軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

天使と悪魔

深夜。

ボロアパートの四畳半に帰り着いた俺は、泥のように重い身体を引きずって、そのままベッドの上に倒れ込んだ。

『マスター! お帰りなさい! 無事に生還できて本当によかったです!』

『脈拍、体温、共に正常値への復帰を確認。

マスター、本日は極めて過酷なミッション、本当にお疲れ様でした』

脳内で、エク子とトラ子が労いの言葉をかけてくれる。

本来なら「勝ったぞ」と胸を張りたいところだが、俺の心は重く沈んでいた。

「……はぁ。ごめんな、二人とも。せっかく左京を追い詰めたのに、結局、嫉妬の男のことも、NULLのことも、何一つ情報を得られなかった」

天井の木目を見つめながら、俺は自嘲気味に呟いた。

茜を助け出すための手がかりが、俺の目の前で灰になって消えてしまったのだ。

『マスター……』

『大丈夫ですよ、マスター!』

エク子が、いつも通りの底抜けに明るい声で励ましてくれる。

『敵を倒したんですから、絶対にNULLの方から何かしらのアクションを起こしてきますよ!

何とかなりますって! 私たちが全力でサポートしますから!』

『エク子氏の言う通りです。失われた情報を悔やむより、次の一手に備えるのが最も合理的です。

……今日は精神的にも肉体的にも限界を超えています。疲れたでしょうし、早めに寝ましょう、マスター』

「……そうだな。ありがとう、二人とも。おやすみ……」

トラ子の優しい声に促されるように、俺の意識は急速に深い眠りの底へと沈んでいった。

――そして、俺が眠りについた後の、心象世界。

真っ白な無限の空間に、サポートシステムである二人の少女――私服姿のエク子と、銀縁メガネにスーツ姿のトラ子が立っていた。

そして彼女たちの目の前には、なぜか、先ほど結城誠にスキルを貸し与えた狐っ娘の少女――【強欲】のグリ子が、ふわりと宙に浮いていた。

「むっ……なぜ、あなたがここにいるんですか?」

エク子が、普段の明るい口調を完全に消し去った、冷たく警戒心に満ちた声でグリ子に問いかけた。

「ほう、ここでは初めまして、かのう。

……【勤勉】、そして【慈善】を司る者よ」

グリ子が、金色の瞳を細めてニヤリと笑う。

その言葉を聞いた瞬間、トラ子が信じられないものを見るように目を見開き、一歩前に出た。

「こんな状況、本来ならあり得ないことですが……」

トラ子が、眼鏡を押し上げながら、震える声で告げる。

「精神領域において、私たち美徳が発現し、明確な『自我』を持って顕在化した上で……大罪の意志である貴方(悪魔)が顕在化し、共存することなど、絶対にあり得ません」

それは美徳と大罪、相反する二つの概念。

「スキルが発現し、意志が顕在化した時点で、器(宿主)の容量を奪い合い、必ずどちらかが消滅するはずです。

なぜ、私たちは同じ空間に存在できているのですか?」

トラ子の鋭い問いかけに対し、グリ子は自身の大きな尻尾をパタパタと揺らしながら、首を傾げた。

「わらわも、それについてはさっぱり分からんのじゃ。

何故、相容れぬ『 天使(おまえたち) 』と『 悪魔(わらわ) 』が、同じ空間で平然と共存しておるのか。

……あの無欲な宿主、こやつ一体、何者なんじゃ?」

グリ子の疑問に、エク子も首を横に振った。

「……それは、私たちにも分かりません。

ですが、私たちがこうして事実として共存している以上、マスターの『器』には、何か特別な秘密があるのかもしれません」

エク子の言葉に、三人の間にしばしの沈黙が降りた。

美徳と大罪を同時に内包し、それでもなお自我を保っている結城誠というイレギュラーな存在。

「まあ、深く考えてもすぐには答えは出んじゃろうな」

グリ子がポンッと手を叩き、重苦しい空気を打ち破った。

「それよりもじゃ。お前達も、あの宿主に随分と変な名前を付けられておるのう。『エク子』と『トラ子』か。

……あやつのネーミングセンスはどうなっておるのじゃ? 酷すぎるじゃろう」

グリ子が呆れたようにため息をつくと、トラ子が「それは……激しく同意します」と、心底共感したように頷いた。

「トラ子……。安直にも程があります」

「あはは……」

エク子は苦笑いして頬を掻いた。

(私の場合、元々システムから顕在化した時点で『エク子』って決まってたからあまり強くは言えないんだけどな……)と思いつつ。

「で、でも! なんだかんだで気に入ってるよね、トラ子ちゃん?」

「……それは、まあ。……慣れましたけどね。マスターからの呼び名であることに、不満はありません」

トラ子が少し頬を染めて顔を逸らす。

その様子を見たグリ子が「ふんっ」と鼻を鳴らした。

「ここに一緒にいる以上、いがみ合っても仕方ない。仲良くするしかないのう」

