軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

妖狐登場

「……え?」

気づけば、俺は真っ白な空間にぽつんと立っていた。

地面も、空も、壁もない。無限に続くかのような、静寂に満ちた純白の世界。

柊本家の庭園も、血まみれの自分の身体も、どこにもなかった。

「ここは……どこだ?」

辺りを見渡しても、何も見当たらない。困惑して声を上げた俺の背後から、聞き慣れた、けれどいつもより少し寂しげな二つの声が響いた。

「ここは心象世界。簡単に言うと、マスターの心の中です」

振り向くと、そこにはエク子とトラ子が並んで立っていた。

ホログラムのような透けた姿ではない。

実物としての確かな存在感を持って、二人は俺を静かに見つめていた。

「エク子、トラ子……。心象世界って、俺はさっきまで左京と戦ってて……」

「分かっています、マスター」

一歩前に出たエク子が、いつもの悪ふざけするようなノリを完全に消し去り、ひどく真剣な、どこか泣き出しそうな瞳で俺を見つめた。

「時間です、マスター。私達は……もうここから出なくてはいけません」

「出なきゃいけないって……どういうことだよ? お前たちは俺のサポートシステムだろ?」

俺の問いに、今度はトラ子が静かに眼鏡の奥の瞳を伏せた。

「マスター。……ですが、ひとつだけ、覚えておいてください。マスターには、選ぶ資格があります」

「選ぶ……?」

「はい」

エク子が、ぎゅっと胸元で両手を握りしめ、消え入りそうな声で言葉を紡いだ。

「“彼女達”を選ぶことも、それは選択肢の一つです。

……ですが、出来れば、“私達”を選んでくれると嬉しいです。

それが……私たちの、たった一つの願いです」

「待てよ! 彼女達って誰だ? 私達を選べって、お前らがいなくなったら俺は――」

俺が手を伸ばした瞬間、二人の身体が、サラサラと白い光の粒子となって崩れ始めた。

「エク子! トラ子!」

「バイバイ、マスター。大好きな、私たちの宿主様――」

優しく微笑んだ二人の姿は、一瞬にして光の中に溶け、完全に消滅してしまった。

静寂だけが残された白い世界で、俺の手は虚しく空を掴む。

「エク子……トラ子……それ、どういう意味だよ……っ!」

叫んでも、答えてくれる相手はもう誰もいなかった。二人が消えた喪失感と、わけのわからない言葉への疑問だけが、俺の胸に重くのしかかる。

「――ふぁあ。やれやれ、随分と湿っぽいお別れじゃな」

不意に、頭上から妙にハキハキとした、けれどどこか幼い声が降ってきた。

「誰だ!?」

俺が弾かれたように振り向くと、そこには、いつの間にか一人の『女の子』がちょこんと宙に浮いていた。

「お主が今回の宿主か。ふむ、随分と冴えない男じゃのう」

年の頃は十二、三歳といったところだろうか。

頭頂部からピンと生えた、柔らかな金色の『狐の耳』。そして、お尻の後ろで機嫌良さそうにゆらゆらと揺れる、大きな一本の『狐の尾』。

白い小袖に赤い袴という、和風な衣装に身を包んだその少女は、どう見てもただの可愛らしい狐っ娘だった。

だが、その瞳の奥にある金色の彩光は、ぞっとするほどの歴史と、底知れない魔力の深淵を物語っていた。

「……お前、何者だ。なぜここにいる。エク子たちはどこに行ったんだ!」

俺が敵意を剥き出しにして問い詰めると、狐っ娘の少女は、退屈そうにふわりと宙で寝返りを打った。

「質問攻めは感心せんなぁ。わらわは、妖狐。

……いや、今の人間どもの言い方に合わせるなら、【強欲】を司る存在、とでも言おうか」

「強欲の……意志……!」

さっき脳内で甘く囁いてきた、あの悍ましい声の主が、この少女だというのか。

「だったら、エク子たちはどこへやった! 二人を戻せ!」

「知ってはいるが、なぜわらわがお主に教える必要がある?

お主はただ、わらわに従えばそれで良いのじゃ。さあ、外ではあの哀れな肉塊が暴れておるぞ?

早くその身体の主導権をわらわに明け渡せ」

妖狐は当然のように言い放った。

「断る。お前の言いなりになんて、絶対になるもんか」

「……いや、なんでじゃ?」

俺が即座に拒絶すると、妖狐は宙でピタリと動きを止め、信じられないものを見るような目で俺を見つめた。

「お主、本当にわけが分からん奴じゃのう。

普通、あれだけの窮地に陥れば、プライドも何もかも捨てて力を乞うものであろう。

……お主は無欲すぎる。

わらわという、世界を揺るがす『強欲』の根源を宿しながら、あまりにも無欲すぎるのじゃ。

……お主、一体何者じゃ?」

妖狐は呆れたように大きなため息をつき、今度は少し調子を変えて、ずる賢そうな笑みを浮かべた。

「まあよい。ならば、とりあえず『お試し』でいいからほれ、どうじゃ?

