作品タイトル不明
強欲の証明1
真っ白な心象世界。
無限に広がる虚無の空間で、俺――結城誠は、ただひたすらに拳を振るい続けていた。
「ハァッ……! シィッ!」
空気を引き裂きながら、目の前の華奢な少女へと連撃を叩き込む。
右ストレート、左フック、沈み込んでからのアッパーカット。
どれも現実世界であれば、鋼鉄の扉すら紙屑のように粉砕する必殺の一撃だ。
しかし。
「ほれ、右じゃ。次は下かのう? おっと、大振りすぎるぞ宿主」
狐の耳と尾を生やした和装の少女――【強欲】のスキルの意志である妖狐は、まるであくびでもするかのような退屈そうな表情で、俺の拳を数ミリの差で躱し続けていた。
彼女は足を止めたままだ。
上半身の僅かな傾きと、蝶のような優雅なステップだけで、俺の死力を尽くした攻撃を完全に無力化している。
「クソッ、当たれッ!」
「当たらんのう。……ええい、少しは頭を使わんか!」
妖狐がふわりと宙に浮き上がり、俺の右腕の甲を、小さな足でトンッと軽く蹴り下ろした。
たったそれだけ。
だが、その触れるような一撃に込められた『力の流れ』は異常だった。
俺の突進するベクトルが完全に裏返り、巨大なハンマーで上から叩き潰されたかのような凄まじい衝撃が全身を貫く。
「ガ、ハァッ……!?」
俺の身体は真っ白な地面(と呼べるのかも分からない床)に激突し、スーパーボールのように何度もバウンドして、数十メートル後方へと吹き飛ばされた。
「ゴホッ、ゲホッ……っ!」
全身の骨が軋み、肺から空気が根こそぎ絞り出される。
現実世界の肉体がダメージを負っているわけではない。
だが、心象世界での魂への直接的な衝撃は、物理的な痛み以上に俺の精神を激しく削り取っていく。
(……強すぎる。なんだこいつ、これが大罪スキルの本体……!)
格が違った。ステータスの数値など関係ない、世界の裏側で災厄として君臨してきた存在としての経験、センスが、俺とは絶望的なまでに開いている。
「エク子……トラ子……!」
俺は呻きながら、脳内に呼びかけた。
いつもなら、ここでトラ子が敵の動きを解析し、エク子が励ましの声をかけてくれるはずだ。
しかし、返ってくるのは静寂だけ。
二人への通信回線は完全に断たれ、俺はこの絶望的な実力差を持つ妖狐の前に、たった一人で孤軍奮闘しなければならないのだ。
「……まだまだァッ!」
俺は歯を食いしばり、震える足に力を込めて再び立ち上がった。
負けるわけにはいかない。
ここで俺が屈服すれば、現実世界で暴れ狂う左京玄弥を止める手段がなくなり、俺の身体もこいつに乗っ取られてしまう。
「ほう。まだ立つか」
妖狐は、追撃を仕掛けてこなかった。
俺が地面を転がり、血を吐き、無様に立ち上がるまでの間、彼女は金色の瞳を細めて、ただ静かに待っていた。
挑発的な態度は崩さないが、その実、彼女の内心には複雑な計算が渦巻いていたのだ。
(……まったく、手間の掛かる宿主じゃ)
妖狐は、自身の大きな尻尾を揺らしながら、内心で深い溜め息をついた。
彼女とて、俺をここで完全に殺すわけにはいかなかった。
宿主である俺の魂が砕け散れば、現実の肉体も死を迎える。
そうなれば、彼女自身も世界から消滅し、次にいつ、どのような形で復活できるか分からない。
何より、彼女は数百年ぶりの現世を、もう少し長く楽しみたいという未練があった。
(それにしても……この男、基礎の力は異常じゃが、あまりにも『魔力』が空っぽすぎる)
