生息するすべての魔物を狩り尽くし、基礎ステータスを特訓前の『約三倍』にまで跳ね上げた俺は、このダンジョンの最終試練――B+ランクのエリアボスが潜む、最深部の巨大な扉の前に立っていた。
「さあ、仕上げの時間だ」
完全回避と存在強奪。
この狂気の特訓の成果を、俺は力強く扉を開け放って、その身で証明しに向かった。