作品タイトル不明
圧倒的な力、欲望の甘言
「ガ、アアアアアアアアアアアッ!!!!!」
柊本家の日本庭園に、人間のそれとは思えない悍ましい咆哮が轟いた。
違法魔法薬(ブースト・ドラッグ) を飲み干した左京玄弥の肉体は、見る影もなく変貌していく。
上質なスーツは引き裂かれ、皮膚の下を走る血管が太い大蛇のように黒く浮き出た。
筋肉が異常なまでに肥大化し、その全身から噴き出す紫色の魔力は、もはや濃密な毒霧となって周囲の木々を瞬時に枯らせていく。
理性を完全に喪失し、ただ純粋な破壊の化け物へと成り果てた異形の姿。
その圧倒的なプレッシャーに、俺は思わず一歩後退りした。
『マスター、警戒を! 敵の魔力出力、測定不能! 肉体の限界値を強制的に引き上げたことで、生物としての質量そのものが変質しています!』
『嘘、でしょ……。これ、本当に人間なの!?
完全にボスモンスターの領域だよぉ!』
脳内でトラ子とエク子の悲鳴に近い声が響く。
だが、その直後、俺の身体に奇妙な変化が起きた。
「……あ。身体が、軽い?」
先ほどまで俺の四肢を激しく縛り付けていたデバフの重圧と、全身を苛んでいたスリップダメージの激痛が、嘘のように綺麗さっぱり消え去っていた。
『――解析完了。敵が自己の肉体を強制ブーストさせ、理性を失ったことで、維持されていた魔法スキルの制御が破綻しました。
マスターにかかっていたデバフ、並びに嫌がらせスキルは全て解除されました!』
トラ子のアナウンス通り、俺の全ステータスは完全に戻った。
五体満足、万全の状態。これならいけるか、そう思ったのも束の間――。
「ギァァァアアアッ!!」
視界がブレた。
そう錯覚した瞬間には、目の前に巨大な肉の塊が迫っていた。
速すぎる。
デバフが解けたはずの俺の目でさえ、その踏み込みの瞬間を捉えきれなかった。
「しまっ――」
ドゴォォォォォンッ!!!!!
「ガハッ……!?」
異形化した玄弥の丸太のような腕が、俺の防御が間に合わなかった脇腹を正確に捉えた。
凄まじい衝撃波が庭園を吹き荒れ、俺の身体は地面を何度もバウンドしながら吹き飛び、柊本家の頑丈な石壁を背中から叩き割って、ようやく止まった。
「ゴホッ、ガハッ……!」
口から大量の血が溢れ出る。
ステータスが元に戻ったはずなのに、一撃で肋骨が数本砕け、内臓が激しく損傷したのが分かった。
今の玄弥の暴力は、俺の耐久力すら力任せに貫通してくる。
「ウガァァァッ!」
化け物は容赦なく、倒れた俺に向かって追撃の拳を振り下ろしてきた。
俺は必死に地面を転がってそれを回避する。直後、俺がいた場所の地面が、まるで爆弾でも落とされたかのように大穴をあけて爆発した。
巻き上がった土砂と石礫が、弾丸のようになって俺の肌を切り裂く。
(クソっ、なんだよこのデタラメな強さは……っ!)
なんとか立ち上がり、距離を取ろうとするが、化け物は文字通り一瞬で距離を詰めてくる。
ただの身体能力だけで戦う俺にとって、命を削って限界を突破した怪物の質量は、あまりにも荷が重すぎた。
殴る、蹴る、その全ての挙動が地形を変えるほどの天災。
防戦一方になり、じりじりと命が削られていくのがリアルタイムで伝わってくる。
(強い……。今の俺のステータスじゃ、まともに立ち合って勝てる相手じゃない……!)
血まみれになりながら、脳裏に絶望の二文字が過りかけた、その時だった。
『――力を欲するか?』
ドクン、と心臓が大きく跳ねた。
脳内に響いたのは、トラ子でもエク子でもない。
昏く、冷たく、底知れない漆黒の深淵から響くような、あの【強欲】のスキルの本来の 意志(エゴ) による、甘い囁きだった。
『力を欲するか、宿主よ。目の前の羽虫をねじ伏せる、圧倒的な覇王の力を。
……ならば、我に全てを委ねよ。
我に従えば、いかなる望みも叶えてやろう』
甘美な誘惑が、傷ついた俺の意識に深く染み込んでくる。
この誘いに乗れば、目の前の左京玄弥など一瞬で捻り潰せるだろう。
失ったスキルも、それ以上の化け物じみた能力も、全てが手に入るかもしれない。
(……いや、ダメだ! 拒絶しろ……!)
俺は必死に頭を振り、その囁きを拒絶した。
分かっている。ここで力を欲してしまえば、俺は自分という存在を完全に失う。
あの日、黒曜の森で暴走した時のように、強欲のスキルの言いなりになって、ただ破壊を撒き散らす本物のバケモノになってしまう。
そんなことになったら、美桜は、母さんはどうなる。
俺が戻るべき日常が、俺自身の手によって壊されてしまう。
だが、理性がそう叫ぶ一方で、現実の戦況は残酷だった。
ドゴォッ! と再び玄弥の拳が俺の肩を掠め、肉が削げ、鮮血が舞う。
(だけど、力を得なきゃ……このままじゃ絶対に勝てない……!)
勝てるかもしれない誘惑と、二度と戻れなくなるかもしれない恐怖。
相反する二つの感情の狭間で、俺の意識が激しく躊躇し、迷い、引き裂かれそうになった瞬間――。
不意に、周囲の爆音と破壊の衝撃が、嘘のように遠のいていった。