ほんの少しだけ、わらわに身体を貸してみての? そうすれば、外の雑魚など一瞬で塵にしてやるからの」

「……お試しの後、どうなるかくらい想像がつく。

一度でもお前に主導権を渡せば、二度と俺の意識は戻らないんだろ。

その代償を知っていて、乗るわけがない」

俺の冷徹な言葉に、妖狐は完全に言葉を詰まらせた。

どうやら、これまでの宿主たちは、彼女の甘い言葉に簡単に乗って自滅していったらしい。

俺のような「力を欲しがらない宿主」は、彼女にとっても完全に想定外だったようだ。

「う、うぐぐ……! 頑固な男じゃのう! 融通が利かん!」

妖狐は宙で足をバタバタとさせて少し焦り始めた。外の現実世界では、俺の肉体が今も危機に瀕している。

このまま宿主である俺が死ねば、彼女自身もただでは済まないのだろう。

「わ、わかった! わかったから! ならば、こういうのはどうじゃ?」

妖狐はパッと名案を思いついたように顔を輝かせ、不敵な笑みを浮かべて俺を指差した。

「わらわを倒せたら、その『力』を無償で分け与えてやるからの? どうじゃ、この提案は!」

「……お前を倒したら、無償で?」

俺は半信半疑のまま、鋭い疑いの目で狐っ娘を見つめた。

大罪スキルの意志が、そんな都合のいい条件を提示してくるなど、罠としか思えない。

「……本当か? 後から『やっぱり無し』とか言って、俺の身体を乗っ取るつもりじゃないだろうな」

「うっ……! ほ、本当じゃ! わらわに二言はない! 【強欲】の王たるわらわが、宿主相手に嘘などつくか!」

妖狐は顔を真っ赤にしてフンスと鼻を鳴らした。その様子は、裏社会の権力者たちよりもずっと分かりやすく、どこか憎めない子供のようでもあった。

「……なるほど。お前をぶっ飛ばせば、リスクなしで力が手に入るんだな」

「言っておくが、そう簡単に勝てると思うなよ? たかが人間の分際で……」

「なら、決まりだ」

俺は拳をパキパキと鳴らし、一歩前に踏み出した。

迷いは消えた。

ここでこいつを倒せば、リスクなしで左京玄弥を圧倒する力が手に入り、エク子たちを連れ戻す手がかりも掴めるかもしれない。

「ほう、やる気じゃな。よかろう、お主の身の程を知らせてやる」

妖狐はふわりと砂の上に降り立つと、着物の袖を優雅に払った。

「そうじゃな、お主程度なら……『1割』の出力でよかろう」

少女は小さく笑い、構えをとる。

どう見ても、ただの華奢な狐っ娘の少女だ。

殴れば簡単に吹き飛んでしまいそうな、そんな錯覚さえ覚える。

「手加減できないからな。全力でいくぞ!」

俺は地面を爆発的な勢いで蹴り上げ、一瞬で妖狐の懐へと飛び込んだ。

全ステータスが戻った俺の、全力の右ストレート。空気が悲鳴を上げ、凄まじい衝撃波が彼女の顔面へと迫る。

――だが。

「……え?」

手応えがなかった。

俺の拳は、確かに彼女の顔面を捉えたはずだった。

しかし、そこには虚空があるだけで、妖狐の姿は跡形もなく消えていた。

「遅い、遅いぞ宿主。どこを殴っておるんじゃ?」

背後から、小馬鹿にしたような声が聞こえる。

振り向くと、そこにはいつの間にか移動し、あかんべえをしている妖狐の姿があった。

「クソっ!」

俺はすかさず反転し、怒涛の連続攻撃を仕掛けた。

右フック、左アッパー、回し蹴り。力の限りの超連撃。

だが、その全てが、まるで煙を相手にしているかのように、面白いほど空を切る。

彼女の身体に、俺の拳は微かに掠りもしない。

妖狐は、まるで蝶が舞うかのような軽やかなステップで、俺の必殺の拳を数ミリの差でひらひらと回避し続けていた。

「くははは! 力が入りすぎじゃ、宿主! そんな大振りの攻撃、わらわからすれば『ここに殴りまーす! 避けてください!』と大声で言っておるようなものじゃぞ!」

妖狐はゆらゆらと尾を揺らしながら、クスクスと愉しげに挑発してくる。

「くっ……!」

純粋な『戦い方の格』が違いすぎる。

こうして俺と妖狐による、力を巡る前代未聞の戦いが始まろうとしていた。