作品タイトル不明
特訓2
エク子の見せた奇妙な動揺と、失われた能力への疑念。
それは確かに俺の胸の奥底に小さな引っかかりを残したが、今はそれにかまけている余裕はなかった。
俺の最優先事項は、Sランクのエリアボスである暗黒龍を倒せるだけの『絶対的な基礎力』と『完全回避の技術』を身につけることだ。
俺はスマホでギルドの探索者専用アプリを開き、次なる狩場を物色した。
「よし、次はここにするか」
俺が選んだのは、関東でも有数の難所として知られるB+ランクダンジョン――『 疾風狼(ゲイル・ウルフ) の峡谷』だ。
このダンジョンの特徴は、魔物の『圧倒的な素早さ』と『群れによる多角的な連携攻撃』。一発一発の威力もさることながら、とにかく四方八方から目にも留まらぬ速さで牙と爪が飛んでくる。
一発でも被弾すれば死が確定する暗黒龍戦を見据えた『完全回避』の特訓において、これ以上ないほど最適な相手だった。
◆
深夜の『疾風狼の峡谷』。
切り立った崖と強風が吹き荒れる荒涼とした岩場で、俺はジャージ姿のまま、深く息を吸い込んだ。
「グルルルルッ……!」
暗闇の中から、青白い毛並みを持った巨大な狼たちが、低い唸り声を上げながら次々と姿を現す。
その数、ざっと五十。
ギルドのセオリーであれば、重装の 盾役(タンク) がヘイトを集め、魔法使いが一網打尽にするのが定石だ。
だが、俺は一人で、しかも防具すらない軽装のまま、群れの中央へと歩み出た。
「今日のルールは一つだけだ。――『かすり傷一つでも負えば、その時点でゲームオーバー(俺の死)』」
俺がそう宣言すると、トラ子が眼鏡をクイッと押し上げた。
『了解しました、マスター。これより、敵対性エネミーの全攻撃ベクトルの演算と、最適回避ルートのナビゲートを開始します。
……死なないでくださいね』
『タイムキーパー・エク子、準備OKです! 1%バフの残り時間、秒単位で叫びますからね!』
『ふん、せいぜい無様に踊ってみせよ。
一発でも被弾したら、わらわが腹の底から笑ってやるわ』
三者三様の声援(?)を受けながら、俺は構えをとった。
「ワォォォォォンッ!!」
先頭の一匹が遠吠えを上げたのを合図に、疾風狼たちが一斉に地面を蹴った。
速い。キラーアントの比ではない。まさに疾風の如き速度で、俺の前後左右、そして頭上から同時に襲い掛かってくる。
『マスター! 右前方から二体、噛みつき! 同時に背後から一体、 真空刃(ウィンド・カッター) !』
「シィッ!」
俺はトラ子のナビゲートに従い、極限まで姿勢を低くして右前方からの牙をミリ単位で躱す。
同時に、背後から飛んできた不可視の風の刃を、身を捻ることで背中スレスレで回避した。
ジャージの裾が風圧でバサリと音を立てる。
「まずは一発!」
回避の勢いをそのまま反転させ、すれ違いざまに疾風狼の胴体へ、重い右フックを叩き込んだ。
ドォォォンッ!
『強奪成功! 敵のステータス1%を一時奪取! 制限時間一時間、カウント開始!』
エク子の声が響く。
拳から流れ込んでくる明確な力の感覚。
たった1%だが、引き上げられた俺の基礎値に上乗せされたその力は、俺の身体をさらに軽く、鋭くさせていく。
「まだまだァッ!」
俺は止まらない。
着地と同時に地面を蹴り爆ぜ、次々と襲い来る狼の群れの中を、まるで水の中を泳ぐように滑らかに駆け抜けていく。
『左へロール! 次、上空から急降下攻撃!』
「フッ!」
『強奪成功! 累計2%!』
殴るたびに、俺の速度が上がっていく。
殴るたびに、敵の動きがスローモーションのように遅く感じられ始める。
(これが……グリ子の【存在強奪】の真価!)
今までスキル頼りで戦っていた時には気づかなかった。
この能力は、単なるステータス泥棒ではない。
完全回避という極限の集中力と組み合わせることで、戦闘のテンポそのものを自分の支配下に置くことができる『スノーボール(雪だるま式)の戦術』なのだ。
「ハァァァァッ!!」
俺は宙を舞う疾風狼の顔面に回し蹴りを叩き込み、着地狩りを狙ってきた三体の狼を、連続の裏拳と掌底でまとめて粉砕した。
『累計15%! マスター、動きが完全に最適化されています!』
トラ子の声に微かな興奮が混じる。
最初は紙一重だった回避が、今では数センチの余裕を持って躱せるようになっていた。
奪った力が、俺の動体視力と神経伝達速度を極限まで引き上げているのだ。
「グルァッ!?」
疾風狼たちが、俺の異常な動きに混乱し、恐怖を覚え始めているのが分かる。
だが、俺は歩みを止めない。
暗黒龍は絶対に恐怖などしない。一瞬の油断が命取りになる。
バキィッ! ドガァッ!
峡谷に、魔物の断末魔と肉が弾ける音が連続して響き渡る。
一時間というバフの制限時間を最大限に活かすため、俺は群れを殲滅すると、一息つく間もなく次の群れを探して峡谷のさらに奥へと疾走した。
『マスター、現在のバフ残り時間、あと五分です! 新しい群れを見つけて一発入れないと、ステータスが元に戻っちゃいます!』
「分かってる! 索敵急げ、トラ子!」
『前方三百メートル、さらに巨大な群れを検知! ――数は、約二百!』
「上等だ。全部まとめて、俺の 基礎値(エサ) にしてやる!」
俺は血に塗れた拳を固く握り直し、月明かりの届かないダンジョンの深淵へと飛び込んでいった。
一発も食らわず、ただひたすらに殴り、殺し、奪い続ける。
0.01%の塵をかき集めるための、血塗られた舞踏。
俺の肉体と精神は、この極限の特訓の中で、確実に『龍殺し』のための鋭利な刃へと研ぎ澄まされていくのだった。