作品タイトル不明
強くなる覚悟
左京玄弥との死闘から一夜が明けた。
柊本家での大混乱の後、俺は数時間の仮眠をとったものの、精神的な疲労は完全には抜けていなかった。
実家のアパートの自室で、俺はベッドの上に寝転がりながら、昨夜の麗奈との会話を思い出してため息をついた。
「無条件で、お願いを一つだけ聞く、か……」
まどかを救うために結ばれていた、俺の知らない約束、その代償を、俺は今日、支払わなければならない。
時計の針が午前十時を回った頃、アパートの前に、静かに、しかし圧倒的な存在感を放つ漆黒の最高級外車が停車した。ブォン、と低く響くエンジン音が、約束の時間が来たことを告げていた。
「……よし、行くか」
俺は適当なシャツにジャージを羽織り、部屋を出た。アパートの階段を下りると、後部座席の窓がスルスルと下がり、中から紫色の甘ったるい煙がふわりと漏れ出てきた。
「ごきげんよう、誠くん。時間ぴったりね。さあ、乗って?」
真紅のタイトなノースリーブワンピースに身を包んだ麗奈が、妖艶な笑みを浮かべて俺を手招きしていた。
俺は緊張で喉を鳴らしながら、促されるままにふかふかの革張りシートへと腰掛けた。
「あの、麗奈さん。早速ですが、昨夜言っていた『お願い』の話なんですけど――」
単刀直入に用件を切り出そうとした俺の唇の前に、麗奈はすっと細い人差し指を突き立てた。
「しーっ。焦らないで、誠くん。
あんな血生臭い庭園の後だし、こんな狭い車内で本題を話すのも風情がないでしょう? ……とりあえず、お買い物にでも行きましょう。私の荷物持ち、やってくれるかしら?」
「……は?」
俺の返事を聞く前に、車は滑らかに発進した。
こうして、俺の人生で最も刺激が強く、そして胃が痛くなるような「お買い物デート」が幕を開けたのだった。
◆
連れてこられたのは、銀座の一等地にある、一般人は立ち入ることすら躊躇うような高級デパートの特設フロアだった。
麗奈は、まるでおもちゃ箱をひっくり返した子供のように、次から次へとブランド物のバッグや靴、ドレスを指差しては、俺に「これどうかしら?」と聞いてくる。
「え、ええ。良いんじゃないでしょうか……」
「もう、さっきからそればかり。まどかの時も思ったけれど、あなたって本当に女の子の扱いに慣れていないのね」
麗奈はクスクスと楽しげに笑いながら、数十万円もする服を迷いなくカードで買い漁っていく。俺はその後ろを、山のような紙袋を両手に抱えてついていくしかなかった。
現実世界では平穏を装っている俺だったが、その脳内――心象世界では、三人の少女たちによる喧騒が最高潮に達していた。
『わ、わわわ! なんじゃこの女は! 強欲を司るわらわの目の前で、とんでもない値段の布地を平然と買い漁りおる! これぞ真の強欲ではないか!』
グリ子が狐の尾をピンと逆立て、モニター(俺の視界)の向こうの麗奈を指差して驚愕していた。
『マスター! 完全に尻に敷かれてますね! まるで女王様と奴隷です! 葵ちゃんとしずくちゃんが見たら泣いちゃいますよぉ!』
『静かにしてください、エク子氏。グリ子氏も。……マスター、丽奈氏の行動特性を解析しました。彼女は単に物欲を満たしているだけでなく、マスターの忍耐力と、周囲への警戒度を測っています。
現在、マスターの精神的ストレス値は通常の1.5倍に上昇。深呼吸を推奨します』
トラ子が冷静にグラフを提示してくるが、この状況でリラックスしろと言う方が無理だった。
(頼むからみんな静かにしてくれ……。ただでさえ、麗奈さんの放つプレッシャーで胃に穴が空きそうなのに……)
麗奈はただ買い物を楽しんでいるように見えて、その一挙手一投足には、裏社会を統べる柊家の人間としての、隙のない『気』が満ちていた。俺が少しでも隙を見せれば、その瞬間に心の奥底まで見透かされそうな、そんな恐ろしさがあった。
◆
夜。
都内の一等地にある高層ビルの最上階。夜景が一望できる、完全予約制の高級フレンチレストランの個室に、俺たちはいた。
ガラス越しに見下ろす新宿のネオンは、まるで宝石を散りばめたように美しかったが、目の前に並ぶ一皿数万円の料理の味は、緊張のせいでほとんど分からなかった。
「お買い物、付き合ってくれてありがとう。楽しかったわ」
麗奈は上品にワイングラスを傾け、白魚のような指先で煙管を持ち直した。個室に、またあの甘い煙が満ちていく。
「……そろそろ、教えてください。麗奈さんのお願いって、一体何なんです。俺に何をしてほしいんですか」
俺が居住まいを正して尋ねると、麗奈は煙をフゥーっと天井へ向けて吐き出し、その切れ長の瞳を妖しく光らせた。
「ウフフ、いいわよ。それじゃあ、本題に入りましょうか。……誠くん、あなたに、ある『アイテム』を取ってきてほしいの」
「アイテム?」
「ええ。――【暗黒龍の逆鱗】」
その名を聞いた瞬間、俺の背筋に冷たいものが走った。
暗黒龍。
冒険者ギルドのデータベースで、一度だけその名を見たことがある。
「暗黒龍って……京都にある国立特級ダンジョンの、最深部に君臨するエリアボス……『Sランクモンスター』じゃないですか」
「あら、よく知っているじゃない。流石は元ギルド事務員ね」