妖狐は俺の魂の奥底を透かし見ながら、呆れ返っていた。
強大な力を行使するための器としては、俺の魔力容量は並以下なのだ。
こんな男の意識を乗っ取ったところで、強欲の真の力を顕現させることなどできず、すぐに自滅してしまうのがオチだった。
(今はこいつを乗っ取っても意味が薄い。
それよりも、こいつ自身を強く育ててから乗っ取っても遅くはないじゃろう)
妖狐はそう判断を下していた。
だが、だからといって、無条件で力を貸すほど彼女は優しくも甘くもなかった。
大罪の一柱としてのプライドがある。
せめて『一割』程度でもいい、この狐の姿をした己を実力で屈服させるか、あるいは驚かせるだけの意地を見せなければ、納得などできるはずがない。
「さあ、どうした宿主。次はどう攻めてくる? 骨のあるところを見せてみよ」
妖狐の言葉に、俺は再び駆け出した。
だが、焦りから動きはさらに直線的になっていた。
「うおおおおッ!」
「……やれやれ。大振りの連続、まるで『どうか避けてください』と言わんばかりの雑な攻撃じゃ。
これでは、わらわが力を使うまでもないわ」
妖狐は、俺の渾身の右フックを身を沈めて躱すと、再び俺の腹部に掌底を当てた。
「ガハッ……!」
ドンッ! という衝撃と共に、俺は再び後方へと吹き飛ばされた。
数回の打ち合い……いや、一方的なあしらいだけで、妖狐は俺の戦闘パターンの全てを把握しきっていた。
「ゼェッ……ハァッ……!」
俺は何度倒されても、その度に立ち上がった。
何回攻撃しても当たらない。
どれだけ拳を振るっても、空を切る絶望感。焦燥感が心を真っ黒に染め上げていく。
それでも、俺は諦めなかった。
妹のため、仲間のため、そして、先ほど消える間際に「私たちを選んでほしい」と悲しげに笑った、エク子とトラ子のために。
「お前なんかに……俺の身体を、渡して、たまるか……ッ!」
「……しぶとい奴じゃな」
何度目かの突撃。
俺は、妖狐の懐に飛び込んだ。
これまでと同じ、直線的な右ストレート。妖狐は微かな欠伸を噛み殺しながら、それを右へ紙一重で躱そうとした。
――その瞬間。
「……シィッ!」
俺は、右ストレートを放ち切る直前で、己の肩の関節を無理やり外すような勢いで軌道をねじ曲げた。
勢いを殺さず、右腕そのものを鞭のようにしならせ、彼女の回避先である右側空間へ向けて、死に物狂いの裏拳を薙ぎ払ったのだ。
「……ほぅ?」
妖狐の金色の瞳が、微かに見開かれた。
予測を外れた、理屈に合わない無茶苦茶な軌道。
ザシュッ!
俺の拳の風圧が、妖狐の頬を掠め、彼女の白い小袖の一部を確かに引き裂いた。
当てた。ほんの僅かだが、初めて俺の攻撃がこのバケモノに届いたのだ。
「やった……ッ!」
俺が歓喜したのも束の間。
「……じゃが、まだまだ甘いわ!」
頬を掠められた妖狐は、楽しげな笑みを浮かべたまま、空中で回転し、狐の尾を大木のようにしならせて俺の胸ぐらに叩きつけた。
「ゴバァッ!!」
これまでの何倍もの強烈な衝撃。
俺は視界を真っ白に点滅させながら、遥か彼方へと吹き飛ばされ、そのまま動けなくなった。
「……まぁ見事じゃ。ほんの少しだけじゃが、わらわの予想を超えてみせたな」
仰向けに倒れ伏す俺の耳に、パチパチと拍手をする音が聞こえてきた。
視界の端で、妖狐がゆっくりとこちらへ歩み寄ってくるのが見える。
「気が変わったぞ、無欲な宿主よ。……特別に、わらわのスキルの一部を使わせてやろう」