「そうですね。マスターの生存という共通目的がある以上、敵対は非効率的です」

「それじゃあ、よろしくね! グリ子ちゃん!」

エク子が満面の笑みでグリ子に手を差し出すと、グリ子は「ぐ、ぐりこちゃん……」と引きつった顔をしながらも、恐る恐るその手を握り返した。

「そ、そうじゃな……よろしく頼むぞ」

それは天使と悪魔が握手を交わすという、奇妙な光景だった。

だが、グリ子はすぐに表情を引き締め、真剣な声色に変わった。

「……それで、お前達に聞きたいことがある。

あやつ……『セプテム』達が、表で動いておるのか?」

セプテム。

その名を聞いた瞬間、エク子とトラ子の表情も険しくなった。

「……詳しい動向は、私たちにも分かりません」

トラ子が答える。

「しかし、現在、大罪スキルを意図的に集めようとしている【NULL】という組織が存在していることは確かです。

もし彼らが暗躍しているのだとすれば、その裏にセプテムがいる可能性は極めて高いかと」

「……それは、真か?」

グリ子の金色の瞳が、恐怖と焦燥に揺れた。

「もし、セプテムがわらわ以外の『大罪スキル』を全て手中に収めようとしておるとしたら……この世界は、バランスを崩して完全に崩壊してしまうではないか。

……もしかして、今の宿主は……いや、今は考えるのはやめるかのう」

グリ子は何か秘密に気づきかけたようだったが、首を振って思考を打ち切った。

「どちらにしても、マスターはマスターです。

どんな運命があろうと、私たちが守ります。だから、仲良くしましょうね、グリ子ちゃん!」

エク子が、場の空気を明るくしようと元気に宣言した。

「それに、私がこの世界では一番の『先輩』なんですからね! ちゃんと私のことは敬ってくださいね!」

先輩風を吹かせて胸を張るエク子に、グリ子は「むっ」と不満げな顔をした。

「む、不本意じゃが……後から来たのはわらわの方じゃ。

仕方ない、よろしくな、エク子、トラ子」

「はい、よろしくお願いします」

かくして、奇妙な同盟が結ばれた。

ふと、グリ子は再び真面目な顔になり、ポツリと呟いた。

「……それにしても、今の宿主……」

「マスターです。マスターと呼んでください、グリ子ちゃん」

「わ、わかった。……今のマスターじゃな」

グリ子は言い直させられながらも、深くため息をついた。

「それで、マスターは、なぜあんなにも『弱い』のじゃ?

基礎の力と耐久力は異常なまでに高いが、それ以外がスッカラカンではないか。

……これでは、これから来る【NULL】の脅威や、他の大罪持ちに立ち向かうことすらできんじゃろう」

「……それは確かに、そうですね」

トラ子も同意するように眼鏡を押し上げる。

「マスターの現在の戦闘スタイルは、己の異常なステータスによる肉弾戦に極端に依存しています。

もし、物理攻撃を無効化する敵や、広範囲の魔法攻撃を仕掛けてくる敵が現れれば、対応できずに敗北する確率は極めて高いです」

「うーん……これは、特訓が必要だね!」

エク子が腕を組んで頷いた。

「いや、そうなのじゃが……」

グリ子が呆れたように言う。

「所謂、普通の人間が使うような魔法すら使えんとは。

ステータスを見たが、あやつ、魔力の適性が完全に欠落しておる。

こんなステータスでは、敵へ飛び込んで無策でやられるだけではないか」

「そこは、何か世界のシステム側からの『制約』があるようです。

……私たちにも、詳しくは分からないのですが……」

トラ子が悔しそうに俯く。

結城誠という男は、強大な美徳と大罪をその身に宿しながらも、自身で魔法を発動する能力をシステム側から徹底的にロックされているような節があった。

「まあ、よい」

グリ子は立ち上がり、自らの大きな狐の尾を誇らしげに揺らした。

「他の悪魔……大罪スキルを持つ者を倒すにしても、あるいは引き入れるにしても、マスター自身が強くなくてはいかん。

これからは、わらわも協力して、この世界を守らんといかんからのう」

その言葉に、トラ子が少し驚いたように目を見開いた。

「……貴方たち『悪魔』が、何故こちら側(人間や天使)に肩入れしてくれるのですか?

世界を混沌に陥れるのが、大罪の目的ではないのですか」

トラ子の純粋な疑問に、グリ子はふいっとそっぽを向き、鼻を鳴らした。

「……別に、人間どもを救いたいわけではない。無欲なマスターの影響もあるが……元々、わらわはあの『セプテム』の考えには賛同していなかったし、あやつのやり方が気に入らん。

ただ、それだけじゃ」

ツンデレな態度の裏に隠された、確かな決意。

強欲の妖狐、慈善のエク子、勤勉のトラ子。

三つの強大な意志が、現実世界で眠る一人の不器用な男を守り、鍛え上げるために、密かに手を取り合った夜。

翌日に控えた柊麗奈との「お願い」の約束と、不気味に動き出した怠惰の陰謀。

結城誠の過酷な戦いは、まだ始まったばかりなのかも知れない。