麗奈はあっけらかんと言い放った。
Sランクモンスター。それは、存在そのものが国家の存亡に関わるレベルの『天災』だ。
本来、そんな化け物を討伐するためには、ギルドが誇る最高峰のSランクパーティーを何組も、それこそ数十人規模の超精鋭部隊を編成し、数ヶ月に及ぶ徹底的なシミュレーションと準備を重ねてようやく挑むような領域の戦いである。
「急いではいないけれど、必ず取ってきてほしいの。あの逆鱗があれば、私の新しい『毒』の精製が完成するのよねぇ」
麗奈は楽しそうに首を傾げ、机に肘をついて、俺の顔をじっと覗き込んできた。
「本来なら、人が何十人も死ぬような無謀な依頼よ。……でも、昨夜のあなたの戦いを見て確信したわ。――あなたなら、きっと一人で出来るわよね?」
挑発気味に、試すような視線が俺を射抜く。
ここで「無理だ」と断ることは、まどかの契約違反を意味する。それに――。
(……暗黒龍。今の俺の、むき出しのステータスだけで勝てる相手じゃない。だが……)
俺は、自身の拳を見つめた。
グリ子から授かった、新しき【存在強奪】の力。そして、これから行うであろう特訓。
時間はかかる。相応の準備と死線を超える覚悟が必要だ。
だが……『絶対に不可能か』と問われれば、俺の直感は、否と答えていた。
「……分かりました。近々、京都へ行って、その逆鱗を取ってきます」
「ウフフ、嬉しいわ。期待しているわね、誠くん?」
麗奈は満足そうに微笑み、俺たちの夜の取引は成立した。
◆
その夜、自宅に戻った俺は、ベッドの上に胡坐をかき、即座に意識を心象世界へと沈めた。
真っ白な空間に、エク子、トラ子、そしてグリ子の三人が集まっていた。
「……というわけだ。今度は京都のダンジョンに潜る。狙うは、Sランクボス・暗黒龍だ」
俺がそう告げた瞬間、トラ子がこれまでにないほど血相を変えて前に飛び出してきた。
『猛反対します! マスター、それはあまりにも無謀です! 即刻キャンセルすべきです!』
トラ子は眼鏡を激しく押し上げながら、ホログラムのウィンドウを何枚も展開した。
『暗黒龍の戦闘データを照会しました。ブレス一発の破壊力は、昨夜の左京玄弥の最大攻撃力の約八倍。
さらに、周囲に常時展開される暗黒の波動は、接近するだけで肉体を腐食させます。グリ子氏から与えられた【存在強奪】の条件は『拳の接触』です。
あのバケモノに生身で近づき、攻撃を一発も食らわずに百発以上殴り続けるなど、確率論的に100%自殺行為です!』
「トラ子の言う通りだよ、マスター! さすがにSランクのエリアボスは早すぎるって! まだ他の大罪の奴らの情報も集まってないのに!」
珍しくエク子までが顔を蒼白にして俺を止める。
二人の必死の制止を聞きながら、俺はふと、後ろで静かに尻尾を揺らしているグリ子へと視線を向けた。
「グリ子。お前はどう思う?」
グリ子は金色の瞳を細め、俺とトラ子を交互に見た後、ふんっと鼻を鳴らした。
「ふん。何を弱気になっておる、天使どもめ。
……マスターよ、わらわのスキル【存在強奪】を完全に使いこなせば、あのトカゲ風情を屠ることなど、決して『不可能』ではないぞ」
『グリ子氏! 貴方はマスターを死なせる気ですか!?』
「黙れ、トラ子。わらわとて宿主が死んでは困る。じゃからこそ、本当のことを言っておるのじゃ。今使えるスキルは、相手がどれほど強大であろうと、殴れば確実に1%の力を我が物とする。つまり、理論上はどんな神仏が相手であっても、耐え凌いで殴り続ければ必ず逆転できる『無敵の法』じゃ…しかし」
グリ子は宙に浮かび上がり、俺の目の前まで来ると、その小さな顔を真面目なものへと変えた。
「じゃがな、マスター。トラ子の言う通り、今のまま突っ込めば一瞬で塵になるのもまた事実。
……あのトカゲの鱗を剥ぎ取るためには、相応の『時間』と、それこそ血を吐き、骨を砕くような、地獄の『 努力(とっくん) 』が必要じゃぞ。お主に、その覚悟はあるか?」
グリ子の言葉が重く響く。
血を吐くような努力、そして死線を超える特訓。
俺は、茜を連れ去ったあの【嫉妬】の男の冷たい目を思い出した。あいつらに追いつき、全てを取り戻すためには、ここで立ち止まっている暇なんてない。Sランクボスが壁になるというなら、その壁ごとぶち破って強くなるだけだ。
「……ああ。望むところだ」
俺は不敵に笑い、拳を固く握りしめた。
「どれだけ過酷な特訓だろうが、耐えてみせる。
このままじゃダメなんだ。
グリ子、トラ子、エク子。……俺を、あの暗黒龍を殴り倒せるくらいに、鍛え上げてくれ」
俺の揺るぎない覚悟を前にして、トラ子は小さくため息をつき、エク子はどこか嬉しそうに笑った。
『……分かりました。マスターがそこまで言うのであれば、私は力の限りを尽くし、最も効率的かつ地獄のような特訓メニューを構築します』
『私も、マスターが限界突破できるように全力で応援しちゃいますからね!』
「うむ、良い面構えじゃ、マスター。それでは早速、地獄の門を開くとしようかのう!」
グリ子がニシシと八重歯を覗かせて笑う。
迫り来る国家災厄級の戦いに向けた特訓が、今ここに始まった。